2020年11月15日(日)礼拝説教 創世記41章14-24節 「神様を見上げて」

中心聖句:詩篇37篇39節
「正しい人の救いは主から来る。苦難のときの彼らの砦から。」

<子どもたちへ>
 皆は、最近夢を見ましたか?どんな夢だったでしょうか?僕は、小学生の頃、美味しそうな料理を目の前にして、結局食べられないという夢を何度か見たことがあります。
 先週の話に出てきたヨセフは、「夢見る者」と言われていました。ヨセフは、不思議な夢を見ていました。そのために兄たちの恨みをかって奴隷として売られてしまったのですね。その結果、ヨセフは、言葉も文化も生活様式も全く違うエジプトに連れて行かれ、エジプトの王様ファラオの廷臣侍従長のポティファルの奴隷として売られることとなりました。ヨセフの人生は、坂道をコロコロ転がるように最悪の状態となってしまいました。
 けれども神様は、そのような状況でもヨセフと共にいてくださいました。聖書には、「主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、エジプト人の主人の家に住んだ(39:2)」とあります。神様が、ヨセフと共にいて、ヨセフを助ておられたのです。その結果、ヨセフは、ポティファルの家を全て管理するようになり、ある程度の自由が許されて生活と仕事をすることが出来ました。
 でもポティファルの家で大きな問題があり、ヨセフはあらぬ罪の汚名をきせられて、牢獄に入れられることとなってしまったのです(詳細は省きます)。なんとヨセフは、奴隷から囚人となってしまったのです。しかし「主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた(39:21)。」とあります。
 僕たちから考えるとヨセフの状況は、悪くなる一方です。けれどもそのような状況でも神様は、ヨセフを見ていて守っていてくださったのです。皆も、「どうしてこんなことになるのか」と悩んだり悲しい気持ちになったりする事があるかもしれません。その時神様は、皆と一緒にいて,皆の経験するつらさや悲しみを知ってくださり、守り導いてくださるのです。

 ヨセフは、神様が共にいてくださったので、監獄の長に信頼され、牢獄の全てを管理する仕事が与えられました。そして、王様に料理を作る調理官長と王様の飲み物をチェックする献酌官長が捕らえられた時に世話をする事となりました。あるとき二人は、不思議な夢を見ましたのですが、その意味が分かりませんでした。ヨセフは、調理官長と献酌官長の様子を見て、その夢の解き明かし(意味の説明)をするのです。神様が、ヨセフに教えてくださったのです。そしてヨセフが夢を説き明かしたように、献酌官長は元の仕事に戻ることが出来ました。その夢の説き明かしをした時ヨセフは、献酌官長に自分のことを覚えていてほしい、牢屋から出られるようにしてほしいとお願いしていました。しかし献酌官長は、自分が牢屋から出られたことでうれしくなったのでしょうか。ヨセフのことをすっかり忘れてしまいました。そして2年が過ぎます。
 今度は、エジプトの王ファラオが夢を見ました。とても不思議な夢です。一つ目の夢は、「ナイル川にとても立派な雌牛が7頭いて、草を食べていました。するとやせ細った醜い7頭の雌牛が出て来て、立派な雌牛を食べてしまったのです。しかしやせ細った雌牛は、やせ細ったままでした。」その時ファラオは、ビックリして目が覚めました。二つ目の夢は、「7つの立派な穂があって、7つのしなびた穂がありました。すると7つのしなびた穂が、立派な7つの穂を飲み込んでしまったのです。でもしなびた穂のままでした。」ファラオは、自分の見た夢の意味を知りたくて、知恵のある人たちをはじめ多くの人に聞きましたが、誰もその意味を教えることが出来ませんでした。

 その時です。献酌官長が大切なことを思い出しました。夢の説明をすることの出来る人、ヨセフのことです(41:9-13)。献酌官長は、ヨセフのことをファラオに伝え、ヨセフは、牢屋から出され王様の前に呼ばれました。ヨセフは、ファラオの夢を聞いて、夢の解き明しをする事が出来ました。でもそれは、ヨセフの知恵や力ではなく、神様がヨセフに教えてくだったことです。ファラオの見た夢の意味は、7 年の大豊作の後7 年の大飢饉が起こるという事だったのです。だから、ヨセフは、7 年後の大飢饉のためにしっかりと準備をしなければならないと進言しました。ファラオは、ヨセフのこの説明を聞いて、ヨセフこそ、その準備に当たるべきだと考えました。その結果、ヨセフはエジプトの大臣となったのです。
 ヨセフは、思いも寄らない苦労の連続の人生です。しかし神様は、ヨセフとともにいてヨセフを助け導いてくださいました。ヨセフと共にいてくださった神様は、皆が経験する様々な出来事の中でも皆と一緒にいてくださいます。神様を信じて見上げていきましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、ヨセフと共にいてくださったように僕たちと一緒にいてくださる事を感謝します。神様を見上げて歩みます。どうぞ守り導いて下さい。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。」

