2020年6月7日(日)礼拝説教 詩篇22篇1-11節

 6⽉を迎え、2020年も半分に差し掛かっています。この半年は、あっという間に過ぎていたような気がします。そして6⽉だというのに最⾼気温が30度になろうかとする異常な暑さです。今年の夏は、どうなってしまうのでしょうか。熱中症にならないように気をつけてください。
 今各テレビ局は、撮影の収録が出来ずに、過去の映像を使って番組を構成しています。中でも多いのは、歌番組のような気がします。⾳楽は、私たちの⽣活に⽋かすことの出来ないものですので、⾳楽が流れることによって励ましにもなり、活⼒にもなります。私は、80 年代、90 年代の曲が流れると懐かしいなぁと思い、「ほっと」した気分になります。
 私たちの⼼を内側から勇気づけるものがあります。それは、神様への賛美です。私たちは、神様を賛美する時に知ることの出来る⼤きな慰めがあるのです。詩篇22篇は、ダビデの経験から作られた賛美だと思われますが、聖書の中には特定できる出来事を⾒出すことが出来ません。しかし、ダビデは、⾃分の経験だけではなく、キリストの受難と救いの恵みについて預⾔してこの詩篇を書いたということは、はっきりとしています。なぜならば、この詩篇22篇のいくつかの⾔葉は、福⾳書、特にイエス様の⼗字架の場⾯で成就しているからです。私たちは、このダビデの詩篇の中で、苦難から賛美へと変えられているダビデの姿を⾒ることが出来ます。それは、また、私たちにも当てはめて⾒ることが出来る事柄です。

Ⅰ;ダビデの率直な叫び

1.わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず 遠くに離れておられるのですか。 私のうめきのことばにもかかわらず。
 …
3.けれども あなたは聖なる方 御座に着いておられる方 イスラエルの賛美です。
4.あなたに 私たちの先祖は信頼しました。彼らは信頼し あなたは彼らを助け出されました。

 まず、1節の叫びが⽬に留まります。これは、ダビデの率直な叫びだったのでしょう。彼は、いつも感じていた神様の臨在を感じることが出来なくなっていたのです。⾃分の祈りの⾔葉も神様に届いていないのではないかと思うほど、ダビデの⼼は疲れ切っていたと⾔っていいのではないでしょうか。6節からの⾔葉を⾒ると、ダビデは、⾃分の置かれている⽴場、⾃分の⼒の弱さを痛感し、悲観的になっています。ダビデは、⼼の底から神様から⾒捨てられ、何の助けもないと考えていたのです。でもダビデは、その中で⼤切なことに気づきます。それは、イスラエルの⺠は、その歴史の中で神様に信頼してきたこと、そして神様は、イスラエルの⺠をとことん、守り導き助け出されたという事実です(3-5)。
 このダビデの発⾒は、私たちにとっても⼤切なことではないでしょうか。私たちは、時にダビデのように率直に「わが神、どうして」と叫ぶ時があります。5⽉25⽇に緊急事態宣⾔が解除され、休校だった学校が始まりました。社会が動き出しています。しかし、そのような中で新たに新型コロナウイルスの感染が広がっているという現実があります。そのような中で私たちは、この先どのようになるのか不安があります。世界中に新しい感染症が蔓延する中、「神様は何をしておられるのだろうか」と疑問に思う⼈もいると思います。私たちは、神様のなさることを100%知ることが出来ません。そして神様が、どのような⽬的を持って私たちを、皆さん⼀⼈⼀⼈を導こうとしておられるのかその全てを知ることは出来ません。私たちには、常に不安があり、恐れがあります。けれどもダビデは、それだけではないと私たちに教えています。それは、神様は、神様を信じる全ての⼈を守り、導き、助け出してこられたという事実です。そしてそのクリスチャン⼀⼈⼀⼈が、神様に信頼し平安を得ていたということです。

