2020年6月28日礼拝説教 ヨナ書1章17節ー2章10節

<子どもたちへ>
 昔、イスラエルの国に、ヨナと言う預言者がいました。預言者というのは、神様のおことばを聞いて、それをみんなに伝える人です。
 ある日、神様がヨナにおっしゃいました。「ヨナ、二ネべと言う町に行きなさい。二ネべの人は悪い事ばかりしている。みんなが反省して私を信じることが出来るように、私の言葉を伝えて来なさい。」ヨナはびっくりしました。「え?!二ネべだって?二ネべはイスラエルの敵の町じゃないか。いくら神様の命令でも、そんな所には行きたくないよ!」その頃はイスラエルとまわりの国でよく戦争があったのです。ヨナは二ネべが大嫌いでした。
 ヨナは神様の命令に逆らって逃げ出しました。どんどん歩いて港に着くと、タルシシュ行きの船に乗り込みました。この船は、二ネべとは反対の方向に向かう船でした。ヨナは、神様の目が届かない、どこか遠くへ逃げてしまおうと思ったのです。
 その日はとてもよい天気で、船は港を出るとぐんぐん進んでいきます。「ここまで来ればもう大丈夫。」安心したヨナは、船の中でぐっすりと眠りました。けれども神様は、ヨナがどこにいるか、ちゃんとご存知でした。しばらくすると、空に黒い雲が出て来ました。ビュー!と強い風が吹いて来て、激しい雨がザーッ!と降り始めました。波も高くなり、ザブーン、ドカーン!と船に押し寄せてきます。神様が大嵐を起されたのです。船が激しく揺れて、今にも沈みそうです。船に乗っている人たちは怖くてこわくて、真っ青になりました。そして「どうか助けて下さい!」と様々な偶像の神様にお祈りをはじめました。けれどもヨナは、船の中でぐっすりと眠っていたのです。


 そのうちみんなは、「誰のせいでこんなことになったのか、くじを引こう!くじに当たったやつがこの嵐の原因を作ったに違いない。」と言い出しました。すると、くじはヨナに当たりました。ヨナは言いました。「この嵐は私のせいで起きたのです。神様の命令に逆らって逃げたからです。皆さん、私を海に投げ込みなさい。そうすれば、海は静かになるでしょう。」みんなはヨナの言う通りにしました。ドボーン!ブクブクブク…。ヨナは海の底に沈ん
で行きました。ヨナはこのままおぼれ死んでしまうのでしょうか?いいえ、神様はヨナを守ってくださいました。大きな魚に命令して、パクリと飲み込ませたのです。
 それから3日3晩、ヨナは魚のお腹の中にいました。ヨナはどうしているでしょうか?ヨナは、お祈りしていました。「神様、わたしは神様のご命令に従いませんでした。それなのに、あなたは私を助けてくださいました。今度こそあなたの命令に従います。」神様は魚にヨナを吐き出させました。ヨナは魚のお腹から出て陸地に戻ることができました。私たちもヨナのように、神様のみことばに従えない時があるかもしれません。しかし逃げ出しても、逃げた先に祝福や平安はありません。神様のみことばに素直に従えるよう、お祈りして助けて頂きましょう。従えない時には、試練を通して「悔い改めなさい」と言われることもあります。でもそれは、神様が怒って私たちを見捨てようとしているのではありません。魚を備えてヨナを守られた神
様は、私たちにも守りと助けを準備して下さいます。神様を信頼していきましょう。
(祈り)みことばから逃げ出しても祝福がないことが分りました。神様に信頼して従って行けるように私を助けて下さい。

<摘要>
 ヨナのお話はとてもドラマティックで、物語として面白いなあと思います。しかしこれを文学作品、ファンタジーと捉えるのか、神の奇跡の物語であり歴史的事実だと捉えるのか、どう思われますか?聖書ははっきりと、「神が大きな魚を備えてヨナを飲み込ませた」と言っています。また主イエス様は、このヨナのしるししか、終末におけるしるしは無いと言われました。この物語を読む前提として、歴史的事実として捉えることが必要です。ヨナ書はヨナ自身か、ヨナから話を聞かされた人物のいずれかが書いたものと考えられます。ヨナの失敗を赤裸々につづり、後の時代の人たちに学んでもらうためでしょう。
 今日の箇所には、救い出されたヨナの祈りが記されています。海での死の苦しみの祈りと、魚の腹の中での感謝の祈りです。この2つの祈りを通して、主が与えて下さる救いとはどういうものなのかを学んで行きましょう。

1.苦しみの中での祈り(2~6節前半)

