2020年7月12日礼拝説教 ヨハネの福音書6章1-15節

<子どものためのメッセージ>(赤松由里子師)

 皆さん、学校の給食はおいしいですか?どんなメニュ―が好きですか?地域によっても給食はいろいろですが、埼玉や群馬は比較的評判の良い給食が食べられるようです。もともとは100年以上前、貧しくてお弁当も持って来られないような子たちのために、学校給食が始まったそうです。イエス様の時代も人々の多くは貧しくて、毎日の食事は大きな問題でした。さて今日は、イエス様が給食を用意して下さったというお話です。

 ある時イエス様がガリラヤ湖の近くの山に登ると、多くの人がついてきました。病気を治したり、神様のお話をされるのを見て、集まって来たのです。そのうち日が暮れて来ました。その人たちを見たイエス様は、お弟子さんのピリポに言いました。
 「どこからパンを買ってきてこの人たちに食べさせようか。」
ピリポはびっくりしました。「こんなに大勢の人にパンを買ってくるなんて、お金がいくらあっても足りません!」それもそのはず、そこには男の人だけで5000人、女の人や子供もいれたらもっとたくさんの人がいたのです。そこへ別のお弟子さんのアンデレが男の子を連れてきました。「イエス様。この子がパンを5つと小さい魚を2匹持っています。でもこれっぽっちではとても足りませんね。」これはきっと男の子用のお弁当だったのでしょうね。イエス様に差し上げようと、差し出したのでしょう。イエス様はにっこり笑うと「ありがとう」と受け取られました。そして「みんなを座らせなさい。」と言いました。

 イエス様はパンを手に取ると「天のお父様ありがとうございます。」とお祈りをしてから、パンをさいてみんなに配られました。魚も同じようにしてほしいだけ分けてあげました。不思議なことに、分けても分けてもパンも魚もなくなりません。お弟子さんたちは「なんて不思議なんだろう」と思いました。みんながお腹いっぱい食べて余ったパンを集めると、かご12杯分もありました。弟子たちも集まっていた人たちも、イエス様はすごい方だ、と心から驚きました。
 さあ、この後どうなったとおもいますか?実はイエス様は山に行ってしまわれ、その後湖の向こう岸に行ってしまわれたのです。
 人々はイエス様に言いました。「イエス様!私たちの王様になって下さい。私たちが好きな時に好きなだけパンが食べられるようにして下さい!」でもイエス様は言いましたよ。それが今日のみことばです。「わたしがいのちのパンです」。イエス様を信じる者は、死んでも死なない永遠のいのちを頂けるのだ、というのです。多くの人々は、パンを欲しがっただけでイエス様を信じようとはしませんでした。目に見えるもの、物質的な必要だけを満たしてもらおうとしていたのですね。イエス様はこの給食の奇跡を通して、本当に一番大切な永遠のいのちを与えるのは、イエス様ご自身なのだと示されました。
 心を養い生きる力を与えることが出来るのはイエス様です。目には見えませんが、信仰を大切にして、イエス様を信じて歩みましょうね。

<適用>(赤松勇二師)

 皆さんは、今朝どんな食事をしましたか?心配しないで下さい、記憶力の検査ではありません。私たちは、毎日、当然のこととして食事を取ります。では、霊の糧である御言葉はどうでしみなょうか。日々の歩みのために私たちの心は、どこに目を向けるのでしょうか。それでは、引き続き御言葉を通して教えて頂きましょう。

Ⅰ;必要が与えられ、みわざを見る(1-7)

9.「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。
10.イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であっ
    た。
11.そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望だけ
    与えられた。

 イエス様は、「いのちのパン」です。私たちは、イエス様のもとで必要が与えられ、みざわを見ることが出来ます。ヨハネ6:1でイエス様は、ガリラヤ湖(テベリヤ湖)の対岸へ行かれました(ルカ9:10)。それは、イエス様と弟子たちとで静かに時間を過ごすためでした。イエス様にも弟子たちにもそのようにする理由がありました(今日は触れませんが、マタイ14:1-12を読んで下さい)。

 イエス様たちが出かけると、すぐに群集が追いかけて来ました。イエス様のいる所には、いつでも大勢の群衆が押し寄せるのです。押し寄せてくる群集を見てイエス様は、彼らが「羊飼いのいない羊のような(マルコ6:34)」状態であるのを憐れみ、予定を変更してくださいました。そしてイエス様は、いろいろと教え、群集の心の必要を満たされたのです。それだけではなくイエス様は、彼らの肉体的な必要をも気にかけてくださいました。そこでイエス様は、弟子のピリポに「群集を食べさせるにはどうしたらよいだろうか」と言われます。ピリポは、耳を疑ったでしょうね。これは、他の弟子たちも聞いていたことだと思います。ピリポの7節の返事を言い換えると「イエス様本気ですか。200デナリのパンでも足りませんよ。しかもそんなお金はありません。」となるでしょう。1デナリは、一日の賃金に相当しますので、200デナリとは、200日分の給料に当たるわけです。ピリポは、それだけのお金があっても足りないし、一体そんなに大量のパンなど手に入るわけがないと考えたのです。イエス様は、ピリポを試すために、このように言われたのですが、ピリポは、イエス様がなぜこのように言われるのか理解できなかったことでしょう。ピリポは、「男性だけでも5千人以上、女性や子どもを入れるともっといるのです。そんな人数に食事を与えるなど、どんなに考えても無理だ」と結論を出しました。そこに他の弟子のアンデレが、提案をしました。それは、少年が持っていた「五つのパンと二匹の魚」です。しかしアンデレも、「これだけではどうにもなりませんよね。」と諦めています。アンデレは、諦めつつもイエス様の元にそれを持ってきました。後は、イエス様に任せるしかありません。イエス様は、群集を座らせるようにと弟子たちに指示を出します。彼らは、イエス様がこれから何をするのか検討がつかないのですが、言われた通りにしています。イエス様は、弟子たちの困惑など気に留めず、差し出された五つのパンと二匹の魚を感謝し、祝福して分け与えました。すると群衆が十分食べるほどに、次から次へと分けることが出来たのです。驚きと歓喜に包まれる弟子たちの姿が目に浮かびます。