創世記39章2節「主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。」

<適用>
 引き続きエジプトでのヨセフの姿と神様がどのように関わって下さったのかを見ていきましょう。

Ⅰ;神様の祝福がある

 神様を見上げて歩むとき、そこに神様の祝福があります。ヨセフの人生を読み進めていると、神様の祝福など感じることの出来ない状況かもしれません。ヨセフの境遇は、坂道を転げ落ちるように悪くなっていくのです。商人に売られた時のヨセフは、エジプトへの移動中どうしてこんなことになったのか。どうして自分だけこんな目に遭わなくてはいけないのか。様々なことが頭をよぎったでしょう。しかしどんなに考えても、解決を見いだすことは出来ません。
 では、神様はどうしておられたのでしょうか。神様は、ヨセフを見捨ててしまったのでしょうか。ヨセフから目を背けてしまったのでしょうか。そうではありませんでした。神様は、ヨセフと共にいてくださったのです(創世記39:2-3)。神様は、ヨセフの人生最大の危機、どうしてこんな事になるのかと思うような状況にあっても共におられたのです。ヨセフは、ポティファルの家で全てを管理すると言う信頼を得ることが出来ました。ヨセフは、辛い中にあっても、「主が彼とともにおられた」と言う恵みを経験していました。そのような中でヨセフは、信仰をもって主を見上げたのではないでしょうか。神様は、ヨセフと共にいてくださり、ヨセフのすることを守り、成功させ、祝福を与えて下さったのです。と同時に神様は、ポティファルの家を野に至るまで祝福されました。この事は注目すべきことです。神様は、ヨセフと共におられ、ヨセフの歩みを祝福されました。その祝福がヨセフを通してその家に、周囲の人に、至る所に祝福をもたらすこととなったのです。

 この神様の御手の働きは、ヨセフが牢獄に入れられた時にも変わりませんでした。ポティファルの妻は、ヨセフが美少年であったので、「私と寝ておくれ」となんとも直接的な誘惑をするのです。ヨセフの奴隷という立場としては、女主人の言うことは従わなければなりません。けれどもヨセフは、「そんなことをして神様に対して罪を犯すことは出来ない」ときっぱりと断るのです。ヨセフには、姦淫の罪を犯すことは、主人への罪と言う以上に、神様への罪であるという意識がありました。
 神様は、天地創造の時すでに一人の男女が結婚することを定めておられました(創世記2:24)。また神様は、後の時代にモーセを通して十戒の中で「姦淫してはならない」と定めています(出エジ20:14)。この姦淫は、人の妻と性的な関係を持つこと、結婚関係以外の性的な関係ということです。更には、神様は、結婚前にそのような関係を持つことをも含めて禁止し、性の純潔を保つことを命じているのです。
 今の時代、お互いが恋愛関係にあれば性的な関係を持っても良いという間違った考え方をしている人が多くいます。「避妊をすれば大丈夫」。何が大丈夫なのでしょうか。性の純潔を守ることが時代遅れのように言われたりしています。聖書は、はっきりと姦淫が罪であること、不品行が罪であると指摘するのです。この性の堕落は、全ての堕落につながり、生活そのもを罪に支配させてしまうものとなってしまいます。ですから私たちは、このような誘惑を避けなくてはいけません。

 身の危険を感じたヨセフは、上着を残して逃げて行きました。しかしヨセフの上着が主人の妻の手に残されたことが次の段階へとヨセフを突き動かしていきます。ポティファルの妻は、ヨセフが徹底して自分を拒否することに腹を立て、夫ポティファルにヨセフが自分を襲おうとしたと偽証をするのです。ヨセフの上着が妻の手の中にある以上、ヨセフの弁解が聞かれることはありませんでした。こうしてヨセフは、牢獄に入れられ、奴隷の立場から囚人となってしまったわけです。
 しかし、ここでも神様は、ヨセフと共におられました(39:22-23)。そしてヨセフは、囚人でありながら監獄の長に認められ、監獄を管理する立場になりました。なぜなら、監獄の長もまた、主がヨセフと共におられること、ヨセフを通して祝福が広がっていることを知ったからです。
 主なる神様は、私たちと共にいてくださいます。そして私たちを祝福し、守ってくださいます。その祝福は、私たちだけにとどまらず、家族に、周囲に祝福をもたらすことになるのです。そのことを信じて神様を見上げましょう。

