中心聖句
「人の歩みは主によって定められる。人はどうして自分の道を悟ることができるだろう。」箴言20章24節
<子どもたちへ>
今週のお話はヤコブの子どもたちのお話です。さあ質問です。この子は誰でしょう?ヒントは、ヤコブの一番のお気に入りで、11 番目の息子です。答えは…ヨセフです!
ヨセフはヤコブが90 歳くらいの時の子でした。「年寄り子」と言って、特に可愛く感じるそうです。ヨセフは袖の長い特別な良い服をいつも着ていました。動きにくい服ですよね。仕事はしなくていいよ、というお父さんのえこひいきがあったようです。お兄さんたちは特別扱いのヨセフが大嫌いでした。
ある日ヨセフは夢を見ました。「すごく不思議な夢だなあ。」ヨセフはお兄さんたちに聞いてもらいたくなりました。「ねえねえ兄さんたち。夢の話を聞いてください。畑で麦の束を束ねていたら、私の束がまっすぐに立ちました。するとお兄さんたちの束が周りに来て、お辞儀をしたんですよ!」するとお兄さんたちの機嫌が悪くなりました、「おい!お前は俺たちの王様にでもなるつもりなのか?」兄さんたちはますますヨセフを嫌いになりました。またある時、ヨセフは違う夢を見てお父さんとお兄さんたちに話しました。「聞いてください、今度の夢ではこうでした。太陽と月と11 の星がわたしを伏し拝んでいるんですよ!」今度はお父さんが顔をしかめました。「ヨセフよ。私やお母さん、兄さんたちがお前を拝むとでも言うのか。そんなことを言うもんじゃない!」太陽はお父さん、月はお母さん、星は兄さんたちと弟を意味していると分かったのですね。しかりながらもヤコブは、昔自分も夢で神様のお告げを聞いたことを思い出していました。
ある日のこと、ヨセフは羊を放牧している兄さんたちの無事を確かめに行くことになりました。「あ!いたいた!兄さんたち~!」駆け寄ろうとするヨセフを見て、お兄さんたちが言いました。「見ろよ、夢見る者が来たぞ。殺して穴に投げ込んでやれ。あんな夢、実現するもんか!」恐ろしいですね。でも一人の兄さんが反対しました。「殺してはいけない。腹が立つなら穴に投げ込んでおけば気が済むだろう?」ヨセフが穴に入れられてしばらくすると、エジプトへ行くキャラバンが通りかかりました。「殺すよりヨセフを奴隷に売ろう。金になるぜ」。別の兄さんがそう言って、ヨセフはとうとう売られてしまいます。そしてエジプトへ連れて行かれたのでした。
聖書を読んでいくと、あの夢は将来必ず実現することで、神様からのお告げでした。でも家族に売られて外国で奴隷とされるなんて、全く逆方向に物事が進んでいるようです。このギャップをどうとらえたらいいのでしょうか。人間には神様のご計画のすべてを最初から理解することは出来ません。しかし、私たちに理解できなくても、神様が愛をもってご計画を進めておられると信じることが大切です。今日のみことばを読みましょう。歩みを定めて下さる神様は愛のお方です。神様に信頼しましょう。
ヨセフはお父さんに守られた状況から、離れていかなくてはなりませんでした。皆さんも、いつかご両親の保護から羽ばたいて行くでしょう。その時、思いもよらないことが起きるかもしれません。そんな時、今日のお話を思い出して下さい。
<適用>
私たちは、自分の人生について様々な計画を立てます。時にはその計画の通りに進みますが、多くの場合、計画を変更しながら生きて行くものです。けれども私たちは、計画変更の人生であったとしても振り返った時、神様が最善の道を示してくださったことを知る事となります。創世記は、37章からヨセフの生涯をたどることとなります。この部分は、ヤコブの一族がどのようにエジプトに移り住むようになったのかを説明することになります。しかしそれは、実は神様がアブラハムに言われていたことであって、神様のご計画でもありました。「主によって定められる人生」と題をつけましたが、
この37章には、その原則を忘れた人たちが出てきます。ですから37章に出てくる人物は、私たちにとって反面教師的な役目を果たすかもしれません。ご一緒に見ていきましょう。
Ⅰ;夢を自慢するヨセフ
まず、この創世記37章からの物語は、一人の人物を中心に進められていきます。その人物とは、ヤコブの11番目の息子のヨセフです。37章2節には、「これはヤコブの歴史である。ヨセフは・・・」となっています。大きな意味からすれば、これはヤコブの歴史です。このヤコブの12人の息子たちがイスラエル民族を形成するようになるのです。最初にも言ったように、37章からは、ヤコブがどのようにしてエジプトに行ったのかを示す役目を持っています。と言う事は、いずれイスラエル民族がエジプトを脱出するという出エジプトの発端がここにあるのです。そのような意味でこれは、ヤコブの歴史なのです。そしてヤコブの歴史は、ヨセフを中心に動いて行くことになります。ヨセフは、どのような人物だったのでしょうか。
