<子どもたちへ>
4月から休校で始まった新学期も終わり、短い夏休みに入りましたね。中学生はあと一週間学校があるようですけれども、皆にとっては、どんな一学期だったでしょうか。さて、学校では、辞書を使う授業をすると思います。小学校では3年生くらいからでしょうか、国語辞典を使って意味を調べる勉強があります。中学1年生は、英語の辞書や漢和辞典なども使いながら、新しい言葉の意味を学びますね。言葉の意味を知ると言うことは、僕たちの生活を豊にしていきますので、これからの人生、辞書を手元に置くことは大切なことかもしれません。
さて、今日は、聖書の言葉を調べた人たちのことを見ていきます。僕たちは、聖書を通して、国語辞典や英語辞典などでは知ることが出来ない、神様について、救いについて、永遠のいのちについて知ることが出来ます。その一つ一つは、僕たちの人生を豊かにしてくれます。
皆さんは、これまで教会学校で「パウロ」という名前を聞いたことがあるでしょう。パウロは、クリスチャンを迫害していた人でしたが、イエス様に出会って、180度人生の方向転換をしてイエス様を伝える伝道者になりました。そのパウロは、多くの所で神様のこと、イエス様による十字架の救いと罪の赦しについて話していました。それによって多くの人がイエス様を信じる信仰に導かれたましたが、パウロの伝道を邪魔する人たちも多くいました。だからパウロは、行く先々で必ずと言って良いほど迫害を受けるのです。テサロニケという町で伝道した時も、信じる人が起こされて教会が誕生しました。けれども、ユダヤ人たちの迫害を受けて、パウロは、次の町へ移動することとなりました。次の町「ベレヤ」が、今日の舞台です。パウロは、テサロニケで聖書の話をして迫害を受けたのです。普通なら、もう聖書の話をするのをやめようと思ってしまうところです。パウロは、そんなことは考えなかったようですね。ベレヤに行ったパウロたちは、ユダヤ人ですから、ユダヤ人の会堂で聖書を通してイエス様のことを話したのです。どんな展開となっでしょうか。
ベレヤのユダヤ人たちは「テサロニケにいる者たちよりも素直な人たち」だっと書かれていますね。ベレヤの人々は、パウロの語る福音、イエス様の救いについて偏見を持たず、謙遜に聞く態度を持っていたのです。彼らは、「非常に熱心にみことばを受け入れ」たのです。そして聞いただけではなく、「はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」のです。この当時は、印刷された聖書はありません。聖書は、大きな巻物として各会堂に保管されていたのです。だから聖書を読み調べるためには、会堂に行く必要があります。ベレヤの人たちは、毎日会堂に集まって、パウロが話していることを聖書の御言葉を調べながら確認したのです。その結果、多くの人がイエス様を救い主と信じて、罪を悔い改め、救いの恵みを受けることが出来ました。
皆さんは、今、聖書を持っていますね。持っていなければ買い求める事が出来ます。それを読んでいますか。聖書は、持っているだけでは駄目なのです。聖書の御言葉は、神様から皆へのメッセージが詰め込まれていますので、それを開いて読まないといけません。私たちは、聖書を読むことで、神様からのメッセージを知ることが出来ます。そして心に大きな励ましと慰めと力を受けるのです。そして聖書を読んで教えられたこと、励まされた事、良かったことなどあったら教えて下さい。一緒に喜びを分かち合いましょう。是非、聖書を読んでいきましょう。
お祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。今聖書の御言葉を手にしている事を感謝します。神様の言葉である聖書を読み続ける事が出来るように導いて下さい。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」
<適用>
それでは、続いて今日の箇所から、適用を見ていきましょう。私は、本格的な夏が来る前に、しかも梅雨に入る前に、網戸を張り替えようとしました。今ではインターネットで張り替えの動画などが紹介されていてその方法を知ることが出来ます。私は、色々調べて必要な道具や網などを買いそろえました。何度か動画を見て、分かった気になって張り替えを始めます。するとなかなか思い通りに作業が進みませんでした。その都度、スマホを取り出して確認をします。そのうちスマホを脇に置いて動画を見ながら作業を進めることになりました。スマホ片手に網戸の張り替えをして、一枚を張り替えるのに1 時間以上かかったでしょうか。予想以上に大変だったので、その後の作業が進まず、未だに張り替えは終わっていません。
何か新しいことに取りかかる時、説明書などを手にして取りかかります。新しい道を進むには、地図が必要です。今ではカーナビがありまるから、カーナビの画面をチラチラ見ながら運転するでしょうか。そのように、私たちは、何かを手に持つようにして生活しています。
そして今私たちは、人生という旅路を聖書の御言葉を手にして歩むことが出来ます。その中で皆さんは、どのような日々を過ごしているでしょうか。
Ⅰ;どんな心で開きますか?
