2020年5月17日(日)礼拝 詩篇18篇25-32節

「主のほかに神はいない」

 私は、今年の1月に子どもたちと群馬県伊勢崎市にある大型ショッピングモールに買い物に出かけました。子どもたちの友達と一緒に買い物をしたいということで、その友達の家族と現地集合と言うことで出かけました。大きなショッピングモールですけれども、行くお店は決まっていました。買い物が終わりそろそろ帰るかと思っていたら、子どもたちがスターウォーズの映画を観たいと言い出しました。急遽予定を変更して映画鑑賞をすることとなりました。映画と言ったら、ジュースとポップコーンです。それらを買って上映会場に入っていきました。私は、映画全体の上映時間を考えて、少しずつ飲みますが、子どもはそんなことは関係なく一気に飲んでしまいます。すると「お代わりしてきていい?」と聞いてきました。私は、「そんなことは出来るわけないじゃない」と答えました。しかし私は、知らなかったのです。その映画館は、お代わり自由だと言うことを。時代は、変化しましたね。ジュースのお代わりが出来ることを知らなかったことで、損をしたような気持になったのはなんでなのでしょうか。
 本当の神様を知っているか、知らないかでは、大きな違いがあります。今日の聖書箇所は、主なる神様を知っていることの恵みを教えていると思います。今日は、詩篇18篇30、31節を中心にしながら、ダビデが歌った神様の導きを見ていきましょう。

 

Ⅰ;その道は完全
詩篇18篇30節 神 その道は完全。

 主のほかに神はいません。この神様が、示される道は、完全です。詩篇18篇30節は、「神 その道」とあります。神様が示されるその道とは、29節までで言われていることを受けています。この時、ダビデは神様の示される道に何を見ていたのでしょうか。
 そのヒントは、表題にあります。詩篇18篇は、ダビデが周囲の敵から救われた時、特にサウルの手から救われ逃れた時に歌った歌です。この同じ歌が、第Ⅱサムエル記22章に記されています。ダビデは、イスラエルの初代の王サウルから命を狙われ、命からがら逃亡生活をしました。ダビデは、信仰をもってただ神様にゆだねつつ、サウルの手を逃れていきます。その救いのみわざをダビデは歌いました。そしてこの歌の一部は、出エジプトを思い出させる内容にもなっています(18:6、10-19)。イスラエルの民がエジプトの地で苦役にさらされ、苦しめられた時イスラエルの民は、神様に叫び求めました。出エジプト2:25には「神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。」と書かれています。そして神様は、イスラエルの解放者としてモーセを選ばれました。実際にイスラエルの民がエジプトを出発する時、昼は雲の柱がイスラエルを導き、夜は火の柱がイスラエルを導きました(出エジ13:22)。こうしてイスラエルの民は、モーセを先頭にして意気揚々と出発をしました。しかし、しばらくするとエジプト軍が後を追いかけてきたのです。その時イスラエルの目の前は紅海と言う海が広がり、後ろにはエジプト軍と言う窮地になったのです。意気揚々と出発し、喜びにあふれ、やっと自由になったと思った矢先、その期待はもろくも打ち砕かれるのです。そのとき神様は、何をなさったのでしょうか。神様は、モーセに杖を紅海に伸ばしなさいと命じます。モーセが杖を伸ばすと紅海の水は、二つに分かれ、イスラエルの民は、渇いた海の底を渡ることが出来たのです。エジプト軍は、同じようにしようと海に入りましたが、神様は紅海の水を元に戻し、エジプト軍は飲み込まれてしまいました。神様は、モーセを通して大きなみわざを行ってくださいました。

詩篇18篇9節 主は 天を押し曲げて降りて来られた。黒雲をその足の下にして。

 ダビデは、詩篇18篇で単にこのモーセの時代の事を歌っているのではありません。ダビデは、自分が数々の窮地から救い出されたことを、出エジプトの時と同じように、神様の御力によることであると感謝をもって歌っているのです。それをダビデは、「主は、天を押し曲げて降りてこられた。(9)」と表現しました。モーセの時代イスラエルの民は、何度も神様につぶやいたり、時には、もうお手上げ状態になることを経験していました。神様は、その時々に応じて、御手を差し伸べ助け出されました。ダビデも数々の苦難を経験し、理不尽な道を通りました。しかし神様は、天を押し曲げて降りてこられダビデを不思議な奇跡によって助け出されました。

 皆さんは、この「天を押し曲げて降りてくる」という神様の様子をどのように思いめぐらしますか。私は、様々な状況の中で神様に手を差し伸べる私たち自身の姿を想像します。しかし私たちの指し伸ばす手は、なかなか神様に届かないのです。それは届かないと言うよりは、神様がどこにおられるのか分からないという私たちの弱さや限界と言ったら良いでしょうか。この届かないという状況の中で私たちは、神様との距離が縮まらないと感じるのです。そこで私たちは、さらに戸惑い、両手を差し出し必死に神様を探し回るようなことになります。神様は、そのような時に、天を押し曲げるようにして私たちの所に来てくださるのです。神様は、私たちの弱さや限界から感じる神様との距離をグッと縮めて手を伸ばして、みざわを行われるのです。このように示される神様の道、神様の方法は、正しく、完璧なのです(30)。だから私たちは、神様に祈ることが出来、神様の導きを求めるのです。神様のなさることに期待して歩みましょう。

