2020年12月20日(日)礼拝説教 ルカの福音書2章8-20節 「やみに輝く光」

< 子どもたちへ> 「羊飼いへのみ告げ」

ルカの福音書2章11 節
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」


 皆さん、クリスマスおめでとうございます!
 イエス様のお生まれを祝うクリスマス礼拝の日を迎えました。さあ、一体どんな心でクリスマスを迎えていますか? プレゼントやケーキ、楽しいイベント、そういったことが気になっている人もいるでしょうが、クリスマスの主役であるイエス様に心を向けることが大切です。

 イエス様がユダヤのベツレヘムで生まれたことを、先週聞きましたね。お腹の大きなマリヤとヨセフが苦しい旅をして到着したのに、ベツレヘムでは泊まる場所が無ひつかったのでした、そして家畜小屋でマリヤが男の子、すなわちイエス様を産んだのでした。今日は、イエス様の生まれたその日に、イエス様のもとにかけつけた人たちのお話です。
 それは羊飼いたちです。羊と一緒に野原で過ごして、夜になると野宿( 外やほら穴で寝ること) をしながら羊を守る夜番をしていました。すると突然、まぶしい光が彼らを照らしました。神様の御使いがあらわれたのです!「何だろう! こわいよ~ ! 」羊飼いは恐れてパニックになりました。御使いは言いました。「こわがることはありません。私は素晴らしい喜びを知らせに来たのです。」何のことでしょうか? 御使いは続けて言いました。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」するとたちまち天の軍勢が現れて、素晴らしい歌声で賛美の歌を歌ったのです。

 羊飼いたちは何だか夢を見ているようでした。でもハッとして、「さあ、ベツレヘムに行ってこの出来事を見てこよう! 」と言いました。「御使いが、赤ちゃんは飼い葉おけに寝ていると言ってたな。きっと家畜小屋だよ! 」羊飼いたちは一軒ずつ家畜小屋を見て回りました。そしてついに、マリヤとヨセフと飼い葉おけに寝ている赤ちゃんのイエス様を捜しだしたのです。見聞きしたことが全部御使いの言ったとおりだったので、羊飼いたちは神様を賛美しながら帰って言ったということです。

 皆さん、この羊飼いたちこそが、世界で一番最初にイエス様のお誕生を祝った人たちでした。実は羊飼いは、当時バカにされることがありました。動物の世話があるので、礼拝の日を守れなかったからです。ちょっと考えてみて下さい。神様の御子が生まれたのなら、本当はお城で立派な人たちに祝われてもいいはずです。でもイエス様は、動物のにおいがプーンとただよう家畜小屋で生まれました。ベッドはエサを入れる飼い葉おけ、動物のよだれと食べ残しがあったかもしれません。石で掘られていたので、ひんやり冷たかったことでしょう。でもこんなところに生まれて下さったからこそ、羊飼いたちがお祝いに行けたのです。
 世界で最初のクリスマスは、心から神様を信じ救い主の誕生を祝う心を持った羊飼いたちに知らされました。王様でも学者でもなく、偉い人やお金持ちでもなく、素直に救い主を受け入れる人が選ばれたのです。羊飼いのように「イエス様はわたしのための救い主です」と、イエス様を心の中心にお迎えしてクリスマスの日を迎えましょうね。