ヨセフは、17歳で、羊の群れを飼う、羊飼いの手伝いをしていました。ヨセフは11番目の子どもでした。ヨセフの上には、母親違いの10人の兄がいました。ヤコブには、2人の妻と2人の側室がいました。それぞれの間に子供が生まれ、彼らは一家として一緒に生活していたのです。ヨセフは、他の兄弟たちの補佐役として必要な時に放牧を手伝っていたという感じでした。それだけならばよいのですが、ヨセフは、その兄たちの悪い噂を父に報告していたのです(4)。兄弟たちにとってヨセフは、少々目障りな存在となっていたのです。しかし問題はそれだけではありませんでした。ヨセフは、どの兄弟たちよりも父ヤコブに愛されていたのです。その理由は、ヨセフがヤコブの年寄り子だったからです。そして聖書から分かるもう一つのことは、父ヤコブの最愛の妻ラケルの息子だったからです(創世記29:30)。ヤコブは、ヨセフに高価な特別な長服を作って与えていました。これは、ヤコブが、他の息子たちよりもヨセフを大事にしているという証拠です。
さらに問題は、それだけではありませんでした。ヨセフは、父が自分を特別扱いすることに満足し、高慢になっていと思うのです。ヨセフは、自分が見た夢をそのまま得意満面に家族に話すようになりました(5-11)。その内容は、両親や兄弟が、自分にひれ伏すという夢でした。これは、誰よりもヨセフが、偉くなると言うような事なのです。その結果、兄弟たちは、少々どころか大いにヨセフを嫌悪するのです。「彼の兄たちは、父が兄弟のだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことが出来なかった。(4)」「兄たちは彼に言った。『おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとても言うのか。』こうして彼らは、夢のことや、ことばのことで、彼をますます憎むようになった。(8)」とあると通りです。
ヨセフは、兄たちが自分を嫌っていたことに気がづかないで、兄たちの気持ちを逆なでするのです。これが、ヨセフの大きな問題でした。旧約時代、人が見る夢には、それなりの意味があると理解されていましたので、夢が2度繰り返されたことは、神様が確かにこのように導かれるという意味が含まれています。実際に神様は、信仰の人たちに夢を通して御心を示しておられます。ヨセフが、しなければならなかったのは、夢を自慢する事ではなく、夢の意味を神様に問いかけることでした。なぜならば、私たちの歩みは、神様によって定められるからです。けれどもヨセフは、それが出来なかったのです。
Ⅱ;妬みに燃える兄弟たち
その結果、ヨセフは、兄弟たちの妬みを受けることとなり、事態は思わぬ展開をしていきます。しかしここには、兄弟たちの問題があったのです。ある時、兄たちが放牧のために、遠くに旅に出ていた時のことです。父ヤコブは、息子たちの様子を確認するためにヨセフを使いに出しました。今のように自動車はありません。郵便も出すことが出来ません。当然無線機も携帯電話もない時代です。遠く離れた家族の安否を確認する方法は、誰かが見に行き確認するしかありません。ヤコブは、ヨセフを使いに出す方法を選びました。
そのヨセフの旅は、最初予定していた場所よりもさらに遠い道のりとなりました。その距離は、約100キロくらいです。ヨセフは、100キロにもなろう距離の長旅を、あの特別な長服を着て旅をしていたのです(23)。放牧している兄弟を探すのですから、もっと動きやすい、長旅に適した服装があるでしょう。しかしヨセフは、あまり考えずにその服を選んでいたのでしょうか。これが兄弟たちの心にさらに火をつけることとなりました。
ヨセフは、兄たちが放牧している場所をやっと聞きつけ、向かう事が出来ました(15‐17)。しかし兄たちは、遠くにいるヨセフを見つけてある計画を立てました。18-20節にあるように「夢見る者がやって来た」と揶揄するような言い方をして、ヨセフの殺害を考えるのです。しかし長男ルベンがその計画を阻止し、ヨセフは、長服をはぎ取られ、穴に投げ込まれました。そして、長男ルベンが席をはずしている間に、4男のユダがそばを通りかかったイシュマエル人の隊商にヨセフを売り飛ばすと言う提案をします。イシュマエルとかミデヤンとか言われていますが、総称的に二つの名前が使われているようです。ユダは、ヨセフを殺すことは良くないとしながらも、ヨセフを売れば少しでもお金が手に入ると考えたのでしょう(25-28)。こうしてヨセフは、奴隷として売られ、結果としてエジプトに連れていかれることになりました。
