使徒の働き2章1-13節 「聖霊に満たされて」
私は、高校を卒業した後、川崎市多摩区で新聞奨学生として新聞配達をしながら予備校と専門学校に通いました。新聞配達の軒数は、1年目が200軒くらい、2年目は地区が代わり250軒程、3年目になると350軒と徐々に増えていきました。また配達出来る区域が多くなると、休みの人の代わりに配達することがあるのです。時には、自分の区域350軒に加え他の区域の半分を配達することもありました。そのお店では、複数の新聞(一般紙、スポーツ紙、経済紙、英字新聞など)を扱っていました。当然、家によって配達すべき新聞は違います。最初は、配達用の帳面を見ながら配達し、覚えてくると帳面を使わず配達します。毎日同じ家に配達しますから、慣れてくると表札を見なくても、門の様子、ドアの様子などで配達するべき家を確認します。特にポストの特徴は重要な事となります。マンションやアパートを配達している時、時々、「このポスト違うな」と分かることがありました。マンションですからどこも同じドアで同じドアポストなのです。でも違うのです。「いつも見ている傷がない」とか「こんなに半開きではなかった」とかです。そのよな時、部屋番号を確認すると違う部屋だとうことがありました。それは、私の直感とかではなく、帳面を見て覚えていたし、毎日よく見ているからということが大きいのです。
私たちは、クリスチャンとして歩んでいる中で、聖書の言葉が理解できたり、神様が近くにいてくださると感じることなどがあるかもしれません。その一つ一つは、自分の知恵や偶然ではありません。聖霊なる神様の働きです。今日はペンテコステ、聖霊降臨日です。今日私たちは、人生を導く聖霊なる神様に心を向け、満たされて歩む一歩を踏み出して行きましょう。
Ⅰ;五旬節の日に
1節 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2節 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体い響き渡った。
3節 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
4節 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
私たちは、聖霊に満たされて歩みましょう。弟子たちは、使徒2:1にあるように五旬節の日に突然聖霊を受けました。「五旬節」をギリシャ語では「ペンテコステ」と言います。これには、50番目、50日目という意味があります。このペンテコステ(五旬節)に起きた出来事なので、教会歴では、聖霊降臨のことを「ペンテコステ」と言います。
もともとこの日は、ユダヤ人にとって大切な祭りのひとつでした。ユダヤ人たちには、三つの大切な祭りがあります。最も大切にしているのは、出エジプトを記念して守るようにと定められた「過越しの祭り」です。二つ目は、荒野での生活と主の導きを忘れないようにと定められた「仮庵の祭り」です。そして三つ目が「ペンテコステ」です。この祭りは、小麦の借り入れの祭り、小麦の収穫の感謝の祭りとも呼ばれます。イスラエルの民が約束の地に入り、天からのマナではなく、地の収穫物を得ることが出来る感謝の祭りです(レビ記23章)。
この五旬節の祭りの時、ユダヤ人たちは、礼拝のためにエルサレムに集まるのです。使徒2章5節で「さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいた」と、やや大げさな言い方がされています。これは、巡礼のために大勢のユダヤ人たちや改宗者たちが集まっていたと言う事であり、また多くのユダヤ人たちがエルサレムで生活するために移住していたという状況を説明しています。とにかく、この五旬節の時、多くの人々がエルサレムに集まっていたのです。神様は、大勢の人たちが集まる時を選んでご自身のわざを行われたことになります。
何が起きたのかを見ることにしましょう。イエス様は、「ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるです。(使徒1:5)」と言われました。その通りに、弟子たちは、聖霊のバプテスマを受けたのです。イエス様を天に見送った弟子たちは、その後10日間エルサレムに集まり、祈りに専念していました。イエス様の昇天から10日後、イエス様の復活から数えると50日目に、突然、約束の成就の時が訪れました。この日も弟子たちは、1か所に集まっていた祈っていました。すると突然、彼らのいた家全体に響き渡る風のような音が起こりました。実際に風が吹いたと言うのではなく、激しい風が吹いてきたような音が響き渡ったのです。そして炎のような分れた舌のようなものが現れ、そこにいる一人一人の上に留まりました。弟子たちは、聖霊を受けると言う出来事を、耳で聞き、目で見て、そして体で感じることが出来たのです。激しい風のような響きで、彼らのいた家は、振動したでしょう。神様は、そのようにして、疑う余地のないほどの確かな方法を用いられました。その瞬間、その場にいた全員が聖霊によるバプテスマを受けました。彼らは、聖霊を受け、そして聖霊に満たされ、聖霊が話させてくださる通りに他国の言葉(異言)で話だしました。
こうして五旬節の日、弟子たちは、聖霊を受け、聖霊なる神様の臨在に満たされ変えられ、教会が誕生したのです。これが五旬節の日に起きた出来事です。今私たちは、聖霊なる神様によって導かれ歩ませて頂いていることを覚えましょう。
Ⅱ;信じる全ての人に
17節 神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻をみ、老人は夢を見る。
18節 その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。
私たちは、聖霊に満たされて歩みましょう。そのために私たちは聖霊を受ける必要があります。それは、今どのように与えられるのでしょうか。皆さんは、「聖霊のバプテスマを受けていますか?」「あなたは聖霊を受けていますか?」と改めて聞かれたら何と答えるでしょうか。私たちは、聖霊のバプテスマを受けているのでしょうか。そしてそもそも、聖霊を受けるとはどのようなことなのでしょうか。
