2021年1月10日(日)礼拝説教 マタイの福音書3章1-17節 「神に立ち返る」

中心聖句:マタイの福音書3章17節
「そして、見よ、天から声があり、こう告げた。『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。』」

<子どもたちへ>

 今年のお正月は、親戚で集まる事が出来ないような状況でしたね。普段よりも冬休みも短かったかもしれません。我が家では、オンラインで家族と会う、オンライン帰省をしました。僕も、子どもの頃はお正月に従兄弟や親戚に会うのを楽しみにしていたものです。
 さて、今日登場するバプテスマのヨハネには、親戚がいます。誰でしょうか。実は、イエス様とバプテスマのヨハネは親類なのです。イエス様のお母さんのマリアとバプテスマのヨハネのお母さんのエリサベツは、親類でした。だから、おそらくイエス様もバプテスマのヨハネも小さい頃は、時々会っていたのではないかと思います。

 そのバプテスマのヨハネが、大人になって神様のための働きを始めていた時です。バプテスマのヨハネは、人々に悔い改めることを勧めていました。彼は、ヨルダン川で「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と大きな声で呼びかけていました。この呼びかけに答えるようにして、大勢の人がヨハネの所に来て、悔い改めてそしてバプテスマを受けていました。このようにヨハネは、多くの人に悔い改めてのバプテスマ(洗礼)を授けていたので、バプテスマのヨハネと呼ばれるようになったのです。バプテスマのヨハネは、人々に罪を悔い改めて神様を信じることを教えながら、救い主が現れることを語っていました。そしてヨハネは、イエス様が救い主であり、罪の赦しを与えるお方であると伝えたのです。

 そのように伝道の働きをしているバプテスマのヨハネの所に、イエス様が来られました。それはヨハネからバプテスマを受けるためです。
イエス様は言われました。「ヨハネ、久しぶりですね。今日は、あなたからバプテスマを受けようとやって来ました。」ヨハネはビックリして「イエスよ、それは出来ない。罪がなくて悔い改め必要のないイエスが、悔い改めのバプテスマを受ける必要はない。私のほうこそ、あなたからバプテスマを授けてもらいたい」と答えました。
するとイエス様は、「今は、そうさせてもらいたい。正しいことをすべて行うことが、わたしたちにはふさわしいのだから」とお答えになりました。確かにイエス様は、罪を犯したことがなく、悔い改める必要のないお方です。けれどもイエス様は、人として神様の前に正しいことを行うことが必要であることを知っていたのです。こうしてイエス様は、その場でバプテスマをお受けになりました。
 すると不思議なことが起きました。なんと天が開けて神の御霊が鳩のように下ってくるのが見えたのです。そして「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」と言う声が聞こえてきました。イエス様だけではなく、ヨハネもこの声を聞きました。イエス様がバプテスマを受けたことを父なる神様が喜ばれたと言う事です。そしてこれは、イエス様が神様のひとり子であることを証明する事となりました。

 バプテスマのヨハネは、イエス様のことを人々に証し、伝える働きを忠実に行っていました。僕たちもイエス様のことを友だちに伝えましょう。イエス様は、バプテスマを受けることによって神様に従う模範を示されました。僕たちもイエス様のように、神様の御言葉に従いましょう。そして信仰を持って洗礼を受けられるようにと祈りましょう。

祈り

「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。ヨハネのようにイエス様を証しすることが出来るように助けてください。イエス様が神様に従ったように、神様の御言葉に従うことが出来るように導いてください。そしてイエス様を信じて、洗礼を受けることが出来るように導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

<適用>

 続いて御言葉に耳を傾けていきましょう。先週の木曜日に2回目となる緊急事態宣言が1都3県に出されました。そして続いて大阪、京都、兵庫が緊急事態宣言の要請をしています。新型コロナウイルス感染が止まらず、ロンドンでは変異種の制御が不可能という宣言が出されたようです。私たちの生活は、厳しい状況の中にあり、どうなってしまうのか分からない不安があります。しかし、私たちは、どのような中にあっても変わらない神様の御手に支えられていることを覚えましょう。
 今日は、マタイ3章から「神に立ち返る」歩みについて、御言葉に耳を傾けていきましょう。