Ⅱ;神様のタイミングがある

 神様を見上げて歩みましょう。神様の導きには、神様のタイミングがあり、そのタイミングはちょうど良い時なのです。
ヨセフは、無実の罪のために牢獄に入れられてしまいましたが、神様の御手はいつもヨセフと共にありました。ヨセフは、監獄の全てを管理するのです。ちょうどそこにファラオに使える料理官長と献酌官長が捕らえられました。ヨセフが、二人の付き人(世話係)となりました。ヨセフが、監獄の全てを管理するほど信頼されていたので、このような役目をすることが出来たのです。献酌官長との出会いは、ヨセフにとって大切なものとなりました。
 料理官長と献酌官長は、同じ夜に夢を見ました。その夢には意味があるような気がしましたが、二人には、全く分からなかったのです。ヨセフは、顔色がさえない二人の様子を見て、「どうしたのですか?」と尋ねました。ヨセフは、二人の話を聞いて、「夢の解き明しをするのは、神様のなさることです。」と伝え、夢の説明をしました。するとその解き明しの通りに、料理官長は処罰され、献酌官長はもとの地位に戻ることが出来ました。この時献酌官長は、ヨセのことをファラオに伝えることを忘れてしまいました。

 それから2年後、今度は、ファラオが夢を見ました。先ほど話したように、とても不思議な夢でした。エジプトの知恵者たちは、ファラオの夢の意味を解き明すことが出来ませんでした。その時です。献酌官長が重大なことを思い出しました。ヨセフの存在です。夢を解き明す事が出来る人物がいるのです。(創世記41:9-)献酌官長が、ヨセフの事を思い出し、ファラオに進言した事によってヨセフは、牢獄から出ることが出来ました。それだけではなく、夢の解き明かしとその対処方が認められ、ヨセフは、エジプトの大臣となったのです。しかも、ファラオの次に権力があるほどの地位に就くこととなったのです。こうしてエジプトは、7年後の大飢饉に備える事が出来、エジプトだけではなく周囲の国々,ヤコブたちも救われることとなるのです。

 皆さん、ヨセフの歩みを振り返ると、状況が悪くなる一方でした。けれども神様は、ヨセフと共にいて下さってヨセフの歩みを導き、祝福を与えて下さっていました。そしてヨセフは、確実に神様のタイミングで導かれることとなるのです。ポティファルの家で奴隷とされ財産の管理を学びました。監獄では囚人たちを治めると言う事を学びます。それは、エジプトの大臣としての役目を果たすために必要な知識となりました。
 また、献酌官長と出会う事にも神様のタイミングがありました。ヨセフが監獄にいなかったらこの出会いはありません。ヨセフが、監獄を出るのにも神様のタイミングがありました。献酌官長と一緒に監獄を出てしまったら、ファラオとの出会いはなかったでしょう。ファラオの夢の解き明しをしなかったら、ヨセフはエジプトの大臣とはなれません。私たちからしたら、どうして神様はヨセフにこんな苦労をさせるのだろうかと思うかもしれません。けれどもヨセフの人生とイスラエル民族の事を考えると、確かに神様のタイミングがあってヨセフは、導かれていたのです。後になってヨセフ自身も神様の導きだったと言っています。

 ヨセフは、辛い経験を通して実に多くのことを学びました。その一番のことは、神様を見上げて歩むとき、神様はともにいて下さると言う事です。そして神様の導きと祝福があるということです。また神様のタイミングによって導かれると言う事でした。
 私たちも神様を見上げて歩みましょう。神様は、いつも私たちと共にいて下さいます。私たちが、苦難を経験する時でも神様は、確かにすぐ側にいて下さるのです。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様がいつも私たちと共にいてくださる事を感謝致します。どんなときも神様の御手によって支えられ、祝福が与えられることを信じます。神様が、神様のタイミングで導いて下さることを感謝します。私たちは、信仰をもって神様を見上げて歩みます。どうぞ必要な助けと導きによってお支え下さい。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」