 さて、1−8節の部分でキリストの⼗字架に関する預⾔的な部分はどこでしょうか。⼀つは、「わが神、わが神、どうして、私をお⾒捨てになったのですか」という1節の叫びです。イエス様は、⼗字架上で全く同じ叫びをしています(マタイ27:46)。けれどもイエス様の叫びは、ダビデのものとは異なっていました。ダビデは、叫びの中で神様の守りと助けを⾒出すことが出来ました。けれどもイエス様が⼗字架で叫ばれた叫びは、完全に神様に捨てられるという状況の中での叫びです。
 そしてそれは、実は、私たちが叫ばなければならないものなのです。私たちは、神様の御前にあって罪のある者です。私たちは、⽣まれる前から神様に知られていました。けれども私たちは、神様を知らず、神様を悲しませ、神様に背を向けて歩んでいるのです。そしてその罪に対しては、神様の永遠の刑罰が定められています。誰もその刑罰を逃れることが出来ません。私たちは、⾃分の罪のために神様から⾒捨てられ、滅ぼされるという絶望の叫びをしなければならない者でした。けれどもイエス様は、私たちの罪を背負ってくださり、私たちが神様に捨てられ裁かれ、絶望することのないようにと、私たちの代わりに叫んでくださったのです。
 そしてさらに、イエス様の⼗字架で成就した預⾔は、詩篇22篇8節です。祭司⻑たちは、イエス様をののしりました。マタイ27章40−43節です。私たちもイエス様を信じる前は、同じようにイエス様を⾒下し、認めず、気にもかけていなかったでしょう。イエス様は、⼗字架から降りることなど簡単でした。でもそれをしませんでした。
 それは、私たちの罪のためです。イエス様は、最後まで私たちを愛しぬいてくださったのです。

Ⅱ;神様に知られている

9.まことに あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房により頼ませた方。
10.生まれる前から 私はあなたにゆだねられました。母の胎内にいたときから あなたは私の神です。

 今⽇⾒る⼆つ⽬のことは、神様に知られているという恵みです。私たちは、苦悩の中にあっても、それが賛美に変えられるという約束があります。そしてそのために、ダビデは、ひたすら⼼を神様に向けて祈るのです。なぜならば、ダビデは、⾃分が神様によって造られ、守られていると⾔うことを知っていからです。
 その事実を知っていたダビデでしたが、彼が直⾯する現実は相当なものだったのだと想像することが出来ます。詩篇22篇11−18節のことは、⼀⾒何を⾔っているのか分からないかもしれません。ダビデの個⼈的な苦しみの状況とも理解することが出来ます。しかし最終的には、ダビデがここで⾔っていることは、イエス様の⼗字架の時まで隠されていたと⾔っても良いでしょう。ここで表現されている様⼦は、⼗字架上のイエス様の苦しみを預⾔して語っているのではなかと思うのです。イエス様は、⼗字架の上で私たちの罪のために苦しみを受けてくださいました。14節から17節の描写は、実に⼗字架の苦しみを表現していると思います。
 そして18節です。イエス様が⼗字架にかけられた時、ローマ兵はイエス様の着物をくじ引きして分け合いました。ダビデを通して語られたことが、イエス様の⼗字架によって成就していくのです。そして詩篇22篇22節の御⾔葉は、へブル2章12節で引⽤され、私たちが信仰によってイエス様と⼀つとされ、イエス様が私たちのことを兄弟姉妹と呼ぶことを恥としないと宣⾔されているのです。

 このように語るダビデは、多くの苦悩を経験し、⾝も⼼もボロボロになるのです。しかしダビデは、その苦しみの中で神様の臨在を知り、神様が共にいてくださり、常に変わらず導いてくださることを知ったのです。そして⾃分が神様によって造られ、⽣かされ、神様の御⼿に守られていると⾔う事実を発⾒するのです。だからダビデは、「主よ。」と祈り求めることが出来たのです。
 皆さん、私たちも、神様に知られています。私たちは、⽣まれる前から神様に知られていて、神様の御⼿の中にあるのです。神様が、私たち⼀⼈⼀⼈に命を与えてくださいました。神様が、皆さん⼀⼈⼀⼈を⺟の胎内に形づくってくださったのです。私たちは、⽣まれる前から神様に知られていて、「天地の造り主こそ私の神です」と告⽩出来るのです。本当に素晴らしいことです。そして神様は、私たち⼀⼈⼀⼈に対して御⼿を差し伸べ、守り導いてくださるのです。神様は、私たちに命を与え、地上に⽣まれさせて、後は知らんぷりをするような⽅ではありません。神様は、私たちのことを、とことんまで愛し続け、共にいてくださるのです。

