2020年11月29日(日)礼拝説教 ルカの福音書1章26-38節 「クリスマスを迎える心」

<子どもたちへ>
 小・中学校では、昨日運動会に変わるものとして「スポーツ・フェスティバル」や「ミニ体育祭」が行われました。どうでしたか?楽しめたでしょうか。今年は、色々なことが中止になったり、延期となり、学校生活での楽しみが少なくなってしまったかもしれません。でも昨日は、練習した成果を発揮することが出来たのではないかと思います。
 さて、今年もクリスマスを迎えるシーズン、「アドベント(降誕節)」の時期となりました。今日は、アドベント第一週となります。救い主の誕生を感謝しお祝いするための大切な期間となります。聖書の御言葉から学びましょう。

 先週までは、エジプトで大臣になったヨセフのことを聞いていました。今日は、ヨセフの時代から何百年も後の時代になります。ガリラヤのナザレという町にマリアという若い女性が住んでいました。マリアは、心から神様を信じている人で、ヨセフと結婚の約束をしていて、その日を楽しみにしていました。
 そんなある日、御使いガブリエルがマリアに現れて、「おめでとう、マリア。神様があなたとともにおられます。」と挨拶しました。マリアは,ビックリして、何の挨拶なのだろうかと考え込んでしまいました。御使いは続けて言います。「恐れることはありませんよ。マリア。あなたは神様から恵みを受けたのです。あなたは身ごもって男の子を産みます。名前をイエスとつけなさい。」
 マリアは、さらにビックリです。結婚していない自分が赤ちゃんを身ごもることは、考えられないことでした。ユダヤ人であるマリアにとって、結婚前に妊娠するようなことがあってはいけないのです。とても大変なことことなってしまいます。マリアは、「まだ、結婚ししていないのに、どうしてそようなことが起こるのでしょうか。」と御使いに聞きました。当然のことですよね。しかもマリアから生まれてくる子どもは、「いと高き方の子と呼ばれ」、「ダビデの王が与えられ」「とこしえにヤコブの家を治める」と言われるのです。と言う事は、マリアから生まれる男の子は、神様の約束してくださっている「救い主」だということなのです。マリアにとっては、理解不能、不思議なことばかりが告げられたのです。

 御使いは、不思議に思い恐れるマリアに、「聖霊がマリアのうえに臨み、神様の力によって」身ごもるのだと語りました。マリアは、神様の御手のわざによって身ごもるのです。だから生まれる子は、神の子と呼ばれるのです。そしてさらに御使いは、「神様にとって不可能なことは何もない」とも告げました。マリアは、御使いの言葉を静かに聞きながら、心を神様に向けました。そしてマリアは、神様の言葉を信じたのです。すべてを理解した訳ではありません。けれどもマリアは、「神様にとって不可能なことは何もない」ということを信じて、神様に従う決心をしたのです。

 僕たちは、生活の中で「どうして自分だけこんな思いをするのだろうか。」と悩んだり、嫌な気持ちになったりするかもしれませんね。けれども神様は、どのような状況にあっても皆を導く力があり、良い方向へと変えてくださるのです。神様にとって不可能なことは何もありません。そのことを信じて歩みましょう。
祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。マリアは、不思議なこと、理解できないことに直面しても、神様には不可能なことは何もないと信じました。僕たちも神様には不可能なことは何もないと信じます。神様、僕たちの歩みを導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

<適応>
 聖書の中には、私たちクリスチャンにとって(全ての人にとって)特別な出来事があります。それは、イエス様の十字架の購いと復活です。また、教会が誕生したペンテコステです。そしてすべての発端となったイエス様の誕生です。イエス様の誕生は、私たちにとって特別なことであり、素晴らしい出来事なのです。旧約の多くの預言者が、救い主キリストの来られることを預言していました。イスラエルの人々は、不信仰な中にあっても神様の約束を待ちつづけました。この救いの計画が実現するために神様は、イザヤを通して預言しておられたのように、一人の処女の女性をお選びになりました。それはマリアです。マリアがどのような人物であったかは、聖書には詳しく書かれておりませんが、このルカ1 章を読むと何とかなくマリアの信仰を知ることが出来ます。マリアがどのような心で歩んでいたのかを見ることにしましょう。それは、私たちの模範となる姿勢であり、「クリスマスを迎える心」となると思います。

