2021年1月1日(金)新年礼拝 ヨハネの福音書4章16-26節 「まことの礼拝者」

「しかし、まことの礼拝者たちが、霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
                                    ヨハネの福音書4章23-24節

 新年、明けましておめでとうございます。主の年・2021年を迎えました。私たちは、毎日を繰り返しているその連続の中で1月1日を迎えています。単純に考えれば、昨日から今日になったということになります。しかし、やはり新しい年の第一日というのは、特別な意味を持つもので、何となく心機一転、心も新たにスタートするような気がします。
 ジャニーズの「嵐」というグループが昨日で活動を休止しました。私は、特に嵐のファンではありませんが、子どもたちは、昨年末は嵐の出演する番組を注目していました。人気グループの活動休止で寂しい感じがあるかもしれませんが、彼らは、個人的に芸能人としての働きをすることでしょう。
 皆さんは、今日から始まる一年をどのように過ごすでしょうか。どのような願いや計画があるでしょうか。皆さんの思い描く毎日への希望に神様からの祝福がたくさん注がれるようにと祈ります。この一年を私たちが信仰を持って歩むためにも、私たちは、「礼拝」と言うことをもう一度心に留めましょう。私たちは、どのような礼拝をささげることが求められているのでしょうか。

Ⅰ ; 感謝に溢れて

 私たちは、「まことの礼拝者」として主なる神様を礼拝しましょう。その時大切になることは、「感謝に溢れて」礼拝すると言う事です。ヨハネ4 章は、サマリアの女性とイエス様との出会いの場面です。サマリアの女性は、イエス様との出会いを通して心が感謝と喜びが溢れる経験をしました。ヨハネ4:1から少し見ていきましょう。
 「パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、―バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったが―ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。( ヨハネ4: 1 – 3 )」イエス様は、パリサイ人たちとの摩擦を避けてエルサレムのあるユダヤを離れ、ガリラヤ地方に向かわれました。ユダヤ地方とガリラヤ地方の間には、「サマリア」がありました。しかしユダヤ人は、サマリア地方を通ることはなく、迂回する道を使っていました。その理由は、9 節に「ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかった」と言うことにあります。ユダヤ人とサマリア人たちは、もともと一つのイスラエル民族でした。しかし旧約の歴史の中で反目するようになりお互いの交流がなくなったのです。イエス様の時代でもユダヤ人、サマリア人と呼び合い敵対関係にありました。けれども4 節に「しかし、サマリアを通って行かなければならなかった」とあります。イエス様は、ユダヤ人とサマリア人との民族的な違いなど気にされず、誰をも差別なさらないので、聖霊の導きの中で自由に行動しているのです。こうして一人の女性がイエス様と出会いました。

 この女性は、イエス様が話しかけてくるのをいぶかしく思いました。が、段々イエス様の言葉に引き寄せられていくのです。そしてこの女性は、「生ける水」があることを知りました。「イエスは答えられた。『この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。』(13 -14)」彼女は、肉体の渇きをいつまでも満たしてくれる便利な水が欲しいと求めました。
 そこでイエス様は、彼女に「夫を連れてきなさい」と言われます(16) 。この話題は、彼女にとって触れられたくないものでしたし、彼女の心の傷であり、やみの部分でもありました。彼女は、5 回結婚したが、離婚を繰り返し、今ではある男性と同棲をしているのです(17) 。イエス様は、そのすべてをご存知で、あえてこの話題に触れたのです。それは、彼女が自分の心の闇と自分の罪を知って神様の憐れみを求めるようになるためです。

 少々長くなりましたが、サマリアの女性は、イエス様との会話を通して自分の心が深く探られていきました。そして自分には罪があり、悔い改める必要があり、神様の憐れみが必要であることを知ったのです。だから彼女は、礼拝について切り出すのです(20)。私は、サマリアの女性の「礼拝」したいという思いに彼女の感謝が溢れていると思います。その感謝とは、神様は自分のような罪人、失敗だらけの者を見捨てることをせず、愛を持って見ていてくださる感謝です。そして罪に対して解決の道を備えていて下さっていることへの感謝です。彼女は、イエス様との出会いで、神様を礼拝する者として整えられていたのです。
 ある人が礼拝について、「私たちが神様を礼拝し、神様に賛美を捧げる時、私たちは、自分の心が満足することを求めてしまう」と言っていました。そして主を礼拝する時、私たちの心が満たされ、恵まれることは大切だけれども、それが一番の目的ではないとも言っていました。皆さん、私たちが神様を礼拝する一番の目的は、神様に喜んでいただくことなのです。言い換えれば、私たちの礼拝は、私たちの心からの感謝の現れであると言う事ではないでしょうか。