 だから私たちは、ダビデと同じように「主よ。」と祈り続けることが出来るのです。そしてその祈りは、神様に届くのです。神様は、私たちの叫び祈る声を聞き、答えてくださるのです。皆さん、そのことを信じますか。

Ⅲ;⼼からの賛美

23.主を恐れる人々よ 主を賛美せよ。ヤコブの裔よ 主をあがめよ。イスラエルのすべての裔よ 主の前におののけ。
24.主は 貧しい人の苦しみを蔑まず いとわず 御顔を彼から隠すことなく 助けを求めたとき 聞いてくださった。
25.大いなる会衆の中での私の賛美は あなたからのものです。私は誓いを果たします。主を恐れる人々の前で。

 ダビデは、この神様の約束を経験しました。だからダビデは、苦悩から賛美へと変えられるのです。ダビデは、「わが神、わが神、どうして、私のお⾒捨てになったのですか」と叫びました。ダビデは、神様の臨在が分からず、どこにも救いがない状態で、苦しみだけが⾃分に迫っていると思われました。しかし神様は、そのような中にあってダビデと共にいてくださり、ダビデの祈りに⽿を傾け、救い出してくださるのです。その神様の救いを知って、ダビデは、主を賛美するようにと叫ぶのです。最後の31節は、「主が義を⾏われた」と⾔う⾔葉で終わっています。これは、イエス様の⼗字架上の⾔葉の「完了した」と⾔う⾔葉と響き合っているような思いを持ちます。こうして救いのみわざは、完了したのです。

 さて、皆さん、ダビデが私たちに賛美を勧める⾔葉の中に私たちへの⼤きな慰めがあります。ダビデは「主を恐れる⼈々よ。・・・ヤコブの裔よ。・・・イスラエルのすべての裔よ。・・・(23)」と主を信じる全ての⼈に「主を賛美せよ」と勧めます。なぜなら、すでに⾒てきた事ですが、神様は、私たち
の祈りを退けず、御顔を隠すこともせず、私たちの叫びを聞き、答えてくださるからです。この約束は、どんなことがあっても失われることはありません。神様は、私たちの⽣活のただ中にいてくださって、私たちの⼼のうめきをちゃんと聞いてくださっているのです。

 また、賛美は神様から与えられるものです。ダビデは「⼤いなる会衆の中での私の賛美はあなたからのものです。(25)」と⾔っています。神様は、私たちの⼼の内に賛美への思いを与えてくださり、私たちを賛美へと導いてくださるのです。今、私たちは、ともに集まることが出来ずにいますが、共に集まるための備えを始めようとしています。⼀緒に集まって礼拝出来たとしても、歌を歌うことは控えなければならないかもしれません。今は、みんなで⼀緒に⼤きな声で、思う存分賛美をする事が出来ない状況です。しかし、私たちの⼼から賛美がなくなることはありません。私たちは、賛美を⼝ずさみ、⼼の中で主への賛美を思い巡らすことが出来ます。賛美は、主から与えられるのです。
 ダビデは、暗闇のような経験をしています。神様の臨在が分からないほどの経験です。しかしダビデは、苦悩から賛美へと導かれ主を褒め称えるのです。同じように神様は、私たちの嘆きを賛美に、私たちの涙を喜びに、私たちの悲しみを感謝に変えてくださいます。イエス様は、私たちの苦しみを知り、私たちの苦しみを担い、救いと平安を与えてくださいます。神様は、私たちの祈りを蔑まず、御顔を隠すことをせず、私たちの声に⽿を傾けてくださるのです。主を⾒上げて歩みましょう。