Ⅱ;御言葉は純粋
詩篇18篇30節 神 その道は完全。主のことばは純粋。主は すべて主に身を避ける者の盾。

 主のほかに神はいません。この神様の御言葉は、純粋です。この純粋と訳された言葉には、ほかに「精錬する」という意味があります。神様の御言葉は、精錬された純度の高い金のように素晴らしいということなのです。

 皆さんは、「どろ団子」を造ったことがあるでしょうか。私は、小学1年の時によくどろ団子を作って遊んでいました。その当時住んでいた地域の土には、赤土が混じっていて、粘土のような土でした。ですから、どろ団子を作るのには、適している土でした。私は、どろ団子を作っては、壊しを繰り返し、気に入るものを作っていました。「どろ団子」は、作った時はただの泥のボールです。しかしどろ団子は、綺麗な丸い形を作ったところからが大切なのです。丸いどろ団子を作ったら、それを丁寧に磨いていきます。砂をかけては、磨き乾かし、砂をかけては磨き乾かしを繰り返すのです。ですからきれいなどろ団子を作るとしたら数日かかるのです。私は、何個か作って、誰にも見つからない場所にかくして完成させました。最初は、ただの泥の塊が、磨きをかけることで、綺麗な光沢のあるどろ団子に仕上がるのです。もし、どろ団子を作っている子どもを見かけたら、励ましたりして見守ってください。きっときれいなものが出来るはずです。
 ダビデは、どろ団子を作ることはなかったと思いますが、ダビデが見ていたものの中に、純度の高い金があったはずです。金も最初は単なる鉱石の塊です。その石の中には、金もあれば、銀もあり、不純物がたくさんあります。その金のもととなる石を集め、熱を加えて溶かし、冷ましを繰り返して、不純物を取り除き、金だけを取り出すことで、精錬された純金を作り出すことが出来ます。

 神様が、私たちに語ってくださる言葉は、神様の思い付きのような軽いものではありません。神様の言葉は、よく練られていて、私たちの心の奥の奥までも届くのです。詩篇19篇9-10節には「主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも慕わしく・・・。」と言われています。純金は、その辺のスーパーで売っているようなものではないでしょうから、めったに目にすることはないでしょう。しかし、純金が、びっくりするほど高価なものだということは分かります。ダビデは、イスラエルの王として多くの純金、しかも純度の高い純金を手にすることが出来て、その輝きを見ることが出来ました。そのダビデが、「神様の御言葉は、多くの純金よりも好ましい」と言うのです。
 神様が私たちを導く、御言葉の語り掛けは、どんな高価な宝石や金よりも好ましく、私たちの人生を輝きで満たすということです。私たちの人生が、神様の御言葉によって導かれるなら、その人生は、純金よりも素晴らしく、輝いたものになります。あなたの心は、この神様からの御言葉の輝きで照らされているでしょうか。私たちは、心に神様の御言葉と言う宝石を持ち、輝く日々を送ることが出来ます。そんな毎日を過ごしませんか。

 

Ⅲ;身を避ける者の盾
詩篇18篇31節 主のほかに だれが神でしょうか。私たちの神を除いて だれが岩でしょうか。

 主のほかに神様はいません。この神様に身を避ける者は、神様によって守れます。なぜなら神様が、その人の盾になってくださるからです。
 今年の東京オリンピックは、来年に延期されてました。オリンピックの中で人々の注目を集める競技にマラソンがあります。そのマラソン競技を見ていると、必ず「先頭集団」が形成されます。私は、なんであんなにまとまって走るのだろうかと不思議に思っていたことがあります。しかしよく考えてみると、ある程度まとまった集団の中に入って誰かの後ろにいると、風の抵抗を受けなくて済むのです。マラソンのように長距離を走る競技だと、風の影響は大きなもので、いかにして向かい風の影響を受けないように走るのかがポイントになるようです。だからおそらく、先頭集団の中では、色々な駆け引きが行われているのではないでしょうか。

 私たちは、人生と言う走路を走っています。その人生には、多かれ少なかれ、風が吹いています。時に突風が吹き、時に心地よい風になったりでしょう。罪の誘惑という嵐があったり、信仰に対する迫害という大風が吹くものです。また私たちの心や思いを揺さぶる試練という風が吹きます。毎週触れていますが、今まさに私たちは、大きな不安と恐れという問題の中にいます。私たちは、この不安や恐れをどのように乗りこえる事が出来るのでしょうか。ダビデは、私たちに、「神様と言うお方の後ろに隠れるように」と勧めています。神様は、主を信頼する全ての者の盾なって、私たちを守って下さるのです。神様に身を避け、人生を導いていただきませんか。神様は、私たちの盾となってくださいます。

 皆さん、ダビデはサウル王の手から逃れた時にこの歌を歌いました。その時ダビデの心の中には、神様がモーセと共におられ、数々の奇跡を通してモーセを助けてくださったという歴史の事実が思い浮かんでいました。なぜならば、神様は、モーセを助け守り導いたように、ダビデを助け守り導いておられたからです。神様は、モーセの時代に不思議な奇跡を行われました。そして神様は、ダビデの時も力強い御力をもって守り導いておられました。神様は、今、私たちにイエス様の十字架の救いと言うみわざによって罪の赦しを与え、私たちに御手を伸ばしておられます。モーセを助け守り導いた神様は、ダビデを助け守り導きました。そしてダビデを数々の奇跡をもって力づけてくださった神様は、時代を超えて今、私たちに多くの恵みと祝福を与え、守り助け導いてくださるのです。この主こそ、まことの神様です。