2020年5月3日(日)

    詩篇3篇1-8節「信仰の目をあげよう」

 皆さん、お元気でしょうか。新型コロナウイルス感染拡大と緊急事態宣言を受けて、教会に集う集会を行うことが出来なくなって約1か月が過ぎようとしています。お一人お一人の歩みが神様によって守られますようにと祈ります。この5月もどのようになるのか私たちには分かりません。しかし、確かなことがあります。それは、全能の造り主である神様が、私たちと共にいてくださるという約束です。
 星野富弘さんは、沢山の詩をを書いていますが、その中に「たいさんぼく」と言う詩があります。その詩の言葉は「人は、空に向かって眠る」で始まり、「寂しくて空に向かい、疲れ切って空を見上げ 勝利して空を見上げる 病気の時も 一日を終えて床に就く時も」」と続きます。そして「あなた(神様)が人を無限の空に向けるのは 永遠を見つめよと言っているのでしょうか」となっています。私たちは、多くの場合上を向いて横になり眠ります。嬉しい時に上を見ます。困難に直面したときに天を見上げます。がっかりした時にも上を仰ぎます。私は、富弘さんが言うように、これは神様が私たちに天にいるご自身を見るようにと言うメッセージであると思います。
 今日の聖書個所には、ダビデの天を仰ぎ見る信仰の勧めがあふれています。ともに学びましょう。

Ⅰ;目の前に広がる現実(1-2)
1節 主よ なんと私の敵が多くなり 私に向かい立つ者が多くいることでしょう。
2節 多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼には神の救いがない」と。

 私たちは、信仰の目を上にあげましょう。目の前に広がる現実が、どんなものであるにしてもです。

 詩篇3篇の表題は、この詩篇が書かれた背景を示しています。詩篇を読む時に、この表題を一緒に読むことをお勧めします。この背景を知ることで、よりその詩篇が身近に迫ってきます。詩篇3篇の表題には、「ダビデがその子アブサロムから逃れたときに。」とあります。これは、第Ⅱサムエル記15章から18章に書かれている事件のことです。後で読んでくださると良いと思います。

 ダビデは、イスラエルの将軍となった時、サウル王に命を狙われ逃亡生活をするという苦境に立たされました。その逃亡生活が終わり、ダビデがイスラエルの王となった後、しばらくして今度は、ダビデの息子のアブサロムが謀反を起こすのです。その時ダビデは、またも逃亡生活をすることになるのです。ダビデは、王宮を捨て、命がけで逃げ出した時のことをお振り返ってこの歌を歌うのです。
 1節と2節は、ダビデの率直な思いであり、彼が経験していた現状です。アブサロムが謀反を起こしたとき、多くの人がアブサロムに味方し、ダビデの側近も何人かダビデに敵対したのです。この時のダビデは、アブサロムと戦うのではなく、逃げることを選びました。ここで戦えば、イスラエルは、内戦状態に陥り、国が亡びることになることが分かっていたからでしょう。こうしてダビデは、突然、身内と家来に裏切られ、命を狙われ、逃亡することとなるのです。それだけでも大きな衝撃であり、悲しみですが、それに加えてダビデは、呪いの言葉を受けることになるのです。

 人は、生きていると多くの問題を経験します。家族の問題、職場の問題、地域との問題などなど様々です。その問題が、自分の失敗によるものであるなら、私たちは、問題を受け止めたり、克服することが出来るでしょう。けれども私たちが経験する問題、困難と言うものの原因は、人間関係のもつれや、感情のすれ違いなどによることが多いのではないでしょうか。そうなるとこれは、大きな衝撃となって私たちを襲い、心の力を失わせ、気力を健康を失わせることとなります。そして今私たちは、新型コロナウイルスという見えない敵との戦いの中にあります。これからの私たちの日々は、インフルエンザと同じように、この新型コロナウイルスが日常的に存在するという生活となります。それがどのような生活となるのか私たちには想像もつきません。

 ダビデは、言葉に言い表すことの出来ないショックを受けて、悲しみと絶望の中逃亡するのですが、その中でも彼の心は、目の前の現実に撃ち負けることはありませんでした。そしてダビデは、「しかし」と続けるのです。この「しかし」と言えるか、言えないかによって私たちの人生は大きく変わります。私たちが直面する現実の中で「しかし」と言える信仰を持つことはとても大切です。

Ⅱ;信仰で分かる神の世界(3-6)
3節 しかし 主よ あなたこそ 私の周りを囲む盾 私の栄光 私の頭を上げる方。
4節 私は声をあげて主を呼び求める。すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる。

 私たちは、ダビデと同じようにどんな時でも、特に困難や問題の中で「しかし」と言えるのです。そのようにして信仰で分かる神様の世界があるのです。ちなみに、3篇には「セラ」と言う言葉ありますが、これは、楽譜につく「休符」のようなもので、ここで呼吸をするとか、演奏法が変わるという合図のようなものだと言われています。聖書を朗読する時には、これは読まないものです。一呼吸おいて次の節に移る程度で良いのです。

