Ⅱテモテ1章3-14節 「御言葉を握って」

 毎年ノーベル賞の発表がありますが、昨年は、リチウム電池を発明した吉野彰さんがノーベル化学賞を受賞しました。吉野さんは、記者会見の中で科学に興味を持ったきっかけについて答えていました。吉野さんは、小学校4年生の時に先生から紹介された「ローソクの科学」と言う本を読んで化学に興味を持ったということでした。この「ローソクの科学」は、ノーベル化学賞を受賞する人は、おそらく読んでいるのではないかと言われています。この一冊の本が、吉野さんをノーベル化学賞へと導いたと言えるのではないかと思います。どこにどんな可能性があるのか分からないものです。と言って私が、今から「ローソクの科学」を読んでも、あまり意味はないかもしれませんね。
 しかし私たちには、いつでも、どんな時でも、誰でもその人生を変えることのできる言葉が溢れている本があります。それは、神の言葉である聖書です。神様は、聖書の言葉を通して私たちに力を与え、励ましを与えて下さいます。皆さんには、好きな御言葉、いつも励まされている御言葉があるでしょうか。私たちは、御言葉を握って歩むことの大切なをもう一度確認させて頂きましょう。

 

Ⅰ;信仰から信仰へ
5節 私はあなたのうちにある、偽りのない信仰を思い起こしています。その信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったも
    ので、それがあなたのうちにも宿っていると私は確信しています。

 私たちは、御言葉を握って歩み、信仰から信仰へと進んでいきましょう。
 パウロは、若い伝道者テモテに手紙を書いて、その働きを励ましています。パウロは、いつもテモテのことを思い出しては、夜昼祈っていました。テモテは、若い伝道者であり、少し臆病な所がありました。そしてパウロにとってはテモテは、息子のような存在でありました。だからパウロは、常にテモテのことを心にかけ、祈り続けたのです。そしてテモテが、力強く伝道できるようにと自分の信仰の起源を思い起こしなさいと勧めます。
 テモテが信仰に導かれたのは、まず祖母ロイスと母ユニケがクリスチャンになったことから始まります。祖母ロイスと母ユニケは、ユダヤ人です。ですから二人は、ユダヤ教の教えを守っていたと理解することも可能です。けれども、ここでパウロが取り上げているのは、ロイスとユニケが、イエス様を信じる信仰に導かれて、キリスト教信仰を持っていたということなのです。二人の信仰は、周囲の模範となるようなものだったようです。パウロは、テモテの信仰のことを「あなたの純粋な信仰(3)」と言っています。その純粋な信仰は、祖母と母のうちに見いだされたものなのです。彼女たちは、クリスチャンとして周囲の人々に証を立て、忠実に歩んでいました。その信仰が、テモテにも影響を与えたのです。テモテは、祖母ロイスと母ユニケの信仰を教えられ、それを自分のものとし、主を信じる信仰を持つようになったのです。

 テモテは、いつも自分の祖母と母親に感謝していたでしょうね。今日は、5月の第二日曜日で「母の日」です。6月には「父の日」があります。教会ではそれをまとめて今日、「両親への感謝」として礼拝をする予定でしたが、することが出来ません。しかし、私たちは、両親への感謝の心を持ちましょう。なかなか自分の親に「ありがとう」と言うことは恥ずかしくで言えないものですが、その気持ちを伝えてみてはいかがでしょうか。すでに両親を天に見送っていると言う方もおられるかもしれません。その方は、あり日にの両親を思い出し、その教えを振り返ってはいかがでしょうか。私たちは、両親から本当に沢山の愛を受けているのではないでしょうか。

 私たちが、信仰の恵みを受けることにも多くの方々がかかわっていたはずです。皆さんは、誰から福音を聞いたでしょうか。その方々の信仰は、皆さんの中でどのように働いているでしょうか。教会の中では、親がクリスチャンと言う人たちがいます。その人たちは、クリスチャンホームであることを神様に感謝していますか。私たちは、神様が両親を教会に導き、自分を教会に導いて下さっていることを感謝しましょう。家族の中で自分が始めてクリスチャンになったと言う人もいます。その方は、やはり神様がクリスチャンと出会わせて下さったこと、教会に導いて下さったことを感謝しましょう。私たちは、それぞれ神様の導きの中で教会に導かれ、御言葉によって教えられ、信仰を持つようになりました。その一つ一つを感謝し、主の栄光を仰ぎ見ることは、御言葉を握って信仰から信仰へと進む私たちの生き方を形作っていきます。
 そしてその信仰は、次の人に、次の世代に伝えられるべきものでもあります。私たちは、教会として次の世代が信仰へと導かれるように積極的に祈る必要があります。また、次の世代が信仰に導かれるためにもまず、私たち自身が御言葉に聞き、御言葉を握って主の御前にある信仰者として成長し続けることが必要です。

Ⅱ;福音を恥としない
7節 神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊を与えてくださいました。
8節 ですからあなたは、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音の
    ために私と苦しみをともにしてください。

 私たちは、「福音を恥とない」ためにも御言葉を握って歩みましょう。パウロは、「恥じてはいけない」とテモテに勧めています。これは、テモテが実際にクリスチャンであることを恥ずかしく思ったり、伝道者としての働きを嫌がっていたと言うことではありません。パウロは、テモテが福音の宣教を恥ずかしいと感じてしまうことがあるかもしれないと考え、励ましているのです。
 テモテが感じるかもしれない恥ずかしさとは、何でしょうか。テモテの時代は、ローマ帝国によってクリスチャンへの迫害が激しくなっている時代です。ですから、テモテは、「伝道するけれども誰も聞いてくれない、馬鹿にされるかもしれない」と感じてしまう可能性がありました。パウロ自身が十字架の宣教のことを「ユダヤ人にはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが(Ⅰコリント1:23)」と言っているほどです。テモテは、人々からバカにされ、相手にされないのではないかと言う不安を抱くかもしれません。また霊の父として慕う使徒パウロは、迫害によって度々捕らえられ投獄されています。テモテは、投獄されるようなパウロの仲間と思われることを避けたいという思いを持つかもしれません。この恥ずかしいという思いを抱くと、伝道は出来なくなるのです。