Ⅰ;思慮深い信仰

 マリアは、とても思慮深い信仰の人であったと思います。御使いが彼女のところに現れた時、「これはいったい何の挨拶かと考え込んだ。」とあります。普通なら驚いて腰を抜かしてしまうところですが、マリアはそうではありませんでした。御使いガブリエルが、ナザレに住むマリヤの所にやって来た時マリアは、すでにヨセフと結婚することになっていたのです。御使いは言います。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」御使いは、突然マリアに現れ、不思議な挨拶をして、耳を疑うような話を続けました。マリアは、突然御使いが現れたことで、日常から切り離さてしまい、何のことか分からない、あまりにも突然のことで恐怖に襲われたことでしょう。ですから御使いは「こわがることはない」と言うのです。

 この時のマリアの態度は、思慮深い姿勢が現れていると思います。マリアは、突然の御使いの言葉だけれども、それにどんな意味があるのか考えているのです。驚き、戸惑いながら「何のあいさつかと考え込んた。」のです。彼女は、慌てず、物事を冷静に受け止める思慮深さを備えていたのです。救い主が、誕生して羊飼いが家畜小屋にやってきた時にも、人々は羊飼いの話しに驚きましたが、マリアは「これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らせていた。(ルカ2:19)」のです。マリアには、主のみことばを聞くための準備がいつも出来ていたと言うことでしょうか。彼女は、神様が何を語り、何をしてくださるのだろうかという信仰による洞察力があったのです。

 私たちは、時々、突然の出来事が発生します。今回の新型コロナウイルス感染拡大は、まさに突然の出来事です。私たちの生活が、去年までとはまったく変わってしまったと言っても良いでしょう。多くの人が、「どうして?」と思っているのではないでしょうか。そのような中で私たちは、信仰をもって直面する事柄を思い巡らすことが必要ではないでしょうか。マリアは、御使いの挨拶について、「いったい何の挨拶か」と考え、思い巡らしたのです。私たちも今、「神様は、聖書の御言葉によって何を語られるだろうか。今神様は、何をしようとしているのだろうか。」と祈りつつ、思慮深く、思い巡らす信仰が大切です。そのような歩みは、次の一歩を踏み出す力を与えるでしょうし、神様の不思議な導きを知ることが出来るのです。

Ⅱ;謙遜な信仰

 マリアは、謙遜な信仰の人だと言えるでしょう。彼女は、御使いの挨拶に続いて、素晴らしい知らせを受けました。有名な言葉です。御使いは、「あなたは身ごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。・・・。(31-32)」と言うのです。イスラエルの民が祈り待ち望んだ救い主の誕生が今、マリアに知らされ、マリアからお生まれになるというのです。マリアもユダヤ人ですから当然、旧約聖書に預言されている救い主が来られることを祈り、待ち望んでいたでしょう。神様の救いが実現することを願っていたでしょう。でもそれが、自分を通して成就するとは考えもしなかったのではないでしょうか。

 救い主が、人として生まれるとは誰も予想していませんでした。しかしそれが神様のご計画でした。ヨハネ1 章で「この方は、初めに神とともにおられた(2)」と教えられているように、イエス様は神様であり、天地の造り主です。しかし父なる神様は、救い主イエス様を人間から生まれるようにされたのです。ピリピ2:6-7には、「キリストは、神の御姿であるられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。・・・。」とあります。イエス様は神としてのあり方を捨て、人間となってこの世にお生まれになりました。それは、私たち人間を罪から救うためです。だからイエス様は完全な神であり、完全な人なのです。イエス様はご自分を無にして神に仕え、人に仕えへりくだって十字架に向かわれました。ルカ1章32-33節でダビデの王座がとこしえに堅く立てられると言うのは、イエス様がダビデの子孫と
してお生まれになり、救いの約束を成就してくださると言う事なのです。

