2020年6月21日(日)礼拝説教 ルカの福音書5章17―26節

 皆さんには、親友といえる人がいるでしょうか。これまでの歩みの中で、出会った友だちの中で、親友、とても大切にしているお友達いるでしょうか。私は、小学生の時の友だち、ずいぶん合っていませんし、離れて生活していますが「元気にしているかなぁ」と思い出すことがあります。教会で出会った友だち、教会の集会で出会った友だちは、励まし合い、祈り合う友だちとなります。たくさんの友だちと出会い、私たちは交わりをもって歩んでいきます。

 ある時イエス様が、カペナウムの家で人々を教えていた時のことです。それまでイエス様は、神様の話をしながら、多くの人の病気を癒やすという奇跡を行われました。その噂は、すぐに広まっていきます。そしてイエス様が、カペナウムにおられると知れ渡ると、方々から人々がカペナウムに押し寄せてきました。そしてイエス様が教えておられた家は、人々でいっぱいになってしまいました。そこに病気の男性が、布団に乗せられたまま数人の(マルコでは4人と書かれています。)友人に運ばれてきました。この人は、中風といって脳の病気のために体の自由がきかない人でした。4人の友人は、そのまま家の中に入りイエス様の所に連れて行こうとしました。しかしその家は、・・・・。そう、人々でいっぱい、どうしても布団のまま運び入れることは出来ませんでした。でも4人は、諦めませんでしたよ。彼らは、家の外の階段を見つけ、屋根に上りました。そしてイエス様がおられるあたりの屋根を「バリバリバリ、ガサガサガサ」と剥がし始めたのです。当時の屋根は、今のような屋根ではなく、屋根の骨組みに枝や葉っぱを敷いて、その上に土をのせて踏み固めるという屋根でした。だからすぐに壊すことが出来るのです。家の中にいた人たちは、驚いたでしょうね。突然、天井から土埃が落ちてきて、空が見え始め、布団を下ろすほどの穴が開いてしまったのですから。すぐに壊せる屋根だとしても人の家ですからみんなびっくり、家の持ち主は慌てたでしょうね。それでも、この4人は、一刻も早く友だちをイエス様の元に連れて行きたかったのです。

 イエス様は、その様子をじっと見ていて、彼らの信仰を見て、病気の人に「友よ、あなたの罪は赦された」と言われました。この人は、病気と体の麻痺を治してもらいたかったのです。けれどもイエス様は、「罪は赦された」と一体何の話なのでしょうか。でもこれはとても大切なことです。罪を赦すことが出来るのは、まことの神様だけです。イエス様は、神様ですから、罪を赦すことが出来るお方です。それを明らかにするために、目の前の男性に「起きて、布団を抱えて帰りなさい」と言われました。するとその瞬間に、この男性は、起き上がり、布団を抱えて喜び神様を賛美しながら家に帰って行きました。それを目撃した人たちは、非常にびっくりして神様への恐れに包まれました。
 皆さん、イエス様は、あなたの罪を赦してくださるお方です。イエス様は、あなたの罪が赦されるために十字架にかかってくださいました。イエス様の十字架による救いを受け取るためには、イエス様を救い主と信じるだけです。イエス様は、今もみんなに「友よ、あなたの罪は赦された」と言ってくださいます。自分自身の心をしっかりと見つめて、罪があったら悔い改めましょう。

;信仰を持ってイエス様に近づく

17.ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人たちと律法の教師たちが、そこに座っていた。彼らはガリラヤとユダヤのすべての
  村々やエルサレムから来ていた。イエスは主の御力によって、病気を治しておられた。
18.すると見よ。男たちが、中風をわずらっている人を床に乗せて運んで来た。そして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとした。
19.しかし、大勢の人たちのために病人を運び込む方法が見つからなかったので、屋上に上って瓦をはがし、そこから彼の寝床を、人々
  の真ん中、イエスの前につり降ろした。

 今日私たちは、二つのことを心に留めましょう。まず一つ目のことは、信仰を持ってイエス様に近づき、祈ると言うことです。イエス様は、私たちの近くにおられます。だから私たちは、信仰を持ってイエス様のもとに近づくのです。ルカは、「ある日のこと(ルカ5:17)」と書き、マルコはイエス様が「カペナウム(マルコ2:1)」にいた時のことであると書いています。先週言いましたように、イエス様は、故郷のナザレを離れて、カペナウムを伝道の拠点としておられました(マタイ4:13)。今日の箇所は、イエス様が、カペナウムにおられたある日のことの出来事です。病気の友を連れてきた4人は、家には入れないことが分かると、先ほど見たとおり、すぐにその家の屋根に上り、イエス様のいるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人を寝床のまま吊り降ろしたのです。簡単に壊すことが出来たとしても、信じられない行動です。家の持ち主はどんな心境だったことでしょうか。4人は、家主に許可を取ったのでしょうか。その場にいた人々は騒然としたことでしょう。しかし4人は、人の目を気にせず一刻も早く中風の人に癒しを与えたい。イエス様ならそれが可能だと信じていたのです。彼らの行動は、信仰から出ていることでした。だから彼らは、諦めずに行動したのです。

