2020年6月14日(日)礼拝説教 ルカの福音書4章31-41節

ルカの福音書4章31-41節 「御言葉への新鮮な驚き」

 緊急事態宣言が解除されて、本日から教会に集まっての礼拝のみ再開する事となりました。これまでのご理解とご協力を感謝致します。けれども、まだ新型コロナウイルスの感染が終息したわけではなく、これからもどうなるのか分からない状況です。教会に集うようにする時、感染防止のために皆さんにはご苦労をおかけすることとなってしまいます。どうか、引き続きご理解とご協力をよろしくお願いします。
 教会学校もまだ、再開できませんので、礼拝は、子どもも一緒の礼拝とします。共に主の御前に出られることを感謝しましょう。そして、最初に子どもたちのために短くお話をします。その後、さらに適用という事でメッセージを続けたいと思います。

 

(子どもたちへ)

 皆さん、おはようございます。皆さんの学校は、6月から再開していると思います。学校はどうですか?新しいクラスの友だちは、どうでしょうか?学校では、3密を避けるために、「クラスを二つに分けての分散登校や友達と距離を置いて座る教室、マスクをつけて過ごすことなど」色々な工夫がされているでしょうね。学校が始まるときクラスの担任の先生からいろいろと注意事項が伝えられたと思います。覚えていますか?先生の言葉を聞いていないと、次に何をしたらよいのか分からなくなりますよね。皆は、ちゃんと聞いているかな?
 今日は、イエス様の教える言葉に驚いた人たちが出てきます。

 イエス様は、ご自分の働きの拠点(中心)に、カペナウムと言う町を選ばれました。このカペナウムの町は、ガリラヤ湖に面している場所にあります。ある安息日の時イエス様は、カペナウムの町の会堂に入って聖書の言葉を教えられました。聞いていた人たちは、とてもビックリしました。それは、イエス様が堂々と大胆に、神様の権威をもって話したからです。イエス様は、神様ですから、聖書の言葉を正確に教えることが出来たのです。
 するとそこに、悪霊に疲れている人がいました。悪霊は、イエス様が神の御子キリストであることを知っています。だから悪霊は、その人を通して大声で、騒ぎ出すのです。イエス様は、悪霊に対して「黙れ、この人から出て行け」と命じました。すると、悪霊はその人から出て行ったのです。イエス様の言葉には、悪霊も抵抗することが出来ないほどの力と権威があるのです。

 そのようなことがあって、会堂での礼拝が終わって、イエス様たちは、弟子のペテロの家に行きました。ペテロの家は、カペナウムの会堂の目の前にあったと言われています。この時、ペテロの姑(奥さんのお母さん)が、ひどい熱で大変な状態でした。イエス様は、頼まれて、このお母さんの熱を治してくれました。その時も「熱を叱りつけて」とありますから、イエス様は、言葉で治したのです。
 皆は、熱を出したとき、フラフラすることがあるでしょう。熱が下がってもしばらくは、動くことが大変です。ペテロの姑さんは、ひどい熱で意識はもうろうとしていて、治ってもすぐに動くことなど普通なら出来ないはずです。けれども、イエス様が熱をしかりつけた瞬間、完全に治って、起き上がりイエス様たちをもてなすのです。これにも人々は、ビックリです。その日の夜、たくさんの人が、イエス様の所にやってきました。
 イエス様の言葉には、僕たちを教え、守り、助ける力があります。このイエス様の言葉、聖書の言葉をしっかりと覚え、信じて歩みましょう。

(適用)

Ⅰ;新鮮な驚き

4:32 人々はその教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。
4:36 人々はみな驚いて、互いに言った。「このことばは何なのだろうか。権威と力をもって命じられると、汚れた霊が出て行くとは。」
4:39 イエスがその枕元に立って熱を叱りつけられると、熱がひいた。彼女はすぐに立ち上がって彼らをもたなし始めた。

 皆さん、今日の箇所から私たちは、二つのことを確認したいと思います。一つ目は、御言葉への新鮮な驚きを持っているかどうかと言うことです。
 イエス様が、カペナウムの会堂で教えられたとき、聞いていた人たちは、その教えに驚きました。それは、イエス様の言葉に権威があったからです。当時のユダヤ教の教師は、先人たちの言葉を引用して、「このように言われていた」という方法で人々を教えていました。しかしイエス様は、ご自身が権威をもって御言葉を語ったのです。イエス様は、子なる神様ですから、父なる神様のお考えをよく知っていて、正確に力強く教えることが出来たのです。その言葉は、他の誰もが持っていない権威を表わすものなりました。それだけではなく、イエス様の言葉は、神の力に満ちあふれていました。イエス様が、悪霊に向かって「黙れ、この人から出て行け」と言えば、悪霊は太刀打ち出来ず、出て行くしかないのです。また、ペテロの姑がひどい熱で苦しんでいる時、その枕元で熱を叱りつけると熱が下がり、完全に癒やされたのです。その癒やしが、本当に完全だったのは、彼女がすぐに起き上がり、もてなし始めたことに現れています。先ほども言いましたが、私たちは、高熱が出るともうろうとします。たとえ、熱が下がってもすぐには起き上がれないで、足下がふらついてしまいます。お客さんをもてなすなど、無理な話です。けれどもペテロの姑は、すぐに起き上がることが出来たのです。人々は、イエス様の権威ある言葉に驚き、そこにある神様の力ある働きに驚いたのです。