イザヤ書9章2節
「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。」

< 適用>
 「メリー・クリスマス! ! 」クリスマスおめでとうございます。救い主イエス様の誕生を心から感謝し、主の御名を賛美します。
 今年は、私たち家族が小川に来てから最初のクリスマス、皆さんと一緒にクリスマス礼拝を献げるのも初めてとなります。今年は、新型コロナウイルス感染という想定外の出来事のために普段とは違うクリスマスを迎えていますが、こうして主を礼拝出来る恵みを感謝しましょう。
 日本で最初にクリスマスが祝われたのは、ザビエルによってキリスト教が伝えられた3年後の1552年に山口県だったそうです。そこで現在山口市では、12月を「山口市からクリスマス市」となりクリスマスイベントを開催しているということです。
 その後キリスト教の禁令があり200年以上中断されていました。日本の開国と共に日本のクリスマスも復活しました。1860年プロイセン公使が各国の公使を招いてクリスマスパーティーを開いたという記録が残されています。その時のクリスマスツリーは、公邸の柱に杉の葉を蒔いて、ちょうちんなどを飾りつけるというものだったそうです( クリスマスおもしろ事典4 9㌻) 。
 今年は、各地で雪が降りホワイト・クリスマスとなる地域もあるようです。私たちは、クリスマスは雪が降るような寒い季節となっていますが、南半球のクリスマスは、真夏でありビーチでパーティーが行われることもあるようです。このように世界中でお祝いされているクリスマスは、救い主イエス様の誕生を感謝し祝います。このお方かこそ「やみに輝く光」です。

Ⅰ ; 私たちの心を照らすお方

 「やみに輝く光」である救い主イエス様は、私たちの心を照らすお方です。救い主イエス様は、預言者ミカが預言した通り、ベツレヘムでお生まれになりました( ミカ5:2) 。マリアとヨセフは、御使いによって語られた神様の言葉に支えられ、出産の準備をしていました。ちょうどそのような時に、ローマ皇帝アウグストゥスから住民登録の勅令が出されました。ヨセフは、住民登録のためにマリアを連れてベツレヘムに行きました。ベツレヘムで与えられた場所は、家畜小屋でした。彼らがそこにいる間にマリアは、男子の初子を出産します。救い主の誕生です。

 この日、野宿で夜番をしている羊飼いに御使いが現われ、素晴らしい喜びを知らせます。羊飼いたちは、歴史上はじめて救い主誕生の知らせを聞いた人たちです。神様が、一番最初に羊飼いに救い主誕生の知らせをもたらしたことには、大きな励ましと慰めがあります。
 羊は、ユダヤ人にとって大切な動物でした。羊毛も羊の皮も角も生活に必要なものです。また何といっても、ユダヤ人にとって羊は、神様へのいけにえとして欠かせないものだったのです。羊飼いは、このようにユダヤ人にとって欠かすことの出来ない羊を飼っている人たちでした。しかし彼らは、ユダヤ人の社会の中にあって、地位が一番低く、見下されていたのです。なぜなら、羊飼いは、その仕事柄、ユダヤ人たちが大切に守っている「安息日」と守る事が出来ませんでした。そのために、羊飼いたちは、律法を守らない人たちと見なされていました。また、エルサレムへの巡礼をしたくても、羊を置いて行くことは出来ないのです。羊飼いたちは、ユダヤ人たちが重んじる宗教的な儀式などを守ることは出来ませんでした。ある意味で、羊飼いたちは、ユダヤ人の社会の中で軽蔑されていたと言って良いでしょう。
 しかし神様は、その羊飼いに目を留めて下さり、救い主の誕生を知らせてくださいました。御使いは言いました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」。そのしるしは、「飼葉桶に寝かせられている」というものでした。もし救い主が王宮や大祭司の家で生まれたとしたら、羊飼いたちは、その知らせを聞いても心動かされることはなかったでしょう。なぜならば、彼らは、そのような地位のある人の家には入ることが出来ないからです。羊飼いたちからすれば、高官や大祭司などは立場が違いすぎるからです。けれども御使いは、救い主が「飼葉桶に寝かせられている」と言うではありませんか。飼葉桶がある場所は、当然家畜小屋です。家畜小屋ならば、羊飼いたちがよく知っている場所だし、近づくことの出来る場所なのです。