Ⅰ;悔い改めにふさわしい実を結ぶ

 私たちは、「神に立ち返る」信仰の歩みをしているかどうか立ち止まって考えて見ましょう。そのためにバプテスマのヨハネの言葉「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい(8)」に注目しましょう。
 マタイの福音書の著者マタイは、バプテスマのヨハネを紹介するにあたり「そのころ」という言い方で始めています。これは、2章からの流れで理解すると、イエス様がナザレにおられた時と言う事になります。バプテスマのヨハネは、荒野で人々に悔い改めを教え、ヨルダン川で悔い改めのバプテスマを授けていました。そのために多くの人が、彼のところに来て、罪を告白しバプテスマを受けていたのです。
 ある時、バプテスマのヨハネの所にパリサイ人やサドカイ人たちがやって来ました。彼らは、ユダヤ教の中のパリサイ派、サドカイ派というグループに属していた人たちで、ユダヤ教の教師たちでした。彼らは、ヨハネのうわさを聞いて、調査に来たのでしょうか。人々が尊敬しているヨハネからバプテスマを受ければ、自分たちの株が上がると思ったのでしょうか。ヨハネは、彼らを見て痛烈に批判しました。と言うのは、ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人たちの心の思いをよく知っていたからです。パリサイ人たちは、本心で悔い改めることをしない人たちでした。と言うよりも悔い改める必要はないと思っていた人たちだったのです。彼らは、「自分たちは神の民(ユダヤ人)で、しかも教師と言う立場にある。だから罪を悔い改める必要はなく、特別な存在である」という高慢な考えを持っていたのです。

 では、私たちはどうでしょうか。私たちは、イエス様を信じて歩んでいます。聖書を読み、神様の導きを求めていて、正しく生きようと心がけている者です。パリサイ人のように「自分は大丈夫!」と思い上がることはないのかもしれませんが、謙遜でへりくだっているかどうかと問われるとどうなのでしょうか?私たちは、御言葉に教えられて歩みますが、しっかりと神様の御声を聞き、信仰による応答をしているでしょうか。
 バプテスマのヨハネは、パリサイ人たちに悔い改めるように教えます。10節の言葉は、神様の裁きは近づいているのだから、真摯に罪を認め悔い改めることが大切であると言うことです。そしてさらに大切なことは、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」という勧めです。私たちは、神様の前に祈ったから、罪を告白したから、洗礼を受けたから、もう大丈夫と考えるのは間違っています。私たちは、何を悔い改めたのでしょうか。愛の足りなさを悔い改め、でも次の瞬間、人に対していらいらしてしまう。そんなことはないでしょうか。

 「悔い改め」と「後悔」は根本的に違います。「後悔」は、自分のしてしまったことを後になって悔いる事を意味しています。それは、言い方を変えれば「反省」ということにもなるでしょうか。「悔い改め」というのは、180度方向を変えることを意味しています。「悔い改め」は、罪を悔いて、生き方や考え方などを改めることです。私たちは、神様に背を向け、無視していた罪を告白し、神様へと方向転換をして新しい、いのちに生きる者とさせて頂きました。私たちが、心に留める生活は、その悔い改めにふさわしい実を結ぶことです。その実とは、神様の愛に生きることや神様を心から礼拝することや神様への感謝の賛美をささげる生活などによって現れてくるでしょう。悔い改めの実を結ぶことが出来るように祈りつつ歩みましょう。

Ⅱ;イエスのバプテスマ

 私たちは、「神に立ち返る」信仰の歩みをしているかどうか立ち止まって考えましょう。そのために、次にイエス様のお姿に注目しましょう。イエス様は、バプテスマのヨハネの活躍を知り、ご自身でも働きを始める時を知られたと思われます。イエス様は、バプテスマのヨハネの所に来られました。イエス様の公生涯の初めに大切なことは、ヨハネからバプテスマを受けることでした。ヨハネは、イエス様を見て、自分こそあなたからバプテスマを受けなければならないと断りました。ヨハネは、イエス様に罪はないということを感じ取ったのです。
 けれどもイエス様は、ご自分がバプテスマを受けることは、正しいことであり、神様の御心であると告げます。人類の救いのために、神様の御心を行うことは、イエス様にとってもヨハネにとっても大切でふさわしいことだったのです。
 こうしてイエス様は、ヨハネからバプテスマをお受けになりました。その時天が開けて御霊が鳩のように下ってこられ、「これは、わたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」という神様の声が聞こえました。これは、イエス様が神のひとり子であり、救い主キリストであることを示すことでした。