まず、「聖霊のバプテスマを受けているか」という事に関しては、イエス様を信じる全ての人が聖霊のバプテスマを受けていると答えることが出来ます。パウロは、Ⅰコリント12:3で「ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者は誰も、『イエスは、のろわれよ』と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言う事はできません。」と言っています。パウロが言おうとしていることは、誰一人、聖霊によって導かれなければイエス様を救い主と信じることは出来ないと言う事なのです。言い換えると、私たちが罪を認め、悔い改め、イエス様を救い主と信じたのは、聖霊を受けたことの証拠なのです。
私たちが、聖霊のバプテスマを受けるためには何かをする必要があるのでしょか?何も必要ではありません。弟子たちの様子を見ても分かるとおりです。弟子たちは、何もしていませんでした。五旬節の日に「今日は聖霊に満たされよう。そのために懸命に祈ろう」と考えていた訳ではありません。弟子たちは、何も知らなかったし、その日に起こることなど予想もしていなかったのです。私たちは、聖霊の満たしを受けるために、滝に打たれ、精神統一が必要なわけではありません。何か呪文のようなものが存在するわけでもありません。何か悟りを得たら聖霊を受けられるということでもありません。
私たちは、罪の赦しについて努力を必要としませんでした。神様は、罪の赦しのために、私たちに対して「良い人間になること、一生懸命正しく生きること」を求めることはありません。私たちのする事は、神様が与えて下さるイエス様の十字架の救いを信じて受け取るだけです。その瞬間、私たちの罪は赦され、永遠のいのちを得ることが出来るのです。実は、この信仰の道を明らかにし、私たちを導いて下さるのが聖霊なる神様なのです。私たちは、聖霊様の助けによって聖書を知ることが出来ました。そして私たちは、聖霊様の助けと導きによってイエス様の十字架の救いを信じ、自分が罪人であることを認めることが出来たのです。だから皆さんがイエス様を救い主と信じた時、聖霊のバプテスマを受けたのです。
そのことはペテロの説教の中でも触れられています。彼はヨエル書の預言の言葉を引用して、神様の約束の預言が成就したと言います。神様は「その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。・・・・(使徒2:18)」と約束して下さいました。この約束が、ペンテコステの日に成就したのです。それ以降、信じる全ての人が聖霊を受け、聖霊の証印を押されているのです。皆さん、一人一人、聖霊を受けています。そのことを私たちは、しっかりと覚えておく必要があります。今、聖霊なる神様が、私たちの心の内に住んでくださり、私たちを支配してくださるのです。その時私たちは、神様の臨在やイエス様の救いの恵みなど多くの真理を知ることが出来ます。イエス様を救い主と信じる全ての人は、聖霊を受けています。私たちは、聖霊様の働きと導きによって、信仰に導かれたのです。そのことを感謝して歩みましょう。
Ⅲ;聖霊に導かれて歩む
使徒1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。
ガラテヤ5:22‐23 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。
私たちは、聖霊に満たされて歩みましょう。それは、どのような歩みとなるのでしょうか。今日は、イエス様ご自身の言葉とパウロの言葉に目を向けていきましょう。
イエス様は、天に昇られる前に「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります(使徒1:8)」と言われました。まず、聖霊なる神様に導かれる歩みとは、イエス様の十字架の福音を証しする歩みとなることが分かります。それは、イエス様の十字架の恵みを感謝し、喜びに満たされ、イエス様を喜ぶ人生へと私たちを導きます。聖霊なる神様に導かれる時、私たちの人生は、イエス様を力強く証しするものと変えられるのです。
二つ目に注目したいみことばは、パウロが語っている「御霊の実(ガラテヤ5:22-23)についてです。私たちが聖霊に満たされ、導かれて歩むとき、それがどのように具体的に現わされるべきなのかを教えているみことばの一つです。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」皆さんが、よくご存じだと思います。私たちは、このみことばをどのように受け止めているでしょうか。もし、「私は、神様の愛を受けた。私は神様からの喜びを与えられた。神様の平安を受けることが出来た。聖霊様によってそのことを知ることが出来て感謝です。」で終わりにしていたら、それはとても残念な結果になるでしょう。確かに、私たちが、神様の愛に満たされ、喜びに溢れ、神様に導かれ励まされることは大切です。しかしもっと重要なことがあるのです。それは、「私は、愛の人となっているだろうか。周囲の人は、私を通して神様の愛を知ることが出来ているだろうか。」と考える事です。私たちは、「私たちを通して神様からの喜びが周りに広がること、私たちの言葉が神様の平安を証しするものとなること、そして自分は、神様の寛容を示すことが出来ているのだろうか」と考え、そのような者と変えて頂くことが大切です。それが御霊の実を結ぶということです。聖霊なる神様の助けを受けて、具体的に御霊の実を結ぶ者とさせていただきましょう。そのために私たちは、心を開き祈り続けましょう。
確かに聖霊なる神様は、私たちの心のうちに住んでおられます。しかし、私たちがいつでも聖霊様の導きの中を歩んでいるかと言うのは、別の問題です。言葉を変えると、聖霊を受けたら、自動的にいつでも聖霊に満たされて歩んでいるわけではないと言う事です。私たちは、イエス様を信じてクリスチャンとして歩みます。けれども常にイエス様を意識し、イエス様に喜ばれる事をしているわけではない現実があります。聖霊に満たされることも同じなのです。私たちは聖霊を受けています。しかし、聖霊の導き無しで生きたり、自力で何とか人生を切り開こうと考えることがないわけではありません。だからパウロは、何回も「聖霊に満たされなさい」と勧めるのです。私たちは、聖霊なる神様に満たされ続け、御霊の実を結び続ける生き方へと変えられ続ける必要があるのです。
私たちは、聖霊なる神様の導きによって、イエス様の十字架の救いを知り、信じることが出来ました(出来ます)。そして私たちは、聖霊に満たされて日々歩むことが出来ます。私たちは、自分の心を聖霊なる神様の臨在で満たされ、御霊の実を結び、イエス様の救いを証しする者とさせていただきましょう。