 さて、ダビデは、私たちの想像を超えた状況にあります。自分の息子が謀反を起こし、側近がその仲間に加わり、軍隊をもって自分のいるエルサレムに来ようとしているのです。そこでダビデは、持つものを最小限に、エルサレムを抜け出し、逃亡生活に突入します。そんな八方ふさがりの中でダビデは、「しかし」と言うのです。彼は、目に映る現状は最悪かも知れない、「しかし」この状況を見ておられ、導きの御手を伸ばしてくださる天の神様がおられることを信頼し、信仰の目を上に、天に向けるのです。ダビデの周りには、付き従うしもべたちや勇者たちがいます。しかし隠れる家や城壁はありません。どこからも見つけられるような状態です。でもダビデは、主なる神様が「まわりを囲む盾であり、栄光」であることを知っていたのです。今ダビデは、意気消沈し、絶望と悲しみの中にうなだれ、力なく進みます。その足取りは、なんと重いことでしょうか。でも神様は、ダビデのその目を上に向け、高く上げてくださるのです。だからダビデは、嘆きの言葉ではなく、恨みつらみを吐き出すのではなく、「声をあげて、主を呼び求める」と告白するのです。そうです、ダビデは、自分の叫びを聞き、答えてくださる全能のお方がおられることを知っていたのです。そしてそのお方は、主なる神様です。天地を造られ、すべてを支配しておられるお方です。ダビデは、この神様が、自分を守り、支え、力となってくださることを知っていたのです。

 私たちは、人生の中で実に様々なことを経験します。それは、良いことだけではなりません。「どうしてこんな状況になるのか、なぜこんなことが起きたのか」と私たちには、どうしても理解できない、全く受け止めきれないことがあります。実は、そんなことだらけかもしれません。「しかし」なのです。そんな現状の中にあっても私たちは、「しかし」それでもなお目を上げることが出来るのです。それは、私たちを導き、支え、私たちを囲む盾となってくださる主なる神様がおられるからです。このお方を見上げているでしょうか。
 神様に目を向ける時、私たちは人知をはるかに超えた平安を味わうことが出来るのです。パウロも言っています。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6-7)」これは、気休めでも、はったりでもありません。神様が約束してくださる確かな恵みです。星野富弘さんの「泰山木」という詩を最初に紹介しましたが、星野富弘さんは、大けがをして首から下を動かすことが出来なくなってしまいました。そのような困難の中で信仰に導かれクリスチャンとなりました。この「泰山木」の詩は、富弘さんが見いだした真理だと思います。人は、空に向かって眠ります。うれしい時も辛い時も悲しい時も私たちは天を仰ぎます。神様は、そのように私たちに上を見上げるようにと促しているのではないでしょうか。

5節 私は身を横たえて眠り また目を覚ます。主が私を支えてくださるから。
6節 私は幾万の民をも恐れない。彼らが私を取り囲もうとも。

 ダビデは、そのことを身をもって体験したのです。詩篇3篇5節の言葉は、逃亡者にはあり得ないことです。ダビデは、アブサロムがいつ追いつくか分からないのですから、ゆっくり休むなんてことは出来ないはずです。けれどもダビデは、「身を横たえて眠り、また目を覚ます」と言うのです。何と言う大胆な人でしょうか。ダビデは、天下の大将軍であり、彼の周りには精鋭たちがいたからそうできたと思うでしょうか。決してそんなことはありません。確かにダビデは、大将軍です。しかし彼は、不安と恐れと絶望の中にいたのです。でも彼は、主が支え、主が自分を取り囲んで守ってくださるという安心がありました。その信仰があったので、ダビデは、どんな状況の中にあっても平安で過ごすことが出来たのです。

 私たちも、様々な困難の中にある時、「どうしたらよいだろうか?」と悩み戸惑う時、心の目を天に、主なる神様に向けましょう。神様は、私たちを取り囲む盾となり、城壁となり、守り支え、平安を与えてくださるのです。

Ⅲ;祈りで広がる日々(7-8)
7節 主よ 立ち上がってください。私の神よ お救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち 悪しき者の歯を砕いてくださいます。
8節 救いは主にあります。あなたの民に あなたの祝福がありますように。

 そのような歩みは、私たちを祈りの日々に導いていきます。そして私たちは、祈りによって広がる日々を歩むことが出来るのです。7-8節を一緒に読みましょう。

 私たちが、もし立ち上がれないと感じるならば、そのような時私たちは、「主よ 立ち上がってください」と祈ることが出来るのです。神様は、立ち上がり、私たちを導いてくださいます。
 多くの困難に囲まれ、逃げ道が見つからないと感じる時、「私の神よ お救い下さい」と叫び祈ることが出来るのです。神様は、私たちのすぐ側にいて、私たちに御手を差し伸べてくださいます。

 なぜなら、「救いは主に」あるからです。私たちが、力づくで道を切りひらくのではなりません。歯を食いしばって我慢し、努力と根性で乗り切るのではないのです。私たちは、私たちを確かに守り、力づけ、救い、導き、平安を与えることの出来る神様がおられるのです。私たちは、すべてを神様の御手に委ねることが出来るのです。

 私たちは、信仰の目を上にあげ、主なる神様を信頼し、その導きに委ね、平安を頂いて歩みましょう。神様の祝福がお一人お一人の上にありますように。