 救い主は、羊飼いが近づき礼拝できる場所、最も低い場所でお生まれになりました。だから羊飼いたちは、御使いの知らせを聞くとすぐ信仰をもってベツレヘムに行き、生まれたばかりのイエス様を見つけ出すことが出来たのです。羊飼いたちは、御使いの話の通りだったので、喜び神を賛美しながら帰って行きました。彼らは、どれほど嬉しかったことでしょうか。同じ民族のユダヤ人たちは、羊飼いたちを軽視していました。けれども神様は、羊飼いに目を留め、救い主イエス様に出会わせてくださったのです。
 羊飼いに目を留めて下さった神様は、私たちにも目を留めてくださるお方です。救い主イエス様は、私たちのために人知れず、ユダヤの小さな町ベツレヘムの片隅の小さな家畜小屋でお生まれになりました。このことは、イエス様が誰もが近づくことの出来るお方として来られたことを意味しています。イエス様は、小さな私たちの心に来てくださり、私たちの心の片隅の弱さや罪深さを知り、赦しを与えてくださるのです。今週の聖句としたイザヤ書9章2節は、預言者イザヤが救い主に関して預言した言葉です。これは、イエス様が生まれる700年以上も前の預言です。けれどもイザヤは、救い主がどのようなお方なのかをしっかりと見つめていました。救い主は、闇を照らす唯一の光なのです。イエス様は、私たちの心の暗闇を照らし、希望を与えることが出来るお方です。

Ⅱ ; 私たちの人生を照らす光

 「やみに輝く光」である救い主イエス様は、私たちの人生を照らす光です。
 賛美歌の中にイエス様の生涯を歌っている「馬ぶねの中に( 賛美歌1 21番) 」と言う曲があります。この曲は、「由木康( ゆうきこう) 」という日本人牧師が27歳の時に作詞したものです。由木牧師がこの賛美を作詞した時の心境を次のように証ししているそうです。「そのころ私は本当の愛というものは果たしてこの世にあるであろかと疑っていました。・・・たくさん愛はあるけれども、それらはいずれも利己心や打算や情欲や恩に着せる思いや報酬を求める心・・などでゆがめられていて、純粋ではないように思われました。本当の愛は結局、人間の世界にはないのではないかと考え、暗い気持ちになりました。その時、私の心に一つの光がきらめいたのです。たとい人間の世界に本当の愛がなくても、イエスのうちにはそれがある。イエスの生活と苦悩と十字架には、少しの混じり気のない純粋な愛が現れている。イエスこそほんとうの愛の化身であるという確信です。」このように一つの光、しかし大きな光に照らされ由木青年は、イエス様の生涯を賛美にしたのです。( キリスト教逸話例話集/ 高野勝夫編著/108㌻)

歌詞1節「馬ぶねの中に産声あげたくみの家に人となりて貧しき憂い生くる悩みつぶさになめしこの人を見よ」
2節「食する暇もうち忘れて虐( しいた) げられし人を訪ね友なき者の友となりて心砕きしこの人を見よ」
3節「すべてのものを与えしすえ死のほか何も報いられで十字架の上に上げられつつ敵を赦ししこの人を見よ」
4節「この人を見よこの人にぞこよなき愛は現れたるこの人を見よこの人こそ人となりたる活ける神なれ」
 由木牧師の心にきらめいた光は、決して小さくありませんでした。彼の心を照らしたのは、闇に輝く大きな光です。心のやみを照らす本当の光、人の心に本当の希望と安らぎを与える愛と救いの光です。

 今週の聖句をイザヤ書9章2節としました。イザヤは、9章1節で「ガリラヤ」という地名を上げて「栄誉を受ける」と語りました。北イスラエル王国は、アッシリアに攻め込まれて行きます。イザヤは、イスラエルの国が滅ぼされ民が捕囚とされると預言しました。ガリラヤ地方は、イスラエルの中でも北部に位置しています。アッシリアが攻め込む最初の地域となります。その地域の人たちは、多くの苦難、苦悩で苦しめられるのです。辛い歴史を通ることとなります。しかしイザヤは、神様によって全く違う状況を見ることが出来ました。それは、救い主の誕生という神様の恵みです。イザヤは、苦難や闇の中にあっても光が輝くと預言しました。その実現こそ、救い主の誕生なのです。イザヤは、イスラエルの国が闇に向かっていくような状況にあって、すでに闇に輝く光を見つめることが出来ていたのです。

