2020年7月5日礼拝説教 ルカの福音書7章1-10節

百人隊長の信仰

<子どもたちへ>
皆は、風邪をひいた時、怪我をした時、どうしますか?たぶん、病院に行くでしょう。その時、自分の症状をお医者さんに説明します。そしてお医者
さんは、皆の話を聞いて、診察をして、どうしたら治るのか教えてくれて、薬を出してくれますね。場合によっては、経過を見るために何回か病院に通うことがあります。でもその時皆は、お医者さんの言うことを信じるでしょう。多分皆は、「このお医者さんの言っていることはホントかな?」なんて考えないでしょう。誰もがお医者さんの言ったことを信じ、その通りにして、出された薬を飲みます。そうして回復していきますよね。
 今日は、イエス様の言葉を信じ切った百人隊長の信仰を見ていきましょう。百人隊長は、とても素晴らしい信仰を持っていました。

 イエス様は、弟子たちを連れていろいろな所で神様の言葉を教え、多くの人を癒やしておられました。そして時々カペナウムにかえって来ていたのです。イエス様がカペナウムに帰ってきた時、一人の百人隊長がイエス様の元にユダヤ人の長老たちを遣わしました。実は、百人隊長のしもべが病気のために死にかけていたのです。
 どうして百人隊長が自分で行かなかったのでしょうか。それは、百人隊長が外国人だったからです。当時のユダヤ人たちは外国の人たちと付き合いをしていなかったのです。だから百人隊長は、直接イエス様の所に行くことは失礼だろうと考えたのです。遣いに出た長老たちは、一生懸命にイエス様に来てくださいとお願いしました。百人隊長は、とても親切な人で、ユダヤ人たちに好意を持たれていたのです。
 イエス様は、長老たちの案内のもと百人隊長の家に向かいました。すると今度は、百人隊長の友人たちが、百人隊長のメッセージを伝えました(6-7節)。百人隊長は、「しもべの癒やしのためにイエス様に来て頂きたい」と願ったものの、改めて考えてみて、イエス様を自分の家にお迎えすることは出来ないと考えたのです。掃除が出来ていなかったからではありません。突然、友だちがやっ来た時、「ちょっと待ってて」と友だちを玄関に待たせて、慌てて部屋を掃除するという経験がありますか?でも、百人隊長は、そんなことだったのではありません。百人隊長は、「イエス様を家にお
迎えする資格はない」と言っています。百人隊長は、外国人である自分の家に、ユダヤ人であるイエス様をお迎えする事は、イエス様に対して失礼なことで申し訳ないと考えたのです。そして一つのことを願いました。それは、「お言葉をください」と言うことでした。百人隊長は、イエス様が「治る」と言ってくだされば、しもべは治ると信じていたのです。イエス様が、そのように願えば、その通りになると信じたのです。百人隊長は、権威のある者の言葉の力を知っていました。そしてイエス様の噂を聞いて、イエス様の言葉には権威あることを知りました。百人隊長は、イエス様の言葉は、必ず実現することを信じ切ったのです。イエス様は、その信仰を喜んでくださいました。そしてイエス様は、百人隊長が信じたとおり、しもべを癒やして
くださいました。

 イエス様は、今もイエス様を信じ、イエス様の言葉を聞き従う人を喜んでくださいます。イエス様の言葉には力があります。僕たちを力づけ、教え、導いてくださいます。そしてイエス様は、僕たちの罪を赦し、沢山の良いもので満たしてくださいます。イエス様の言葉(聖書の言葉)をしっかりと読み、心に蓄え、信じて歩みましょう。(短く祈ります)
「愛する天の父なる神様、神様の言葉には力があります。神様を信じ、御言葉に支えられながら歩ませて下さい。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

 それでは、大人の方々へ。先ほどの話の適応について見ていきましょう。
<適応>
イエス様は、百人隊長の言葉を聞いて、群衆を「振り向いて」言われました。それは、イエス様に着いて来た人たちにしっかりと聞かせるためです。そして、「イスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。(9)」と言われたのです。では、百人隊長はどのような信仰を持っていたのでしょうか。私たちは、百人隊長から何を学ぶことが出来るのでしょうか。

Ⅰ;謙遜と愛が現れる姿

ルカ7:9
 イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰をみたことがありません。

 百人隊長の信仰は、「謙遜と愛が現れる姿」となっています。ローマの百人隊長でありながら信仰を持っていたと言うことです。
 イエス様の時代は、ローマ帝国が世界を支配していた時代です。イタリアのローマを中心とし、その周辺の国々や地域は、ローマの属州(支配地域)として支配されていました。いつの時代でも戦国の時代には、占領した地域に軍隊を派遣するのは当然のことでした。日本でも戦国時代、戦に負ければ城を明け渡し、敵の武将がその地を治めるということがありました。ユダヤ人たちの地域は、ローマ属州としてローマ軍が駐留することとなりました。今日登場する百人隊長は、そのようなローマ駐留軍の隊長でした。この百人隊長は、占領地を治めると言う事で、とても思慮深く威厳をもって行動することが求められていたと言われています。ですから、ユダヤに派遣されていた百人隊長は、権力と権威を持ち、カペナウムで権力の限りを尽くして振舞うことが出来ました。けれども彼は違っていたようです。

