中心聖句:詩篇33篇11節
「主のはかられることはとこしえに立ちみこころの計画は代々に続く。」
<子どもたちへ>
皆は、自分が生まれた時のことをお父さんやお母さんに聞いたことがありますか。皆が生まれた時は、どんな様子だったのでしょうか。お父さん、お母さんは、どんな気持ちだったのでしょうか。おじいちゃん、おばあちゃんは、どんな反応だったのでしょうか。
今日は、双子の誕生についての箇所です。先週の「イサク」を覚えていますか?神様が、父アブラハムにイサクを全焼のいけにえとして捧げなさいと命じたのは、イサクが何歳の時だったでしょうか。イサクが12-15歳くらいでした。それから25年くらいが過ぎた40歳の時、イサクは、リベカと結婚します。すぐに子どもが与えられず、イサクは子どもが与えられるために神様に祈り続けて20年が過ぎます。イサクが60歳の時双子の兄弟が誕生しました。
双子がリベカのお腹の中にいた時、その双子がリベカのお腹の中でぶつかり合っていました。何をしていたのでしょうかね。お腹の中で胎児が動くと言うことはあります。でもこの時は、リベカがどうなってしまうのだろうかと心配するほど、激しく動き回ったのだと思います。リベカは、「神様どういうことですか。大丈夫でしょうか」と祈りました。すると神様は、「兄が弟に仕える」と言われました。どういうことでしょうかね~。
さあ、いよいよ双子が生まれる時がやって来ました。先に出てきたのは、全身毛衣のように毛深い男の子で「エサウ」と名付けられました。次に弟が出てきたのですが、弟の手はお兄さんのかかとをつかんでいました。まるで、「俺が先に出てやる」と言っているようです。そこでヤコブと言う名前になりました。
二人は、大きくなってエサウは野に出て狩りをする猟師となり野性的な性格で、ヤコブは天幕(家)にいて穏やかな性格でした。ある時エサウが猟から疲れ切ってお腹を空かせて帰って来ました。丁度その時ヤコブは、煮物を作っていました。エサウは、美味しい匂いに食欲が刺激されたのでしょう、「ヤコブ、その煮物を食べさせてくれ」と言います。これに対してヤコブは、この時とばかり「じゃあ、長子の権利を売ってください」と持ち掛けます。「長子の権利」と言うのは、父親の財産を優先的に受け継ぐ権利です。そしてそこには、アブラハムからイサクに受け継がれた神様の特別な祝福が含まれているのです。エサウは、腹ペコで長子の権利どころではなく、早く目の前にある煮物が食べたかったのです。エサウは、「そんな長子の権利でお腹いっぱいになる事はないから、お前にくれてやる」と言って、一杯の煮物と大切な長子の権利を交換してしまったのです。神様は、「兄が弟に仕える」と言っていましたね。ヤコブが神様の祝福を受け継ぐと言う事ですが、ヤコブは、自分の力で神様の祝福を手に入れようと考えていたのです。
それから何年か経った時、父イサクは神様から与えらえている祝福をエサウに受け継がせようとしました。イサクは、エサウに獲物を取って来て料理して持って来てくれ、そうしたら祝福を与えようと言うのです。それを聞いていた母リベカは、ヤコブにすぐにヤギを連れて来なさい、またエサウに変装しなさいと言います。ヤコブは、父イサクを騙して神様の祝福を奪い取ってしまうのです。これに兄エサウは、殺意を抱くほど激怒します。ヤコブは、あわてて家を飛び出ていくこととなってしまいました。
神様は、「兄が弟に仕える」と言っておられました。神様の計画は、弟のヤコブが神様の祝福を受け継ぐと言うものでした。けれども父イサクも母リベカも神様の導きを求めることはありませんでした。また。ヤコブもエサウも、自分のことしか考えていません。けれども神様のご計画は、確かに進んでいきました。
神様は、皆にどのような計画を持っているでしょうか。皆は、将来の夢ありますか。将来どんな仕事をしたいと思いますか。今から神様にお祈りしましょう。神様は、一番良いことをしてくださいます。
祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様の導きがいつもあることを感謝します。神様、僕たちの歩みを導いて下さい。神様のご計画の中を歩むことが出来るように助け導いて下さい。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
<適用>
親が、子どもの将来のことを期待し、祝福を願うのは当然のことです。しかし、イサクとリベカには問題がありました。またエサウにもヤコブにも問題がありました。けれどもそのような人間的な失敗にもかかわらず、神様の計画は変わらず、神様の導きは変わることがありません。
Ⅰ;祈りつつ求めよう
神様の導きは変わりません。私たちは、祈りつつその導きを求めて歩みましょう。イサクとリベカは、それが出来ませんでした。