このような計画を立てているのは、ヤコブ(イスラエル)の息子たちです。神様は、アブラハムから多くの国民が出ると約束し、祝福を与えておられました。それがその子イサクに受け継がれ、ヤコブに受け継がれています。そしてイスラエル部族となって行くのです。ルベンやユダをはじめ、その場にいたヤコブの子どもたちは、神様の祝福を受け継ぐ者たちです。けれども彼らは、神様の祝福の約束をあまり心に留めていなかったようです。
彼らは、アブラハムから続く神様の約束や祝福の意味を考え、神様の御心を求めるべきだったのです。しかし彼らは、ヨセフへの妬みと憎しみのために目が閉ざされ神様を見失っていたのです。だから何をするべきかの道をも見失ったのです。私たちの歩みは、神様によって確かにされます。
Ⅲ;神様を忘れたヤコブ
では最後にヤコブに目を向けてみましょう。ヨセフは、自分が見た夢を得意満面に自慢するという問題がありました。他の兄息子たちは、ヨセフを憎むという感情的な問題がありました。それは、彼らの信仰の問題と言えるかもしれませんが、父ヤコブの信仰の在り方も大いに影響を与えていると思います。
ヤコブは、ヨセフが自慢する夢に対して、ヨセフを注意することがありましたが、「父はこのことを心に留めていた」と言われています。ですからヤコブは、ある程度神様の御心を求める思いを持っていたと考えられます。けれども、ヤコブには、大きな問題がありました。それは、ヤコブが他の兄弟たちよりもヨセフを愛したという、3節の言葉にあるのです。ヤコブは、年寄り子であり、最愛の妻ラケルの子どもであるヨセフを愛するあまり、他の息子たちのことをそれほど気に留めていなかったのです。その偏愛がヤコブの問題でした。
ヤコブは、その人生の中で多くの困難を経験し、神様からの訓練を受けたのですが、神様の取り扱いは、続いていました。ヤコブは、神様の祝福の契約が12人の息子にどのように受け継がれ、どのように実現するのかを求める責任がありました。しかしヤコブは、ヨセフへの偏愛のために神様の御心を見失っていたのではないかと思われます。
今日は、ヨセフと10人の兄、そして父ヤコブの姿を見てきました。それぞれに、違った問題がありました。しかし共通していることは、神様に祈り求める事が少なかったと言う事です。ヨセフは、夢を見たときに神様の御心は何かを求める必要がありました。10人の兄たちは、アブラハムから続く神様の祝福の意味を考え、神様の導きを求めるべきでした。そして父ヤコブは、神様の祝福の契約は、どのように引き継がれ、どのように実現していくのだろうかと思い巡らし、神様からの知恵を求めるべきだったのです。
私たちは、色々なことを経験し、考えながら生きています。そして私たちは、先の分からないことの中で不安を感じることもあるでしょう。そのような時に大切なことは、私たちを愛し、私たちを救い、私たちを祝福してくださる神様を心から慕い求めると言うことです。ヤコブへの取り扱いが続けられていたように、神様は、私たち一人ひとりを訓練し、成長させてくださるのです。だからこそ、私たちは、神様を忘れず、神様を信頼し歩みましょう。私たちの歩みは、人生は、神様によって定められるのです。
お祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。今日も神様の恵みによって歩ませて頂いていることを感謝致します。ヨセフの身に起きたこと、10人の兄弟たちのしたこと、ヤコブの姿勢は、私たちにはすぐには理解できない事柄です。しかし神様は、そのような中にも働き、御心を行っておられます。私たちも、多くの不安と恐れがあり、思い巡らして歩んでいます。そこには、受け止めきれない事柄があることを覚えます。けれども神様は、私たちを愛し、導き、祝福を与えて下さることを信じます。「私たちの歩みは、主によって定められる」と信じて主を見上げます。どうぞ神様、私たちを導いて下さい。
新型コロナウイルス感染が一日も早く終息しますように。医療従事者が守られ、ワクチンの開発が進みますように。日本に、世界に神様の恵みが溢れますように。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」