 おそらく中風の人自身もそのような信仰を持っていたのではないかと思います。その姿がイエス様の癒やしの場面にあると思います。イエス様は、中風の人に「起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい(ルカ5:24)」と言われました。その時彼は、「私には出来ません。起きられる力を与えてください」と言いませんでした。この人は、言われたとおりの事をしたのです。中風の人は、イエス様に言われた時、起きてみようと思ったのです。動かない体の状態のまま、起きようと思ったのです。すると起きる力が与えられました。自分の足で立ち、自分で寝床をたたみ、自分の足で歩いて群衆の間を出て行ったのです。この人は、4人の友と共に家の入り口で喜びを分かち合ったことでしょう。

 4人の友人は、「イエス様がおられる」そしてイエス様なら癒やしてくださると信じ、求めたのです。私たちにも、イエス様がおられます。イエス様は、私たちのすぐ側にいて、私たちに御手を差し伸ばして下さいます。私たちは、毎日どのような心で過ごしているでしょうか。私たちが祈るとき、私たちはどのような気持ちで祈るでしょうか。何気なく祈っていますか?特に何も考えず、習慣的に祈っていますか?私たちが祈る時、何が必要なのでしょうか。それは「イエス様は私と共におられると信じ、イエス様を信頼する信仰」です。私たちの心には、イエス様は私を導き支えてくださると心の底から信じる信仰があるでしょうか。私たちが、祈る時、イエス様は私たちの祈りを聞き、御手を差し伸ばしてくださいます。私たちがイエス様を信じ、イエス様のみわざを期待する時、私たちは、立ち上がる力が与えられ、喜びが溢れるようになります。私たちは、祈りつつ歩み、そしてイエス様は、必要な全てを満たしてくださると信じて、委ねて歩みましょう。

;赦しの約束

20.イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
22.イエスは彼らがあれこれ考えているのを見抜いて言われた。「あなたがたは心の中で何を考えているのか。
23.『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
24.しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために―。」そう言って、中風の人に言われた。『あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」
25.すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った。

 二つ目のことは、イエス様による赦しの宣言を聞きつつ歩むと言うことです。イエス様は、私たちと共におられます。そして私たちに赦しを与え救いの約束を確かなものとしてくださいます。
 イエス様は、屋根を壊した4人を叱ることをせず、じっとその様子を見守っていました。彼らの信仰を見てイエス様は、中風の人に「友よ、あなたの罪は赦されました。」と言われました。イエス様は、イエス様を信じ信頼し、期待する人の信仰を喜ばれ決して見捨てることはなさいません。その場にいた律法学者たちは、「人は罪を赦すことなど出来ない、それは神様だけが出来ることだ(21)」と心の中でイエス様を非難しました。イエス様は、律法学者の心の思いを知られ、言われます(22-24)。このイエス様の質問は、どんな意図があったのか解釈が難しいところです。肉体的な癒しは、目に見える結果が伴わなければなりません。「癒やされた」と言ってその人が癒やされなかったら恥をかくこととなります。反面、罪の赦しは、結果が人の目には見えません。だから言葉だけの表現とするなら、「罪の赦し」を宣言するほうが簡単のように思われると言うことなのでしょうか。けれども、本質的には、人の罪を赦すことも病を癒やすことも人間の力では不可能ですから、どちらも難しいことなのです。

ともあれイエス様は、質問を投げかけたまま、その答えを言わず、イエス様ご自身が罪を赦す権威を持っている事を明らかにするために、中風の人の癒やしを行われました。ユダヤ人たちは、病気はその人の罪と関係があると考えていました。新約聖書の中には、そのように表現されている箇所があります。そして律法学者たちは、病が癒やされることと、その人の罪が赦されることとをセットに考えていたでしょう。病を癒やす事が出来れば、その原因である罪を赦す力があると言うことです。だからイエス様は、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために(24)」と言って、中風の人を癒やしてくださったのです。

今日は、20節のイエス様の言葉を心に留めましょう。イエス様は、病の癒やしだけではなく、最も根本的で全ての人が必要とする罪の問題に解決を与えてくださるお方です。イエス様は、今でも「友よ、あなたの罪は赦された」と宣言してくださいます。イエス様は、そのために十字架にかかってくださいました。イエス様は、私たちの罪の罰を全て背負い、十字架で死んでくださいました。それだけではなく、イエス様は罪の結果である死を打ち破り復活されました。そのことによって、罪の赦しが完全であることを明らかにされたのです。このイエス様の十字架の救いを信じる時、私たちは罪赦され、救いを受けることが出来ます。そして今でも、私たちは、この「あなたの罪は赦された」というイエス様の宣言を必要としています。この宣言を信じますか。今日も私たちは、イエス様の十字架の救いを信じ、イエス様からの救いの宣言を受けて歩みましょう。

 お祈りをします。

「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美致します。
中風の人を連れてきた友人たちは、イエス様がそこにおられ、イエス様なら癒やす事が出来ると信じてイエス様のもとにやって来ました。イエス様は、彼らの信仰を見て中風の人を癒やしてくださいました。それだけではなく、「あなたの罪は赦された」という宣言もしてくださいました。
 今もイエス様は、私たちに罪の赦しを与えてくださる事を信じます。イエス様、私たちはあなたが必要です。そして私たちは、イエス様が私たちと共におられることを信じます。どうぞ私たちに力を与え、導いてください。イエス様の十字架の救いの恵みに満たされ、救いの喜びに満たされて歩むことが出来ますように。
 神様、新型コロナウイルス感染拡大をとどめて下さい。感染している人たちが癒やされ、全ての医療従事者が守られますように。世界中が神様の恵みを憐れみと励ましで満たされ、多くの人が神様に心開き、天からの平安が与えられますように。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。」