 私たちは、今年新型コロナウイルス感染の拡大という事態の中で過ごしています。日本だけではなく世界中が、この未知のウイルスの脅威にさらされていて、未だに終息の目処はたっていません。私たちは、感染しないように気をつけながら生活し、否応なく新しい生活様式を取り入れざるを得ない状況です。社会全体が大きな影響を受けて、これから先どのようになるのか分からない、まさに暗いトンネルを手探りしている感じではないでしょうか。新型コロナウイルスだけではなく、私たちの人生には、多くの出来事があり、本当にどうしたら良いのだろうかと悩んでしまいます。
 そのような時私たちは、イエス様に目を向けることが出来ます。イエス様は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28) 」と声をかけてくださっています。またイエス様は、「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません(ヨハネ6:35) 。」と言われました。イエス様は、私たち、皆さん一人一人の心を照らすお方です。私たちは、イエス様によって人生を照らされ、勇気と平安を与えられ、心の奥底から満たされた歩みをする事が出来るのです。

 しかも御使いは、「今日」と言いました。このことは、イエス様が誕生し、羊飼いがその知らせを聞いた日の「今日」ということですが、同時に今という「今日」を意味しているのではないでしょうか。御使いの「今日ダビデの町で・・・」という言葉は、「今日、あなたの心に救い主はおられるでしょうか。」「今日あなたなは、やみに輝く救い主イエス様の光を心に持っているだろうか、あなたの人生はイエス様に照らされているだろうか」というメッセージでもあるのです。「今日」私たちは、イエス様の救いを受けることが出来ます。私たちは、「今日」イエス様の光に照らされ、輝き、神様の愛に満たされた人生をスタートさせることが出来るのです。

Ⅲ ; この方こそ救い主

 「やみに輝く光」であるイエス様こそ、私たちの救い主です。
 まず最初に、イエス様は、私たちの心を照らしてくださることを見ました。そして二つ目のこととしてイエス様は、私たちの人生を照らしてくださることを見ました。賛美歌の「馬ぶねの中に」を紹介しましたが、4節では、「この人を見よ」と歌います。私たちは、このお方に目を向けるのです。

 私たちは、輝いて生きていきたいと願いますが、どのように輝くことが出来るのか分かりません。そのような時、家畜小屋で生まれてくださった救い主イエス様を見上げるのです。イエス様は、私たちの人生の進むべき道を照らし、私たちの心を輝かせてくださいます。
私たちは、人生の希望をどこに求めますか。多くの人たちは、お金に、仕事に、物に、地位や名声に、何かに成功することに、希望を見つけようとするでしょう。しかしそれらのものは、一時的なもので、いつかは手放すものです。お金はいつまでもあるわけではありません。何か物を手に入れてもそれはいつしか壊れたり、失われたりします。地位や名声もずっとそこに留まることは出来ないのです。これらのものは、不安定で、不確かなものです。しかしいつまでも変わらず、色あせず、なくならない希望があります。それがイエス様によって与えられる希望です。

 私たちの心には、罪があります。私たちは、時として自分の心の醜さ、罪深さなどに気づき落胆し、絶望することがあるかもしれません。そのような思いを打ち消したいと思っても、私たちの心から消えることはありません。どこに救いがあるのでしょうか。イエス様を見上げるのです。イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかり、救いを与えて下さいます。なぜなら、この方こそ、私たちの救い主だからです。
 御使いは、言いました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」救い主イエス様を心にお迎えし、罪からの救いと、人生の光と希望を受け取りましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。救い主イエス様が、私たちのためにお生まれ下さり感謝致します。私たちは、イエス様に心を照らして頂いて歩めることを感謝致します。イエス様が、私たちの人生を照らしてくださることをありがとうございます。どんなことがあっても、イエス様が私たちと共にいてくださり、輝かせて下さる事を感謝します。私たちが闇を経験するとき、イエス様はそこに光を与えて下さることを信じます。イエス様どうぞ私たち一人ひとりを導いてください。お一人お一人の心が、人生がイエス様によって天からの光に満たされ、輝きますように。
 救い主の恵みが、日本全体に、世界に溢れますようにお願いします。この祈りを闇に輝く光である私たちの救い主イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」