2020年9月27日(日)礼拝説教 ヨハネの福音書5章1-9節前半

説教題:「無力な者を立たせる主」

<子どもたちへ>

 やっと暑い夏が終わりましたね。今年プールに入った人、いますか?新型コロナウイルスの関係で、学校のプールも中止で残念でした。私たちは今プールと言うと、水泳を楽しむために入ります。でもイエス様の時代には、全く別の目的のプールがあったのですよ。それは、病気が治るためのプールでした。今日はそこでイエス様がなさったことを学びましょう。
 イエス様は、ユダヤ人のお祭りに合わせて、エルサレムの都に出かけて来られました。イエス様がまず行かれたのは、「ベテスダの池」という人工のプールでした。
 そこには、昔からの人工池の周りに立派な建物が立てられて、からだを清めたり出来ました。そして、不思議な言い伝えがありました。「天使が降りて来て水をかき混ぜる時、一番最初に水に入った人はどんな病気でもいやされる」というものでした。それなので、ベテスダの池には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちがたくさん来ていました。みんな敷き物を持ち込んだりして、そこに寝泊まりしたようです。いつ水がかき回されるか分からないから帰れないのですね。

 このベテスダの池にイエス様は来られました。すると、一人の男の人が寝ていました。なんと、38年も病気が治らず苦しんでいたのです。イエス様は男の人に話しかけました。
「良くなりたいか?」病気をしている人に対して、当たり前すぎる質問な気がします。こんなことを言われたら、「当たり前だろう!」と怒る人がいるかもしれませんね。
 男の人はこう答えました。「水がかきまわされたってね、だれも池に入れてくれる人がいないんですよ。自分で行こうとしても、他の人が先に入っていくんです。」自分で動くことも大変だったのがわかります。長い間、がっかりが続いて、半分あきらめていたのかもしれません。
 イエス様はその人に言いました。「起きて敷き物を取り上げて歩きなさい!」

 男の人はあっけにとられたことでしょう。起きられない、歩けない自分にこの人は何を言うのだろうか?でも、この先生の言う通りにしてみよう、そう思って男の人は立ち上がりました。すると、足には力が入りました。からだはしゃんとしました。「起きられた!歩ける!」38年間、言い伝えをあてにしていた時は、どうにもならなかったのに、イエス様のお言葉でいやされたのです。これはイエス様の癒しの奇跡です。でも、病気が治っただけでなく、おおもとの問題にも光が当てられました。言い伝えに頼るのか、まことの神様だけを信じてお頼りするのか、ということです。イエス様はこの人に、神様だけを信じて頼ることの大切さを教えて下さったのです。

 私たちもどうにもならずに無力さを感じることがあります。コロナの問題でそれが世の中全体に広まっている気がします。でも、迷信や人の言葉などに惑わされないようにしましょう。頼るべきは神様だけであることをしっかり心に刻んで、信じて行きましょう。

<適用>

 今日は、勇二師から新約聖書のお話をしてください、と言われました。しばらく旧約聖書のお話が続きますので、バランスをとってのことです。
 今年始めて知った言葉に、「アマビエ」というものがあります。お聞きになったことがあるでしょうか?疫病をおさめると言われる謎の妖怪だそうです。私が始めて目にしたのは、群馬県川場村の田んぼアートのイラストが、今年は「アマビエ」になりました、というニュースでした。最初は甘海老かと思って、何故あまえび?と思いましたが、正解はアマビエでした。あとで妖怪のなまえと知りました。
 また、今年は密を避けるために、各地の花火大会が中止になりました。でも全国各地の花火師有志が、ゲリラ的に花火を打ち上げて下さいました。花火も悪疫退散と関係がありました。江戸時代、8代将軍吉宗が飢饉の犠牲者の鎮魂と、疫病退散を隅田川で祈願しました。その際に、両国の料理屋が花火を打ち上げたという由来があるそうです。
 コロナ感染拡大による社会の変化に、社会全体が戸惑っています。こうした状況の中で、特定の宗教を持たないと言われる日本人も、神頼みの境地になっているようです。アマビエや花火はそのことを示しているように思にいます。
 しかし、何に対して、どなたに対して祈るのか、という点は置き去りになっています。ベテスダの池のイエス様と男性との記事から、頼るべき、祈るべきお方について学んでまいりましょう。

