2020年5月24日(日)礼拝 ヨナ書1章1-16節

主の御顔を避けたヨナ

小川教会の皆さん、こんにちは。赤松由里子です、赤松勇二牧師は本日、代務者を務める西荻チャペルのオンライン礼拝でのご奉仕となります。西荻奉仕の際は、私が小川教会のみことばの奉仕を仰せつかっております。今後もこのような機会があるかと思いますので、よろしくお願い致します。
 さて皆さん、旧約聖書のヨナ書を読んだことがありますか。あります、という方、どんな内容を思い出すでしょうか。大きな魚に飲み込まれてお腹で過ごし。嵐から救われた話を思いだすかもしれませんね。童話ピノキオにも同じような場面がありますが、ヨナ書の話がモチーフになっているそうです。また主人公のヨナが神様に従わなかった預言者ということも、ご存知かもしれません。ヨナ書が書かれた目的は、ヨナの身に起こったエピソ―ドから学ぶことだと思われます。
 今日はそのヨナ書1章から、信仰者の内にある不従順の問題と、そのような者に対する神のお取り扱いを学んで参りましょう。

1.不従順なヨナ(1~3節)

 預言者としてのヨナは、あまり頻繁に聖書に登場しません。ヨナ書と第二列王記14章にわずかに登場するたけです。第二列王記では「イスラエル王国の失われていた領土が回復される」と預言しています。とても愛国的な人物と推測されます。この次に登場するのがヨナ書です。

 ヨナに神様の言葉が臨みます。「立ってあの大きな都二ネべに行き、これに向かって叫べ。」(2節)
 これはすなわち、二ネべに対し、悔い改めなければ神の裁きによって滅びると警告せよ、ということです。ところがヨナはこの命令に従おうとしませんでした。主の御顔をさけて逃れようとしたのです。行って預言せよ、という預言者なら当たり前の役割にどうしてヨナが従わなかったのか、不思議です。しかし、ヨナの時代を知るならば、少しは理由が分かって参ります。

 時は紀元前8世紀、イエス様のおうまれから800年ほど前のこと。当時のイスラエル民族は、2つの国家に分裂していました。一方はサマリヤを首都とする北方のイスラエル王国。もう一方はエルサレムを首都とする南のユダ王国です。当時、イスラエルとユダの同胞間の戦争がありすさんだ時代でした。国の外に目を移せば、アッシリア王国(首都二ネべ)などの強国に領土が脅かされる状態でした。ヨナにとって二ネべとは、憎んであまりある存在でした。ヨナは、二ネべは神の怒りで滅ぼされた方がよい、と思っていたのかもしれません。
 ヨナは言葉に出して拒絶はしませんが、従う代わりにタルシシュへ逃れようとします。二ネべは現代のイラクのあたりで、イスラエルから見ると内陸部です。行くなら陸路です。しかしタルシシュは、地中海沿岸部と考えられています。船に乗り海路でいくしかありません。ヨナは二ネべとは正反対の方向に逃れようとします。それは、神の御旨を実行する必要のない所に行こうとした、ということです。自分はその務めを受けたくない、他の人にさせてほしい、という気持ちかもしれません。

 「主の御顔を避けた」とありますが、これはヨナ書の大切なキーワードです。1章に何度も出て来るのは、それが重要な意味を持つからです。みことばに従わない時、人は神の御顔を仰ぐことが出来なくなってしまうのです。神様はうわべだけ取りつくろっても満足なさいません。本日の中心聖句にこうあります。「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Iサムエル15章22節)
 「主を信じています」という告白には、「主のみことばに従います」という実質が必要です。「このみことばには従いきれないなあ。」と思ったことが1度や2度はあるかもしれません。また、神のみおしえにそぐわない習慣や態度、あるいはこの世への妥協などがあるかもしれません。しかし、みことばから逃げたとしても、そこに平安はありません。不従順な歩みには喜びがありません。主の御顔は避けるものではない、親しく見上げさせて頂くものです。心の目をまっすぐに神様にむけませんか。そしてみことばを素直に受け入れ、平安を頂こうではありません

2.取り扱われる神(4~16節)

 ヨナは神様から逃れたつもりでしたが、神様の御手が伸ばされてきます。それは大嵐によるものでした。「ところが、主が大風を海に吹き付けられたので、激しい暴風が海に起こった。」(4節)
 この嵐は難破しそうなレベルのシケであり、百戦錬磨の水夫たちにも大変な恐怖を与えます。異教徒たちですが、それぞれの神に祈り、また眠りこけているヨナを起こして自分の神に祈るよう働きかけます。原因をしるべくくじを引くとヨナにあたり、神への不従順がこの災い原因であることが、すべての乗員に明らかになります。

 ヨナには神の怒りと裁きが追いかけてきた、と思えたでしょう。「彼は自分を海に投げ込めば嵐は静まる」と言いました。しかしそれは、悔い改めのことばではありませんでした。悔い改めならば主に祈り、「お赦しください、私は二ネべに参ります」と言うでしょう。ここにはむしろ、「二ネべに行くなら死んだ方がましだ」といわんばかりのヨナの気持ちが表れているように思えます。
 人生に嵐のような苦痛が訪れると、私たちは「ああ、もうだめだ。神様に見捨てられてしまった。」と思いがちです。そして心を頑なにしてしまうことがあります。しかし私たちの神様は、罪人を見放さないお方です。また何者にも替えがたい存在として、私たち一人一人を見ておられます。

 この嵐にはヨナを悔い改めに導き、彼をその独自の使命に連れ戻そうという、神の恵みがこめられていました。船底に隠れ、祈りを忘れ、役割を放棄したヨナの姿は、惨めでもあります。そういう姿に留まることを、主はよしとされないのです、悔い改めて針路を変え、神と共に歩み、輝く。神様はそのために、私たちを追いかけてきてくださるのです。私たちに嵐が吹き荒れる時があったとしても、そこに恵みのメッセージを見いだしたいと思います。

無実ではないかとためらいつつも、水夫たちはヨナを海に投げ込みます。すると嵐は静まりました。彼らにはヨナは死んだものと思われました。しかし神様には違うご計画がありました。1章17節には「主は大きな魚を備えてヨナを飲み込ませた」とあります。神様が信仰者に恵みを備えて下さることが、さらに明らかになっていきます。
 今週、私たちはこの恵みの主に信頼を新たに致しましょう。そして御顔を親しく見上げて歩みましょう。