イサクの問題は、兄息子のエサウに祝福を与えようとしたことです。イサクは、視力が落ち、体力が落ち自分の死が近いことを感じて、生きている間に自分に与えられている神様の契約の祝福を子どもに受け継がせることにしたのです(27:1-4)。イサクの間違いは、その時にエサウを呼び寄せたことです。神様は、リベカに「兄が弟に仕える」と言っておられました。恐らくリベカは、そのことをイサクに話したのではないでしょうか。二人は、この神様の言葉に心を向け、神様がどんな計画を持っておられるのかを祈り求めることが必要でした。けれどもイサクは、自分のお気に入りのエサウを選び、神様の祝福を与えようとしたのです。イサクは、人間的な考え、好みによって行動しています。彼は、神様の御心、ご計画よりも、自分の思いを優先させたのです。これがイサクの問題です。
リベカの問題とは、人間的な策略を巡らしたことです。リベカは、イサクがエサウを呼び寄せたことを知り、盗み聞きをしていました。そしてエサウが猟に出かけたのを確かめてから、ヤコブに声をかけました。簡単に言ってしまえば、リベカは、ヤコブが父を騙して、祝福を横取りするように仕向けたということです。愛する息子ヤコブのために何でもする母リベカの姿があります(27:5-10)。父親を騙すことに抵抗を感じたヤコブでしたが、母の後押しがあり、実行しました(27:11-13)。リベカは、神様の約束の言葉を覚えていたと思います。そしてイサクの行動は、神様の言葉を無効としてしまう可能性のあることでした。だからと言ってリベカが策略を巡らしヤコブが父イサクを騙すようにすることは正当化できないことです。リベカは、神様の導きを期待するべきでした。
イサクとリベカの問題は、神様の言葉、約束に対して間違った対応をしてしまった所にあります。二人に必要だったことは、25章23節の神様の言葉を思い巡らし、それがどのような意味なのか祈り求めることだったのです。
皆さん、私たちは、イサクやリベカのようになっていないでしょうか。イサクは、神様の導きよりも自分の好きな道を選ぶのです。私たちは、神様の導きを感じつつも、自分の考えを優先させることがあるかもしれません。リベカは、神様の導きを待つことが出来ず、人間的な手段を選んでしまいました。私たちは、導きの中を歩みながらも、何か自分の力で神様の恵みや祝福をつかみ取ろうとしていることはないでしょうか。神様は、私たちを祝福し導いて下さいます。私たちは、神様のしてくださることを信じて、注意深く祈り求めていきましょう。
Ⅱ;信じて委ねる
神様の導きは変わりません。私たちは、神様の導きを信じて委ねて歩みましょう。エサウとヤコブは、それが出来ませんでした。イサクとリベカの不信仰は、そのまま子どもたちに影響を与えていきます。ヤコブは、父親を騙すことに抵抗を感じ心配します。けれどもヤコブは、長子の権利(祝福)に興味がありました。「兄が弟に仕える」という神様の言葉を母リベカから聞かされていたかは分りませんが、ヤコブは長子の権利に興味がありました。だから煮物を求める兄エサウに対して「長子の権利を売りなさい」ととっさに言う事が出来たのです。ヤコブは、長子の権利に固執していました。逆にエサウは、長子の権利を軽く考え、神様の契約を大切にせず、放棄するのです。ヤコブは、このエサウの性格をしっていて、長子の権利を受け取るのです。それに加えての父イサクを騙す作戦です。神様の祝福を受け継がせる大切な事柄ですけど、ここに相続問題が発生していたことになります。自己中心に陥ってしまった人間の醜さと言う事が出来るでしょうか。
ヤコブは、母リベカが料理したものをもって父イサクのもとに行きました(27:18-25)。視力が衰えていたイサクが、エサウかどうか確認する方法は、触る事、においを嗅ぐこと、声を聞き分けることでした。あまりにも早く料理が出されたことでイサクは、不思議に思います。しかしヤコブは「あなたの神、主が私のために、取り計らってくださったのです(創世記27:20)」ともっともらしいことを言います。それでも声がヤコブの声です。イサクはまだ信じられません。そこでさらに確認しました。「ヤコブがイサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。『声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。』」とイサクは、子ヤギの毛を使って毛深く変装したヤコブに騙されました。そして「ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクはヤコブの衣の香りを嗅ぎ、彼を祝福して言った。『ああ、わが子の香り。主が祝福された野の香りのようだ。』(27:27)」となりました。ヤコブは、エサウの衣を着ることでさらに騙すことが出来たのです。こうして、イサクは、ヤコブを祝福してしまいました。