問題の只中に来てくださるイエス様

 イエス様はユダヤ人の祭りに参加するため、エルサレムへと向かわれました。ユダヤ人の成人には、3大祭でのエルサレムへの巡礼が義務付けられていました。どの祭かわかりませんが、イエス様も神殿を目指してやって来られたのです。
 ところがイエス様がまずエルサレムで行かれたのは、ベテスダの池でした。ベテスダはヘブル語で、憐れみの家という意味です。神殿からほど近い羊の門の近くで、ベテスダの池の遺跡は発掘されました。それは池と言うより人工のプールでした。大きさは、長さが120m、幅50~60m、水深は最大で10~15m、とかなりな大きさです。もともとはいけにえの動物を清める水を貯めたり、巡礼者の沐浴に使われたそうです。5つの回廊というのはヘロデ大王が池の周りに建てたものだそうです。

 しかし当時のベテスダの池はそうした目的では使われていませんでした。3節とその欄外注をご覧頂くとわかりますが、そこは病人たちが癒しをもとめて長逗留する場になっていたのです。考古学者は発掘の中で、ここにギリシャ神話の医学の神、アスクレピオスの神殿を発見したそうです。この種の癒しを謳うプールが、当時のローマ世界では各地に存在していたそうです。ローマに支配される中で、エルサレムにもこのような癒し場が造られたのでしょう。ベテスダの池はまことの神の神殿近くに位置しながら、異教に救いを求める場になってしまっていたのです。

 そこに、わざわざイエス様は足を踏み入れ られました。何のためでしょうか。それは1人の男性に出会うためでした。38年間病気に悩み、どうにもならず、失望の中にいる男性がそこにいました。イエス様は男性に「良くなりたいか」と聞かれます。そんなこと当たり前でしょう、と言いたくなります。しかし彼はそう答える気力も失っていたのでしょうか、誰も助けてくれません、他の人が先に行ってしまいます、と答えただけでした。
 この出会いは、イエス様が彼の問題の只中に訪れて下さったから実現した出会いでした。イエス様はこの男性に代表される、多くの病人やその家族など、苦しみの只中にいる人のところに、わざわざ来てくださったのです。イエス様は私たち無力な者の悩みや失望を素通りされるお方ではありません。まずそのことを覚え、私たちに寄り添ってくださるイエス様に私たちのありのままの心を聞いて頂こうではありませんか。

お言葉を与えてくださるイエス様

 イエス様は、異教の影響下にあるベテスダで、あえて真の癒しを行おうとされました。イエス様は男性の愚痴には反応せず、彼に向かって「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」とだけおっしゃいました。そこに居たすべての人は、この様子を見守っていたでしょう。彼はお言葉に従って、思い切って立ち上がりました。すると足は強くなり、体はしゃんとし、床をとり片付けて歩き始めたのです。今までは助けてくれる人がいなければ起きられない、歩けない彼でした。しかし今や癒され病から解放されたのです。

 これは癒しの奇跡であり、ベテスダで空しく癒しを待っていた人たちへの、鮮烈なしるしでした。ヨハネの福音書では、イエス様が救い主であるしるしの奇跡が記されています。最初の奇跡は2章のカナの婚礼で水をワインに変えた奇跡でした。第二の奇跡は4章後半の王室の役員の息子の癒しでした。こうした流れの中での5章です。本当の癒し主であることを指し示すための奇跡が、ベテスダで行われたのです。

 男性はユダヤ人で、幼いころから聖書の教える神への信仰を教えられていたでしょう。しかしその神にも見捨てられたと、異教に頼ったのかもしれません。イエス様はそこに彼の罪があることを鮮やかに示されました。あとになって宮、すなわち神殿の中でイエス様は男性を見つけだしました。彼は数十年ぶりにまことの神を礼拝をしようとしていたのでしょう。イエス様は男性にこう言われました。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない」(14)。
 この奇跡が安息日に行われたことを巡ってユダヤ人がイエス様を迫害しようとしていました。それなのに癒したのがイエス様だとわざわざ伝える所に、この男性の危なっかしさを感じるのは私だけでしょうか。
 イエス様のお言葉を信じて従う時に、祝福と希望が恵みとして与えられることを教えられます。と同時に、そうして下さるイエス様に、これからもしっかりと真実の信仰をお捧げしつづける覚悟が必要だとも教えられるのです。

<結論>
 イエス様についたり離れたりの危なっかしい歩みでなく、このお方だけだ、と心を決めてお従いしてまいりましょう。不確実で先が見えない中だからこそ、すべてのことを支配しておられる唯一の救い主と共に、歩ませて頂きましょう。

<祈り>

神様。私たちの失望の多い歩みの只中に近づき、寄り添ってくださることを感謝します。イエス様のお言葉をしっかり聞かせて頂き、あなただけにお従いして歩めるようどうぞお導き下さい。