使徒の働き17:10-12
兄弟たちはすぐ、夜のうちにパウロとシラスをベレアに送り出した。そこに着くと、二人はユダヤ人の会堂に入って行った。
この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。
それで彼らのうちの多くの人たちが信じた。また、ギリシアの貴婦人たち、そして男たちも少なからず信じた。
私たちは、「御言葉を手にして」います。では私たちは、どのような心で、聖書を開くのでしょうか。聖書に対して、私たちは、どのような反応をしているでしょうか。今日の聖書箇所には、二つの反応が出てきます。イエス様は、御言葉を聞く心の状態について4つの畑のたとえを話されました(ルカ8:1-15)。と言うことは、御言葉に対して後2つの反応があるという事です。イエス様が話されたたとえは、道端のような心、岩の上のような心、茨の生えている心、良い地の心です。
テサロニケの町とベレヤの町では、対照的な態度が見られます。まず、テサロニケの町のユダヤ人たちは、道端のような心になってしまうユダヤ人たちがいました。道端のような心とは、「御言葉を聞いても信じて救われないように、悪魔が御言葉を取り去ってしまう(ルカ8:12)」ような心です。パウロたちの伝道によってテサロニケの町では、ある程度の人たちが信仰に導かれました。しかし、ユダヤ人の会堂に集まるユダヤ人たちの多くは、語られた御言葉を受入れることがありませんでした。その証拠に、彼らは、パウロたちを迫害するために暴動を起こすのです。開かれ、語られる御言葉に心を閉ざすと言うことは、その人の心に神様の言葉は残らないと言う結果になります。そうなるとその人の人生は、神様の祝福を受けることは出来ません。
では、ベレヤの町の人たちはどうだったでしょうか。ベレヤの町のユダヤ人たちの心は、良い地の心だったということが出来ます。良い地のような心とは、御言葉を聞き、それを守り、忍耐して従い実を結ぶ心です(ルカ8:15)。ベレヤのユダヤ人たちは、「テサロニケにいる者たちよりも素直で(使徒17:11)」と言われています。彼らは、パウロの語る聖書の御言葉を偏見なしに、熱心に、そして素直に聞いたのです。聞いて、受け止め、それだけではなく、「毎日聖書を調べた(11)」と言われています。この当時の聖書は、印刷ではなく、原本が書き写された写本です。しかもそれは、巻物となっていて膨大な量となります。ですから会堂に保管されていて、安息日ごとに人々が会堂に集まり、御言葉を聞くのです。ベレヤでも人々が聖書を持っていたわけではありません。彼らは、パウロが語ることをしっかりと聞きました。そして彼らは、毎日会堂に集まり十字架にかけられたイエスが、救い主かどうか調べたのです。また、旧約聖書に記されている救い主の預言が、イエスを指しているのかどうかを丁寧に調べたのです。その結果は、どうだったでしょうか。ベレヤのユダヤ時たちは、旧約聖書に記されている救い主預言が、イエス様のことであり、イエス様が聖書に記されている通りに十字架にかかり、救いの道を開いて下さったと言うことが分かったのです。分かっただけではなく、イエス様を救い主として信じたのです(同12)。良い地のような心を持っていた人たちは、罪の救いという恵みを受け、神様からの祝福を受ける事が出来たのです。
さて皆さん、私たちの心は、道端の心と良い地の心と、どちらの心でしょうか。イエス様は、あと二つの心の状態について話しています。岩地のような心とは、御言葉を聞くとその時は喜びますが、すぐに御言葉から離れてしまう心です(ルカ8:13)。茨の中のような心とは、御言葉を聞いていますが、様々な事柄に心が支配され、御言葉から外れてしまう心です(ルカ8:14)。私たちは、聖書の御言葉を読みながら様々な心の反応を示すでしょう。私たちは、良い地の心で、素直に耳を傾け御言葉を受け入れ、調べ、御言葉の教えに心を向けられるようにと祈りつつ主を見上げて
歩みましょう。
Ⅱ;永遠のいのちに至る
ヨハネの福音書20:30ー31
イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである
私たちは、「御言葉を手にして」います。この御言葉を読み、調べることで、私たちは、救いの恵みの広さ、深さ、大きなを知ることが出来るのです。私たちの脳は、「アハ体験」をすることで活性化されると言われています。皆さんは、この「アハ体験」をしているでしょうか。「アハ」というのは、英語の「a ha!」のことです。「a ha!」には、「あそうか!」「ひらめいた。分かった」という驚きと発見の意味が込められています。例えば、ニューストンは、リンゴが木から落ちるのを見て、ひらめいて、引力がるということが分かったわけです。また、二つの絵の片方には間違いが5つありますのような「間違い探し」も「アハ体験」の問題です。間違いを見つけることが出来ないと、モヤモヤしてきますが、いざ間違いを見つけると「あった!見つけた!」という喜びを経験します。その時、私たちの脳は、刺激を受けて活性化するらしいです。
私たちは、聖書を読んでいてこの「アハ体験」をする事があるでしょうか。神様の御言葉によって、心が活性化され、心が喜びに、驚きに、感動に包まれるという経験をしているでしょうか。私たちは、聖書を通して実に多くのことを知り、恵みを受けることが出来るのです。ヨハネは、ヨハネの福音書20章30-31節で福音書を書いた理由を明確にしています。これは、聖書が書かれた目的と言っても良いでしょう。一緒に読みましょう。
「イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。これらのことが書かれたのは、イエスが神のキリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」
ウエストミンスター小教理問答の「問3」には、「聖書は主(おも)に何を教えていますか」という質問があります。それに対する答えは、「聖書は、主(おも)に、人間が神について信じなければならないことと、神は人間にどのような義務を求めておられるのかを教えています。」とあります。聖書は、私たちが信じなければならないことは何か、私たちは神様を信じてどのような生活をすることが大切のかを、教えているのです。
私たちは、ヨハネが言うように、聖書を通してイエス様が神のひとり子、救い主である事を知ることが出来ます。そして私たちは、聖書を通してイエス様が十字架の死と復活によって救いの道を開いて下さり、信じる全ての人に永遠のいのちが約束されていることを知ることが出来ます。さらに私たちは、聖書の御言葉によって、私たち自身が神様の教えからかけ離れていることを知ることが出来ます。それと同時に、私たちがどれほど神様に愛されているのかをも聖書を通して知ることが出来るのです。聖書を読んでいると私たちは、そのような気づきを経験するのです。そのような時私たちは、神様の御手の中で、神様による「アハ体験」をしているのです。そしてその時、私たちの心は、励まされ、勇気づけられ、時に悔い改めに導かれ、時に感謝の賛美に導かれるのです。このように神様は、私たちの日々の生活にかかわってくださるのです。また神様は、私たちの内面をも取り扱い、心の内側から私たちを変えてくださるのです。そのことを聖書を通して一つ一つ知ることが出来、私たちの人生が整えられていくのです。御言葉を手にして、御言葉に教えられ、御言葉を心に留めて歩み続けましょう。
祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちに御言葉を与えて下さって感謝致します。私たちの心に御言葉に教えられやすい心を与えて下さい。私たちが聖書を開く時、神様が教えて下さる事をしっかりと聞き、学び、従うことが出来ますように導いてください。私たちは、聖書の御言葉を通して励まされ、勇気づけられ日々歩むことが出来る恵みを心から感謝致します。神様、新型コロナウイルス感染拡大を終息させてください。神様の恵みと慰めが日本を、世界を、一人ひとりを包み込みますようにお願いします。一人でも多くの人が、天地を造り、私たちを愛し手くださる神様に、私たちのために十字架にかかって死なれ、よみがえり今も生きておられるイエス様に、目を向けることが出来るように導いて下さい。この祈りを私たちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」