ヤコブは、何度か立ち止まるチャンスがありました。けれどもヤコブは、素直になって改めること、立ち返ることが出来ませんでした。そして嘘に嘘を重ねて、罪に罪を重ねてしまうのです。その報いをヤコブは、その後の人生で受けることとなり、神様の訓練を受けることになるのです。ヤコブに必要だったことは、神様の導きを信じて神様の方法に委ねることでした。私たちは、神様に祈りつつも、何とか自分の力でどうにか出来るのではないかと考えてしまう事がないわけではありません。私たちは、神様に祈るよりもあれこれと考え、事を決めようとすることがあります。それは、ヤコブのような考え方となるのではないでしょうか。
私は、新聞配達をしながら専門学校に通っていた時、新聞店の先輩を教会に誘ったことがありました。その先輩は、聖書に興味はあるけれども、なかなか教会に来てくれませんでした。私は、神様に祈りつつ声をかけていました。しかし、時間が経つにつれて私は、教会に来てくれない先輩の心をどうしたら変えることが出来るか考えるようになりました。そのうち私は、祈り求めるより、自分の力や努力でその先輩を教会に連れていこうと考えるようになっていたのです。そのように考えている時は、失敗の連続です。そしていつの間にか祈ることが苦痛になり、神様の導きに期待することも弱くなっていくのです。それでも神様は、御手を差し伸ばしてくださり、私を祈りへと導いてくださり、神様に信頼することを教えて下さっていました。その先輩は、しばらくして教会に積極的に来てくれるようになり信仰に導かれました。私は、それが神様の時だったのだと知りました。その当時のことを今振り返っても、神様は不信仰になりかけていた私を見離さず、導いて下さっていたと感謝に溢れます。
私たちを導いて下さる神様の御手は変わることがありません。神様は、ちょうど良い時に御心を行って下さるのです。信じて委ねていきましょう。
Ⅲ;神様の憐れみが注がれています
神様の導きは変わることはありません。そこには、神様の憐れみが注がれています。私たちは、神様を信じて委ねて歩む事の大切さを知っています。そのように歩んでいきたいと切に願います。けれども、神様に委ねきると言う事の難しさも実感しているのではないでしょうか。どこでヤコブのように自分の考えで動いてしまったり、イサクやリベカのように祈り求めるをしなかったりすることがあるのではないでしょうか。イサク、リベカ、エサウとヤコブの行動は、罪深い人間の考えから生み出されたものです。そしてそれは、神様の御心からは、かけ離れたものとなりました。神様の約束が台無しになってしまうほどのことでした。ヤコブは、エサウの恨みをかい、家にいられなくなり遠く離れた親類の所に行くのです。イサク一家がバラバラになるような結果になるのです。
どこに神様の祝福があると言えるのでしょうか。どこに神様の民としての姿あるというのでしょうか。神様は、愛想をつかして知らん顔をしてもおかしくありません。けれども旧約聖書を読んでいくと、神様は、どこまでの真実であり、ヤコブの人生にかかることを止めることはありませんでした。それは、ヤコブの人徳ではなく、神様の一方的な憐れみです。アブラハム、イサクと受け継がれた契約の祝福は、ヤコブに受け継がれ、イスラエル民族となり、救い主イエス様による救いのみわざの成就となっていくのです。神様は、忍耐をもってイサク家族を見ていてください、憐れみを注ぎ続けて導いておられたのです。
神様は、今も私たちの人生に関わってくださいます。私たちは、イサクやリベカ、エサウやヤコブのように自己中心になって、神様の御心から外れたり、神様のなさることが分らなくなることがあります。それでも神様は、私たちを導くことを止めることはありません。神様は、皆さん一人一人にご計画をもっておられ、祝福を与えてようとしておられます。私たちを導く神様の導きは変わることがありません。信じて祈り、神様に委ねましょう。神様は、憐れみによって私たちを支えて、導いて下さいます。
祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。昔も今も、そしてこれからの神様の導きの御手は変わることなく、私たちに差し伸べられている事を感謝致します。神様、私たちに祈ることを教えて下さい。主を信じて委ねて神様の時を待つ信仰を与えて下さい。神様の憐れみを心から感謝致します。私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」