 ヨナは海中での苦しみを告白しています。海藻は体にからみつき、彼は海底深く沈んで行きました。浮かび上がる望みは持てず、逃げないようかんぬき(頑丈な鍵)がかけられたようだというのです。思えばヨナは、主の御顔を避けて以来、くだる一方でした。ヨッパの港にくだり、船底にくだり、海に投げ込まれ、今は海底に沈んでいくのです。神から逃げて行きついた先は絶望と暗黒でした。
 2 節に「よみ」という言葉が出てまいります。これは「悪しき者たちが、死後に最後の裁きの時まで閉じ込められている場所」のことだと言われています。墓、または地獄とも訳される言葉です。ヨナは肉体の苦しみの中で、自分が地獄におちてしまう恐れにかられました。永遠に神から引き離れることの恐怖です。神を拒否したのはヨナ自身ですが、いまや罪によって神から引き離されている感覚におびえるようになったのです。
 苦しみで意識が失われていく時、突如として彼は主を思い出しました。そして神様の御顔を仰ぎ見たい、神との交わりを回復したい、と祈ったのです(4節)。ちょうど、イエス様のたとえ話に登場する放蕩息子が、いのちの危機に直面して「われに返った」かのようです。

 特別な危機がなくても、自分の魂の問題に向かい合う事ができるなら幸いです。しかし健康、人間関係、家庭や家族の問題、仕事の問題、経済的困難、そして命の危機…。こうした問題を通してようやく神に背く自分に気づき、裁きにおびえ、救いを求めることが多いのです。
 今の時代においては、イエスキリストの十字架においてその解決が与えられました。救い主イエス様を信じお従いして生きる時、魂の救いを頂くことが出来ます。もし今苦しみの中にあるならば、神様に目を上げて祈りましょう。イエス様こそ私たちへの神の愛の表れであり、唯一の救いの道です。イエス様への信仰を新たにしようではありませんか。
 さて。ヨナは二ネべ行きから逃げたことについては悔い改めのことばを述べてはいません。しかし忍耐強い神様は、ヨナが神様の方を向いたのを受け入れてくださいました。大切なのは一人一人が神様に向かおうとすることです。たとえ不完全であっても、その時々の精一杯の応答を、神様は喜んでくださるのです。「情け深くあわれみ深い神」。これがヨナ書に表されている神様のお姿です。

2.感謝の祈り(6節後半~9節)

 落ちるところまで落ちたヨナに、主の救いの御手が伸ばされました。魚に飲み込まれて助かったのですが、魚の腹の中で息ができ、消化もされないで3 日3 晩過ごせたのは、奇跡といえましょう。
 ヨナは「主にお願いすると主は答えて下さった」「私が叫ぶと私の声を聞いて下さった」と詩的にことばをつづります(2)。また「私の祈りは聖なる宮に届きました」(7)と同じことを表現して証とし、感謝の叫びを捧げます。(ちなみにこの部分は、詩篇18 篇のダビデの詩によく似ています。破天荒なヨナも、やはり聖書をよく知る預言者なのだなと思わされます。)
 こんなことがお出来になるのは天地においてただ一人、主なる神様だけであることをヨナは再確認し、偶像礼拝の虚しさを語ります。それは正しい認識ですが、そこには欠けがありました。失われゆく魂への愛が欠落しているのです。ヨナは恐らく「神の憐れみはイスラエルだけに注がれてほしい。偶像礼拝者である二ネべの民は神のさばきをうけるべき存在だ」と思っていたのでしょう。だから二ネべに行きたくなかったのです。自分のものさしで恵みの資格を測ろうとしたのが、ヨナの最大の問題でした。

 先ほどイエス様のたとえに出て来る放蕩息子の話をしました。弟息子が父の財産をもって出て行き、放蕩して落ちぶれ飢え死にの危険の中で我に返り、父のもとに帰っていく。父はかけよって息子を迎える、というものです。しかし、もう一人兄息子がいるとも言われています。弟が赦されて迎えられたのに腹を立て、家にも入らない兄です。その兄にも優しく話しかけて諭す父親、それが父なる神様でした。ヨナはさながら兄息子のようです。しかし神様は兄も弟も共に愛して赦しと祝福を与えて下さるのです。
 「自分への恵み」(8節)とありますが、「恵み」と訳されるヘブル語の「ヘセッド」は「愛」とも訳される言葉です。旧約聖書においてしばしば使われる言葉であり、神の永遠の愛、イスラエルと契約を結ばれる神の救いの恵みのことです。この愛、恵みが、偶像礼拝者である二ネべの人々にも注がれるとは、ヨナには思いもよらぬことでした。
 旧約聖書学者である遠藤嘉信牧師は、ヨナ書のテーマは「神の愛」だと言っておられます。信仰者から見ても寛容すぎると思われるほどの、限界のない神の愛を示そうとしている、というのです。

 「救いは主のものです」と告白しながらも、ヨナは限界のない神の愛と赦しが完全には理解出来ていなかったようです。わたしたちも同じように、みことばの意味するところ、神の愛の深さを正しく理解してはいないのかもしれません。ですからクリスチャンとして成熟を目指そうとするなら、自分の思いはいったん脇において、みことばに対して謙虚でなければなりません。へりくだって、限界のない神の愛を学ぶお互いでありたいと願います。

<結論>
神様は一見輝くような感謝と賛美を捧げるヨナの、実は不完全な部分をも受け入れて下さり、彼を陸地に戻してくださいました(10 節)。ヨナは完全に命の危機から救われました。神様は私たちにも恵み深くあられます。自分自身が如何に不十分な者であったとしても、愛の神様に守られている事を堅く信じ感謝して、今週も歩んで参りましょう。