 イエス様は、救い主として父なる神様の御前を忠実に、謙遜に歩まれましたが、母マリアもまた、謙遜な人と言うことが出来るでしょう。御使いの言葉は、素晴らしい言葉でした。けれども処女のマリアが子どもを妊娠するなどということは、理解できないことでした。マリアは、ヨセフと婚約していましたが、まだ結婚していなかったのです。マリアの「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。(34)」という御使いへの質問は、当然の質問と言えるでしょう。しかしこの質問にもマリアの信仰の姿勢が現されています。彼女は、御使いの言葉を疑っているのではなく、「神様はそのことをどのようになさるのでしょうか。」、「神様の導き、ご計画はどのように進むのでしょうか。」と質問しているのです。
 「信じられない、絶対にそんなことはありえません。」と思わず言ってしまいたくなるところです。けれどもマリアは、御使いの言葉を神様の言葉として聞いていました。そして疑うことをせず、神様は何をしてくださるのだろうか、神様の御心はなんだろうかと考えていたのです。そこには、思い巡らす信仰と同時に「謙遜な信仰」神様の前にへりくだる信仰の姿を見ることが出来ます。私たちは、アドベント第一週を迎えて、神様の御前に謙遜にへりくだって御言葉を求める心(信仰)を持ちましょう。

Ⅲ;委ねる信仰

 マリアは、委ねる信仰を持って主を見上げていました。御使いの知らせはとても素晴らしいものでした。けれどもそのことは、マリアを窮地に追いこみました。

 現代では、結婚はしないけど子どもを宿し「未婚の母」となることに違和感を感じなくなっている人が多くいます。結婚報告と同時に妊娠しましたという報告をするタレントもいます。また、恋人と同棲生活をすることが当然かのように言われる時代となりました。悲しいことに結婚前に妊娠することが特別間違っていると思われなくなっています。けれどもこれらのことは、神様によって禁じられていることであり、神様が定めた結婚の秩序をゆがめ、神様の祝福を失うようなこととなってしまいます。

 ユダヤ人の社会では、姦淫の罪を犯した男女は、裁かれることになっていました。ですから、婚約中のマリアが身ごもるということは、許されないことでした。そのような人は、人々から白い目で見られ、仲間はずれにされる可能性がありました。来週学びますが、ヨセフとの関係も最悪の状態になる可能性があったのです。マリアは、社会的に立場を失い、結婚においても失敗するという可能性が予想出来たはずです。そのようなマリアに対して御使いは、「神にとって不可能なことは何もありません。(37)」と告げました。マリアにとっては、この御言葉で充分でした。マリアは、神様ご自身が導いてくださるという言葉で全てを受け止めることが出来たのです。マリアは、これから遭遇する立場を踏まえたうえで、神様を信頼し「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と告白するのです。

 マリアは、この時何を信じたのでしょうか。どんなことを信頼することが出来たと思いますか。
 まず一つは、マリアは、結婚していない自分だけれども、神様には不可能なことはないと信じることが出来たのです。37節は「神にとって何事も決して不可能ではありません。<神から出ることばで実 現の力のないものは一つもありません。>」と訳す事が出来ます。マリアは、神様の言葉には力があって、必ず実現することを信じたのです。私たちは、どうでしょうか。
 もう一つは、マリアは、自分がこれから直面する問題についても神様は助けてくださると信頼をしたのです。御使いの知らせは、先ほども言いましたように素晴らしいことでしたが、マリアの立場を危険にさらすものでした。マリアにとっては不利な、理解できない問題だらけの状況が待ち構えていたのです。精神的にも大きなストレスとなったことでしょう。でもマリアは、神様には、どのような問題も苦難も解決できるし、自分を助け出して下ると信じて神様を信頼して前進することが出来たのです。私たちは、どうでしょうか。

 私たちの信じる神様は、不可能なことは何もありません。私たちには不可能でも、神様にはすべてが可能なのです。私たちは神様に全てを委ね、信頼することが出来るのです。私たちは、マリアの持っていた信仰を模範としましょう。マリアは、思慮深い人で、謙遜な人で、主に委ねることの出来た人です。クリスマスを迎えるこの時、私たちの心が、神様の言葉を思い巡らし神様のお考えを見極める冷静な心となるように祈りましょう。私たちは、神様の言葉を忠実に聞き、従って行く謙遜な信仰をもって歩みましょう。そして不可能なことは何もない神様を信頼し、委ねて歩みましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美致します。マリアの信仰を学びました。マリアは、思慮深く、謙遜にへりくだって主の御前を歩みました。そして逆境や不安な時でも神様を信頼して委ねて歩みました。私たちも困難があり、不安があり、ストレスと感じることがあります。そのような仲でも、神様の御言葉を思い巡らし、へりくだって主を見上げる信仰を与えてください。神様に不可能なことは何もないと信じます。神様は、どのような状況でも私たちを助け、導き、支えてくださることを信じます。神様、私たちの歩みを祝福し、恵みで満たしてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。」