2020年8月23日(日)礼拝説教 ヨナ書4章1ー11節

<子どもへのメッセージ>
 夏休みも今日で終わりですね。宿題や学校の準備はどうですか?今日これから追い込みという人もいるでしょうね。宿題のことは言わないで!という人もいるでしょう。イライラ不機嫌になってしまうこともあるかもしれませんね。
 今回でヨナのお話しは最終回です。神様の最初のご命令から逃げ出した後、海で死にかけ魚に飲まれて助かったヨナでした。先月のお話しでは、今度こそ二ネべに福音を伝えに行って、人々が神様を信じたというお話しでした。大成功の素晴らしい出来事です。ところがヨナはプンプンしています。不愉快で、不機嫌で、怒っていました。「神様、どうして二ネべを赦してしまったのですか?二ネべなんか滅びてしまえば良かったのに!悪者にも優しいなんて、ひどいですよ!これじゃあ死んだ方がましだ!」ひどい言葉ですね。ヨナは二ネべが嫌いだ!という気持ちから抜け出せなかったのです。
 ヨナはブツブツ言いながら、町から出て自分で小屋を建てました。「こうなったら二ネべのやつらが悪いことをして、やっぱり神様が怒って滅ぼすのを待ってやろう。」小屋に寝泊まりして、ずーっと見張るつもりなんですね。なんだかしつこいですね。そんなヨナに、神様は不思議なものを用意されました。ヨナの小屋の前の地面に、何かが生えて来ました。植物の芽です。見ているうちにぐんぐん伸びて、手のひらみたいな大きな葉っぱが出て来ました。とうごまという植物でした。あれよあれよという間にヨナの背よりも高くなり、丁度良い涼しい日陰を作ってくれたのです。その日の内に育つなんて、神様が特別に用意してくださったからです。ヨナは涼しくて大喜びです。
 ところが次の日の朝、今度は神様は一匹の虫を用意されました。葉っぱをムシャムシャ食べる腹ペコ青虫だったかな?汁を吸って枯らしてしまうカミキリ虫だったかな?わかりませんが、虫がたかったとうごまは、朝のうちに枯れてしまいました。太陽が高く上ると、今度は暑い熱風を神様は備えられました。二ネべのあたりは日差しの強い地域で、ちょうど日本の猛暑日のようだったのでしょう。ヨナは暑くてたまりません。「ああ、とうごまがあったらよかったのに。神様はちっとも私に良くしてくれないじゃないか。やっぱり死んだ方がましだ!」自分も守られて来たことを忘れて、ヨナはこんなひどい態度をとりました。でも神様は優しく話しかけてくれました。「ヨナ。あなたは世話したわけでもないとうごまをそんなに惜しんでいるのか。だったら、わたしが二ネべの人たちを大事に思っている気持ちを分かっておくれ。右も左も分かっていない罪人でも、わたしが二ネべの人たちに命を与え、生かしてきたのだから。」

 皆さん、神様は罪ある人たちを大事に思っておられます。自分自身を振り返ってみるなら、あの罪もゆるしてもらったな、こんな恵みも与えて頂いたな、と気づくと思います。自分を大きな恵みで愛してくださった神様は、その愛を罪人に届けたいと願っておられます。想像できないほどの深い愛です。狭い心から、神様のような広い心に変えて頂けるよう、お祈りしていきましょう。

<適用>
 ヨナ書の4回目となりました。預言者ヨナの不思議な物語に、神の愛が示されていることを学んできました。ヨナ書を物語として見るなら、3章までで完結してもいいはずです。しかし4章が必要でした。それは、ヨナの心の問題が残っていたからです。神様はヨナの心を取り扱い、ご自分の愛と恵みを理解させようとなさいます。今日は「恵み深い神様」ということを、共に教えられたく願います。

1. ヨナの怒り

 4章でのヨナは不愉快で、怒って、不機嫌だったとあります。結局のところ、もし神様が二ネべを赦さず滅ぼし尽くして下さるなら、ヨナは平安だったのです。ヨナと同じ気持ちになって二ネべを憎んでくれるなら、神をほめ讃えたのでしょう。自分は正しくて神が間違っている。神は私の側に立って下さらない。そう感じられたのでしょう。
 しかし神は、ヨナに対して十分恵み深くあられました。それなのにヨナは、それを忘れてしまっています。あれだけの経験をしたにも関わらず、ヨナは自分に注がれる神の愛を十分に理解できていなかったのです。神様が与えて下さっている人生をどうとらえるかを、考えてみたいと思います。
 「恵み」とは賜物、プレゼントのことです。自分に受け取る資格があるからではなく、与えて下さる方の大きな愛と広い心によって与えられるものです。すべてを「恵み」として受け取る人は、感謝と喜びを持つことが出来ます。一方、「権利」と取ると大変です。自分には手に入れる権利があると思うと、与えられないと不愉快になります。取り去られると怒りが湧いてきます。思い通りのものが与えられないと、神様にも人にも感謝することが出来ず、要求ばかりが出てきます。不機嫌と不愉快と怒り、ヨナと同じ状態に陥ってしまいます。
 自分は神様から与えられた人生を「恵み」として受けとめているか「権利」としてしまっているか、注意深く思い巡らす必要があります。鍵となるのは、ご自分を捨てて十字架への道を歩んで下さったイエス様のお姿です。主の愛を心に焼き付けていく時、初めて恵みを知ることが出来るのではないでしょうか。

2.神のレッスン

 神様はヨナの問題を取り扱うために、レッスンを備えられました。仮小屋にこもるヨナのために、1本のとうごまを一夜にして生えさせて下さったのです。超自然的に生え出でたとうごまは日よけとして役に立ち、ヨナはとても喜びました。
 しかしレッスンは続きます。神様は虫を備えてとうごまを枯れさせ、焼けつくような東風を吹かせました。神様は大切なものが失われる痛みをヨナに経験させました。それは神様が罪人の滅びをどんなに惜しんでいるかを教えるレッスンでした。ヨナは暑さの中で身も心も弱り果ててしまいます。ヨナはとうごまに神の好意を感じていたのに、それがとりさられてがっかりしたのかもしれません。再び激しく怒って「私が死ぬほど怒るのは当然です」と食ってかかるのです。
 ここで神様は口を開かれます。「ヨナよ、自分に所有権のないとうごまですら、あなたはこんなに惜しんでいる。私も、右も左もわきまえない12 万もの人々と家畜を惜しまずにはいられないのだ。」神様はへりくだってヨナにこう呼びかけておられるのです。聖書は人間を「神のかたちとして創造された」と表現しています。霊的な本質において神に似せて造られたという意味です。だから人が滅びることを神は悲しむのです。さらにここでは、動物の命すら大切に思っていると言われるのです。信仰者は、神の道を右にも左にもそれずに歩みたいと願っています。しかし神様は、右も左もわきまえない者すら愛しておられるのです。
 ヨナ書が4章まであるのは、信仰者に神と同じ愛の心を持たせたいからとしか説明が出来ない、とヨナ書研究家の遠藤義信牧師は言っています。

<結論>
 11節の終わり方は唐突にも思えます。しかしこれは、読者に問いかけるための手法と考えられます。どう応答するか、それはひとり一人に委ねられています。願わくは、イエス様の十字架の愛を通して、すべてを恵みとして受けとめる者とされますように。願わくは、神様の罪人の魂を惜しむ愛を、神様と共有させて頂けますように。私たちが感謝と喜びを持ち、罪人の悔い改めに心から仕える者となる事が出来ますように。祈りつつ私たち自身の心を取り扱って頂きましょう。