 皆さんは、自分が教会に行っていること、クリスチャンであると友達に話すこと、友達を教会に誘うことを恥ずかしいと思ったこと、抵抗を感じたことはないでしょうか。私は、あります。それは、高校を卒業して家を離れ新聞配達をしながら予備校に通い始める時でした。私は、新聞専売所の所長はじめ配達員の先輩たちに自分がクリスチャンであることを伝えなければなりませんでした。牧師である親からは、最初が肝心だからと言われていました。それは分かっているのですが、私は気が重いというか「別に言わなくてもいいんじゃないかなぁ」と言う気持ちにもなりました。私は、引っ越し当日新聞店に向かう電車の中で、祈りながら、自分がクリスチャンであることを伝える決心をしました。新聞店に到着し、私は所長さんご夫妻と事務の方に自分がクリスチャンであること、日曜日は教会に行くので、配達以外の仕事は出来ないと言いました。新聞店には、新聞配達意外に、集金や折り込みの作業や営業もあります。けれでも所長は、学生は勉強することが大切だから、新聞配達だけしっかりやってくれればそれで十分と言ってくれました。そして私がクリスチャンであること、教会に行くことを理解し受け入れてくれたのです。それは、先輩たちも同じでした。

 私たちは、クリスチャン人口の少ない日本に住んでいます。私たちがクリスチャンとして生きていくには、多くの戦いがあります。私たちは、創造主なる神様のことや救い主イエス様のこと、聖書の価値観を伝えようとする時、ちょっと遠慮がちになることがあるかもしれません。パウロにしてみたら、「何をそんなに遠慮しているんだい」と言われてしまうかもしれません。私たちは、自分が信じている福音を証しし、伝えるために勇気を必要とする時があるかもしません。そんな時私たちは、何が偶像礼拝で、何を神様が喜ばれるのかを祈りつつ、御言葉から教えられ知恵を頂いていくことが必要です。
 今、世界中が不安と恐れの中にあります。この先自分たちの生活がどうなるのか、誰も分かりません。私たちは、多く人たちがイエス様を信じることが出来るように祈りましょう。そしてお互いの家族が、イエス様を信じることが出来るように、お互いのために祈り合いましょう。家族に福音を伝えることは、一番難しいかもしれません。しかし私たちが福音を恥としないで生き、御言葉を握って主を慕い求め、喜んで主を賛美するならば、その信仰は必ず相手に伝わります。神様は、私たちを救い、導いてくださいます。神様が与えてくださった霊は、「おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」神様は、私たちが信仰者として生きていくために必要な力を与えてくださるのです。だから私たちは、御言葉を握って、励まされながら歩みましょう。

 

Ⅲ;御言葉を手本とする人生
13節 あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛のうちに、私から聞いた健全な言葉を手本としなさい。

 私たちは、御言葉を握って、御言葉を手本として歩みましょう。パウロは、テモテに何をもって人生の、そしてクリスチャンとしての土台とすべきかを教えています。パウロは、13節でテモテに自分から聞いた教えを手本とするようにと勧めました。テモテは、パウロから実に多くのことを教えられ学んだことでしょう。しかもパウロが教えていたことは、パウロが勝手に考えたことではなく、「健全な言葉」でした。これは、言うまでもなく「聖書の言葉」です。健全な教えとは、パウロが旧約聖書から学んだキリストの救い、聖霊によって導かれ教えられた福音の真理のことです。そしてそれは、今、旧新約聖書として私たちの手元にあります。パウロは、この聖書の御言葉を手本としなさいと勧めているのです。

 この「手本」と言う言葉は、「下絵とか詳細な設計図の前の略図」というような意味があります。テモテは、様々な事柄に対処するためにパウロから様々なことを教えられていました。テモテは、自分の歩みのためにパウロから聞いた言葉を手本として考えることが出来ました。それは、テモテにとって自分の進むべき道を示す道しるべになり、行く道の略図を示していくものとなったはずです。
 私たちは、礼拝での説教や聖書通読や、多くの信仰書などを通して聖書の御言葉を学びます。その学びは、丁度、自分の人生の下絵を書いているようなものです。また自分がこれから進もうとしている道の方向を確認するようなものです。そして私たちは、聖書の御言葉によって、さらに下絵に色をつけ、進む道の詳細な順路を確認することが出来るのです。

 聖書の御言葉は、私たちの心を探り、私たちの罪や弱さを指摘し、時に励まし、時に悔い改めに導いていきます。そして神様は、御言葉を通して、私たちにご自身を示しくださいます。
 御言葉に耳を傾けることは、信仰を受け継がせ、福音を恥とせず、感謝を持って歩み主を礼拝して生きていくために必要なことです。私たちが御言葉に耳を傾け、それを守る時、私たちの人生は、神様によって導かれていくのです。そしてパウロが「聖霊によって守りなさい」と言うように、聖霊なる神様は、私たちが御言葉に根差して歩めるように力を与えてくださいます。
 私たちは、御言葉を握って信仰から信仰へと進み、福音を恥としないで、御言葉を手本として人生を歩んでいきましょう。