 百人隊長は、しもべを丁寧に扱う人でした。重んじていたと言うこともあるでしょうが、病気で苦しんでいるのを見て何とかしたいと思って、ユダヤ人の指導者をイエス様のもとに遣わすのです。この百人隊長は、一人のしもべのために最善を尽くす人でした。それだけではなく、ユダヤ人の指導者がイエス様に懇願する言葉の中に、百人隊長の人柄が現れています。百人隊長は、異邦人であるのにユダヤ人を無理に押さえつけることをしないで、ユダヤ人を愛していました。そして会堂を建ててくれた、信仰深い人物であるということです。さらにユダヤ人の指導者が、イエス様の憐れみを受けるに相応しい人物だと言うほど人望の厚い人だったのです。百人隊長は恐らくユダヤ教に心を開いていたのでしょう。そして神様の教えに従って生きていたのだと思います。その信仰の歩みが、心の中だけではなく、生き方にも現われ周りの人への証となっていたのです。

 私たちは、この姿をまずしっかりと心に留めましょう。私たちは、神様を信じ、イエス様の十字架による救いを受けました。そして神様に愛され、恵みを頂く者とさせて頂きました。私たちは、神様の御前に謙遜になり、愛に感謝して歩みます。その信仰のあり方が、実際の生活に、生き方に現れているでしょうか。私たちは、自分の歩み、心のあり方、態度、言葉を振り返りましょう。そして私たちは、主の恵みと愛を生活の中で反映していく信仰者となれるように主の助けを求めましょう。

Ⅱ;御言葉への信頼

イザヤ書55:11
 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、むなしく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。

 百人隊長の信仰は、「御言葉への信頼」となって現れます。彼は、イエス様の言葉に100%の信頼をよせていきます。
 ユダヤの指導者たちの求めを受けて、イエス様は百人隊長のもとへと移動を始めました。そのことを知った百人隊長は、あわてて使いを出します。百人隊長は言います。「イエス様を家に入れる資格は、異邦人の自分にはない。自分から伺うことさえ失礼だと思っている。」イエス様に対する心からの謙遜の現われです。そして「おことばを頂きたい。そうすれば、しもべは必ず治る」と重要な信仰告白をします。百人隊長は、イエス様の言葉の約束をいただけば、しもべは必ず癒されること、イエス様の言葉にはそれだけの権威があることを信じていたのです。

 その理由は、百人隊長ならではの理由です(8)。百人隊長は、権威の下にいます。百人隊長の上には、千人隊長がいて、その上に将軍、さらにはローマ皇帝がいるのです。百人隊長は、その権威の下にいて命令には絶対服従が求められます。それだけではありません。百人隊長の下
には、百人の兵隊(部下)がいます。この百人は、隊長の言葉に従います。隊長の言葉にはそれだけの権威があり、逆らうことは赦されません。百人の部下は、ローマ政府から権威を委ねられている百人隊長に服従する責任を負っています。
 イエス様は、この信仰に驚き、賞賛します。どんな意味なのでしょうか。百人隊長は、人間の言葉に権威があるならば、イエス様の言葉にはさらに偉大な権威があると認めたということです。百人隊長は、イエス様が神の国のことを語る言葉を知っていました。またイエス様が、言葉だけで病人を癒やし、悪霊を追い出すことを聞いていました。そして嵐も静めることを知っていたのです。百人隊長は、こんな素晴らしい人を見たことはなかったでしょう。そして彼は、イエス様が神様から遣わされたお方であり、イエス様の言葉に権威があり、力があることを信じ、完全に信頼していたのです。イエス様に信頼すれば間違いはないという信仰です。その結果、イエス様の賞賛を受け、しもべはイエス様による癒やしを受けることが出来ました。

 私たちの信仰は、いかがでしょうか。私たちは、聖書の御言葉に対して100%の信頼を持っているでしょうか。それはそのまま、神様への信頼度になっていきます。今私たちは、実に不安定な時代に生きています。「With コロナ」の時代と言われるようになり、「新しい生活様式」を持たなくてはいけないと言われています。私たちにとって不安と恐れは尽きないでしょう。そのような中にあって私たちは、常に変わらず、確かな約束と恵みが与えられています。それが神の言葉である聖書です。私たちは、イエス様に信頼できるのです。イエス様の言葉、聖書の言葉は、信頼できる確かな神の言葉です。聖書の言葉は、私たちを励まし、私たちを強め、私たちを変えるほどの力を持っています。そして神様の言葉は、私たちのうちで生きて働いています。
 「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。(イザヤ55:11)」
 聖書の御言葉をしっかりと心に留め、学び、教えられながら、信仰を持って歩みましょう。

お祈りします。
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。百人隊長の生き様は、神様への信仰が表わされていました。そして百人隊長は、イエス様の言葉を信じ、信頼していました。イエス様は、それを喜び、百人隊長のしもべを癒やして下さいました。神様、私の歩みを導いてください。言葉においても態度に於いても神様の愛と恵みを証しする事が出来るように力を与えて下さい。神様の御言葉の力を信じます。神様に信頼して歩みます。どうぞ御言葉によって教え、私の心を整えて下さいますようにお願いします。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」