 この一連の事柄から、私たちは、自分の信仰を見つめ直す事が出来るのではないでしょうか。私たちは、自分自身のために祈り、抱えている問題などをイエス様に打ち明けます。そして私たちは、主の御心がなるようにと祈ります。しかし、時々私たちは、弟子たちのように諦めてしまったり、それが何になるかと思ってしまうことがないでしょうか。そして私たちは、祈った事柄についてまだ自分で何とかしようと思い煩い、「イエス様がしようとしていることが分からない」と思ってしまいます。でも実は、イエス様のしようとしていることが分からないのではなく、それを見ようとしてないことが多いのではないでしょうか。皆さんは、今どんな必要があるでしょうか。イエス様のもとに行きましょう。私たちは、イエス様の御手に全てを委ねることが出来ます。イエス様は、ご自身のみわざによって私たちを導いて下さいます。そのことを信じて歩みましょう。その時私たちは、主のみわざを見ることが出来るのです。

Ⅱ;決して飢えず、渇かない(35-37)

35.イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときに
    も、決して渇くことがありません。
37.父がわたしに与えて下さる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりは
    しません。

 イエス様は、「いのちのパン」です。このイエス様のもとに行く時私たちの心は飢えることも渇くこともありません。私たちは毎日肉体に必要な食物を食べ、健康を維持するための栄養を摂取しなければ生きていけません。栄養が偏ると健康のバランスまで崩れてくるのです。だから好き嫌いなく食べることが大切だと言われるのでしょう。けれどもどんなに沢山食べても、またお腹がすいてくるものです。人は、肉体の健康のために、「食物」について沢山の時間を費やします。それに比べて霊的な心の健康のためにはあまり気にしていません。その必要性にも気付いていないのではないでしょうか。けれども多くの場合、心が荒れ果て、飢え渇き、霊的に不健康になっているので精神的にも肉体的にも問題を抱えてしまうのです。

 イエス様は、何と言ってくださっているでしょうか。イエス様は、「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(35)」と言っておられます。イエス様は、いのちのパンです。いのちのパンであるイエス様のもとで初めて私たちは、安定した心の安らぎを得ることが出来ます。なぜなら、イエス様を信じる者をイエス様は、決して見捨てることはしないからです。「聖書新改訳2017」では、「決して外に追い出さない」と訳されています。第三版と2017の両方から理解すると良いと思います。イエス様は、決して捨てないし、イエス様の恵みから私たちは追い出されることはないのです。どんなに孤独感に襲われても、イエス様は決して私たち見離すことはしないのです。ある聖書は、37節を「私のところに来る者を私は決して退けない(ひとりも絶対に拒否することはない)」(詳訳聖書)と訳しています。このイエス様の言葉は、何と力強い言葉でしょうか。皆さんは、この「決して捨てない」「決して一人にはしない」「追い出さない」と言うイエス様の約束を体験しているでしょうか。イエス様が、そう言われるからには、確かなことなのです。

 今私たちは、言い様もない不安の時代を生きています。国際的にも不安定ですし、新型コロナウイルスの感染が続く中、大雨の被害が出ています。そんな中で私たちは、何により頼む事が出来るのでしょうか。フィリップ・ヤンシーという人が「痛むとき、神はどこにいるのか」と言う本の中で、次のように書いています。「拡大鏡の中心は、とても鮮明に文字がみえます。けれども、レンズの周りに映る文字は、全部ぼやけます。私はその時、自分の信仰は今まで、この周りのぼやけて見えるところだけに目を向けていたのではないかと思いました。神に向かって、答えのわかるはずがない質問をしていたのではないだろうか、と。そのようなとき、私たちの信仰の中心であるイエス様に焦点を合わせる必要があるのです。(痛むとき、神はそこにいるのか同14㌻)」私たちは、あまりにも自分の経験していることが大きすぎて、イエス様の臨在が分からなくなること、自分ひとりで一生懸命生きていると思ってしまうことがあります。そのような時にも変わらずイエス様は、物事の中心にいて下さいます。最近出版された「コロナウイルス禍の世界で、神はどこにいるのか」という本でも同じようなことが書かれています。私たちは、問題のあれやこれやと分からない事に目を向けます。それはちょうどぼやけた部分を一生懸命に見つめて、よく見えない、分からないと言っているようなものなのではないでしょうか。イエス様は、常に変わらず、私たちの経験する事柄の真ん中に私たちと共にいて下さるのです。イエス様は、私たちに「わたしのもとに来る者を、わたしは決して追い出したりしない(37)」と約束してくださっています。

 イエス様はいのちのパンです。イエス様は、私たちの心を完全に満たすことが出来ます。私たちの心は、イエス様によって常に満たされ潤されるのです。どんなに荒れ果てた砂漠のような心でも、イエス様はいのちを与え、オアシスとなって潤し、平安を与えてくださるのです。心が砂漠のように渇ききっているなら、イエス様のもとに行きましょう。心に活力が足りないと感じるならイエス様のもとにいきましょう。イエス様は、決して私たちを見捨てず、追い出さないのです。