 皆さんは、自分が神様に愛され守られていると思いますか。その感謝を持って礼拝しましょう。皆さんは、神様に今日という日を生かされていると感じますか。礼拝へと導かれています。そしてイエス様の恵みを受けて信仰に導かれたことへの感謝がありますか。礼拝しましょう。この一年、私たちは、どんなに小さな感謝も一つ一つ忘れず、礼拝に集い神様への感謝を現しましょう。

Ⅱ ; 心を込めて

 私たちは、「まことの礼拝者」として主なる神様を礼拝しましょう。それは、「感謝に溢れて」と共に「心を込めて」の礼拝となります。
 皆さんは、人に贈り物をする時や何かお礼をするような時に、どんなことに気をつけるでしょうか。恐らく、相手に対して失礼にならないようにと注意するでしょう。また何かを選ぶ場合、相手のことを思い浮かべながら、「何が必要だろうか。これはあの人にあうだろうか」などと考えることだと思います。
 例えば、就職あるいは進学する家族がいたとします。その人に何か贈り物をする場合、新生活に必要なことは何だろうかと相手の立場になって考えます。お母さんが家族のために料理を作ります。家族の健康を考え、家族の喜ぶ顔を思い浮かべながら家族のために作ります。これが「心を込めて」という言うことです。そしてこのような心を込めてしたことは、相手に伝わります。逆に、何でも良いから適当にという心のこもっていない態度も相手に伝わるものです。

 イエス様は、礼拝について「神を礼拝する者は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」と言われました。今までの翻訳だと「霊とまことによって」となっていました。ですが、今までとそれほど意味合いは変わらないと思います。分かりやすく言えば、「心を込めて」礼拝するようにということではないでしょうか。私たちが神様を礼拝するのは、私たちの心が喜びで満たされることが一番の目的ではありません。私たちが主なる神様を礼拝するのは、私たちを愛し、私たちを救い、私たちを導いて下さる神様に喜んで頂くことが一番の目的なのです。丁度、私たちが人のために何かを考える時と同じです。私たちは、「神様は、私たちの賛美を喜んで下さるだろうか。神様が喜んでくださる礼拝は、どんなことだろうか」と言う事を真剣に考える必要があります。
 私たちは、人に対しては非常に気を使いますし、心を込めるということを注意していると思います。けれども私たちは、本当に心を込める必要のある神様に対しては、それほど注意を払わないことがあるのではないでしょうか。私たちは、イエス様の言葉をしっかりと覚えておきましょう。
 ある人が、礼拝についてこんなことを言っています。「神様がとても必要としている人、神の国にいないと困る人は、神様を礼拝することを知っている人です。なぜならこのような人こそ、神様が何を尊く思われ、何を喜ばれるかを知っている人だからです。またこのような人こそ、神様の御心を感じ取り、その御思いを抱くことが出来る人だからです。」

 神様が、本当に必要としている人は、心込めて神様を礼拝する人です。「父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。」とイエス様が言われた通りです。どのようにしたらそのような礼拝者となることが出来るのでしょうか。答えは、イエス様の言葉の中にすでにあります。御霊ご自身が、私たちを導いてくださいます。私たちは、聖霊様の導きの中で救いの恵みを知り、神様の愛を知り、御言葉の光を受けることが出来ます。その聖霊なる神様は、私たちを礼拝者として整えてくださるのです。そして私たちは、福音の真理に照らされ礼拝するのです。「真理」は、「本当のこと、真実」という意味があります。私たちは、福音の真理に照らされ、心の内側から溢れる信仰を持って主を礼拝するのです。
 私たちは、そのような礼拝者になっているでしょうか。そしてこのことは、私たちだけが礼拝者となれば良いのではありません。父なる神様は、礼拝者を求めておられるのです。神様は、御霊と真理によって心を込めて礼拝する人が増えることを願っておられるのではないでしょうか。サマリアの女性は、イエス様と出会って変えられ、直ぐに街に戻り人々をイエス様の所に連れて来ました。そして多くの人が、イエス様を信じました(41,42)。ひとりの人が礼拝者と変えられることによって、多くの人が信仰に導かれ、礼拝者へと変えられました。私たちも、「まことの礼拝者」として主を礼拝する者とさせていただきましょう。そして、私たちの周りで神様への感謝をもって、そして心を込めて主を礼拝する人が多く起こされるように祈りましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、神様の御手に支えられ2020年を歩んできました。そして今日、20 21年を迎えることが出来ました。神様、今日からの新しい一年をお守りください。私たち一人一人の生活を、仕事を、健康を支え、祝福してくだり、すべての必要を満たしてくださいますようにお願い致します。
 そしてこの一年、御霊によって導かれ、心から感謝に溢れて主を礼拝する者となることが出来ますように導いてください。そして私たちの周りで神様を信じる方が起こされ、主を礼拝する人が多く起こされるようにとお願い致します。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」