 この驚きは、「びっくりする」と言う面とイエス様の言葉に「感動した」と言う面があると思います。皆さんは、最近、聖書を読んでいて感動を覚えたり、教えられたり、気づかされたことがありますか。それは、昨日ですか、1か月前ですか、それとも1年、2年前のことになるでしょうか。私たちは、繰り返される物事に対して、徐々に新鮮な思いを失ってしまいやすいものです。例えば、子どもが、月に一回の外食を楽しみにしていたとします。その子は、月一回の特別な時を楽しみにして、喜びに溢れます。しかし、月一回が二回になり、毎週となったら、それほどの喜びはなく、「あぁ~また外食か」と言った感じなるでしょう。同じように、言葉も繰り返し聞くことで、新鮮さがなくなり、「また言っている。何度も聞いた」といった感じで受け取ることとなります。

 聖書の言葉に対して、私たちは、どのような態度を取っているでしょうか。なんとなく聖書を読んでいると言うことがあるでしょうか。聖書を読みながら、「また罪の問題か、戒めはもういいや」なんて思っていないですか。私たちは、繰り返し聖書を読みます。旧新約聖書を一度読んだらそれで十分と言うことはありません。聖書は、繰り返し、繰り返し、読み続けるものです。その時に忘れてはいけないのは、聖書の言葉に対しする新鮮な気持ちです。私たちは、「神様は今日何を教えて下さるだろうか。」「自分は、聖書の言葉から何を知ることが出来るだろうか。」と祈り求める事が必要です。私たちは、神様が聖書を通して語って下さる一つ一つの言葉にしっかりと心を開いて、受け止める必要があります。そして、私たちは、繰り返し読んでいる聖書の言葉でも、その時その時に神様が、新しく語りかけてくださる事を覚えて聖書を読みましょう。そこに新鮮な驚き、新鮮な感動があります。

Ⅱ;憐れみの御手

4:40 日が沈むと、様々な病気で弱っている者をかかえている人たちがみな、病人たちをみもとに連れて来た。イエス様は一人ひとりに手を置いて癒された。

 二つ目に確認したいことは、イエス様の「憐れみの御手」です。イエス様は、言葉で悪霊を追い出し、熱を叱りつける、権威と力に満ちた言葉で話されました。と同時にイエス様は、一人ひとりに御手を置いて下さるお方です。ペテロの姑が癒やされた晩、多くの人たちが病人をイエス様のもとに連れてきました。イエス様は、「一人ひとりに手を置いて癒やされた(40)」とあります。これは、イエス様が、一人ひとりに寄り添ってくださり、手を差し伸ばして触れて下さったと言うことです。怪我でも病気でも、治療することを「手当をする」と言いますね。この手を当てると言うことが、基本だと言うことでしょうか。そして人は、手を添えられることによって「ほっと」するのです。

 ある人が、教会に来るようになった時のことを話してくれました。その人は、友人に誘われて教会に足を運びました。そして緊張しながら、何回か礼拝に出席した時、教会の人が、そっと肩に手を置き「おっ!ようこそ」だったか「よく来ましたね」だったか、とにかく声をかけてくれたのだそうです。その時、その人は、緊張がほぐれて教会に来て良かったと思ったそうです。その経験が、教会から離れることなく、信仰に導かれることとなったそうです。手を置く(手を当てる)というのは、そのような励ましや慰めや勇気づけとなるものです。

 イエス様は、病気の人に手を置いて癒やされました。今、私たちは、イエス様に触れていただきませんか。イエス様は、私たちの様々な事柄に寄り添ってくださり、御手を差し伸ばして下さいます。イエス様は、私たちの心の中にある不安や恐れ、取り組むべき課題、そして私たちの経験する多くの事柄に御手を差し伸ばして下さいます。イエス様に触れていただいて、癒やされ、力をいただき、信仰を強められて、歩んでいきましょう。
 イエス様の言葉には、力があります。私たちは、聖書を通して神様の言葉、イエス様の言葉を聞くことが出来ます。新鮮な驚きを持って、感動を持って聖書を開きましょう。イエス様は、あなたの心にそっと手を添えて、教え、力を与え励まして下さいます。