 では何故イエス様は、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたのでしょうか。ヨハネは、悔い改めを教えていたのです。しかしイエス様は、罪を犯すことなく完全に聖いお方でした。それをヨハネ自身も認めています。イエス様が、ヨハネからバプテスマをお受けになったのは、イエス様が罪人と同じようになられたということを意味しています。イエス様は、罪のない人生を送りましたが、私たちはそうではありません。私たちは、神様の御前に悔い改める必要のある者です。イエス様は、バプテスマを受けることによって罪人の立場に立たれ、私たちの罪を身代わりに負って行く道を進まれたのです。
 イエス様は、このように私たちに模範を示されました。そしてイエス様は、人々に洗礼を授けるようにと命じられました。私たちは、信仰を告白して洗礼を受けます。私たちは、多くの人がイエス様の救いを信じて、洗礼を受けることが出来るように祈り、教会の働きが広がっていくように祈りましょう。

 ここで心に留めたいことは、イエス様が言われた「このように正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」という言葉です。私たちは、イエス様のような完全な人間にはなれません。私たちは、神様に従い通す事の出来ない弱い、罪のある者です。しかし聖書は、イエス様を模範とするようにと私たちに教えています。パウロは、「何事でも利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。・・・キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。(ピリピ2:3-7)」と教えています。私たちは、心の目をイエス様に向けて、イエス様のお姿を模範としましょう。それは決して不可能なことではありません。パウロは、私たちが恵みのゆえに信仰によって救われたことを教えながら、「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ2:10)」とも教えています。神様は、私たちが神様に従い、イエス様を模範として歩むことが出来るようにちゃんと御手を差し伸ばしてくださっているのです。私たちは、この神様の御手にしっかりと握られ歩ませて頂きましょう。

Ⅲ;主の道を備える

 私たちは、「神に立ち返る」信仰の歩みをしているかどうか立ち止まって考えましょう。もう一度バプテスマのヨハネの姿に注目しましょう。ヨハネは、荒野で「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」と宣教して人々に神様に立ち返るようにと訴えました。このヨハネは、イザヤが預言した「荒野で叫ぶ者の声」と呼ばれている人です。またヨハネは、「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす(マラキ4:5)。」とマラキが預言していた預言者でした。「らくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野密であった。(マタイ3:4)」という一風変わった風貌は、旧約の預言者エリヤを彷彿とさせるものとなっています。このヨハネは、「主の道を用意し、通られる道をまっすぐにする」という役目が与えられていました。ヨハネは、この主の働きを忠実に行い、人々の心が主なる神様の御前に整えられるように、人々が救い主キリストを知ることが出来るようにと願っていたのです。

 この「主の通られる道をまっすぐにする」と言う事は、王様や貴族のために道路整備をすることと同じだと言えます。日本では、何か催し物があり、天皇陛下が現地を訪ねる時、スムーズに移動することが出来るようにと新しい道が作られることがあります。そのことをイメージすると良いのだと思います。
 バプテスマのヨハネは、王の王、主の主である救い主イエス様の通られる道を整えるのです。その方法は、罪のために飢え乾き、荒廃している人々の心を神様に向けることです。このようにしてヨハネは、人々の心を神様の前に整えて行くのです。

 この働きは、私たちにも委ねられています。今でも多くの人は、神様から離れ、罪の闇に覆われ、不安と裁きや永遠の死という恐れの中にいます。そして多くの人は、自分の心がそのような荒廃した、デコボコだらけの状態であることに気がついていないのではないでしょうか。ただでさえそのような状態なのに、今は、新型コロナウイルス感染の拡大という世界的な困難と混乱に直面しています。今、多くの人の心が飢え乾き、心のよりどころを求めています。私たちの周りの人たちの心が、主の前に整えられ、平らにされ、心が開かれて行くように祈りつつ、福音を伝えていきましょう。イエス様は、「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます(ヨハネ4:14)。」と約束をしてくださいました。私たちもバプテスマのヨハネのように「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにする」ことが出来るように祈り求めましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、「神様に立ち返る」信仰の歩みをしているかどうか立ち止まって考えます。神様、私たちが悔い改めにふさわしい実を結ぶことが出来るように助け導いてください。また、イエス様を模範として歩み、神様の前に正しい信仰を持って歩む力を与えて下さい。そして一人でも多くの人が、イエス様を信じることが出来るように、主の道を整え、主の通られる道をまっすぐにする宣教の働きをすることが出来るように助けて下さい。
 新型コロナウイルスの感染がおさまらず、再び緊急事態宣言が出されました。海外では「ロックダウン」が続いている地域があります。日本だけではなく、世界中で医療が逼迫しています。世界中の人々が神様の憐れみと励ましと恵みを求めています。神様、どうか世界中の人々に御手を差し伸ばしてください。そして多くの人が、救い主イエス様を信じ、神様のもとに本当の救いと平安があることを信じることが出来るように導いてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」