2021年1月17日(日)礼拝説教 マタイの福音書4章1-11節 「荒野の誘惑」

<子どもたちへ>

 昨年から大人気のアニメ「鬼滅の刃」ですが、皆さんも好きですか?多分好きな人が多いでしょうね。大人の方のために少しだけ言うと、家族を鬼に殺され、妹も鬼にされてしまった主人公が、鬼を倒し妹を人間に戻そうとするお話です。小川の中学校でも鬼たちの会話が紹介されて、人権教育の素材にもされたそうです。
 マンガ本を見る機会があったのですが、一つ気になった鬼のセリフがありました。それは、鬼の親玉が鬼になりかけた人間に向かって、「鬼でなくなれば数年の内に死ぬのだ。目の前にある無限の命をつかみとれ。」と誘惑する場面です。人の弱さにつけこんで誘惑する悪魔的なセリフです。その人はその誘惑を退けたので、ほっとしました。そして私は、イエス様の荒野の誘惑のお話を思い出しました。悪魔の誘惑にどのように打ち勝つのか、イエス様の姿から学んで行きましょう。

 洗礼を受けられたイエス様は、救い主としての宣教の働きを始める前に、お祈りして準備なさいました。砂と岩ばかりがゴロゴロしている荒野で、お食事もとらずに40日もお祈りされたのです。やっと40日が過ぎて、イエス様もほっとされたのでしょうか、お腹が空いてきました。すると、そーっと近づいて来た者がいます。それは、悪魔でした。聖書は、悪魔は本当にいると教えていますよ。

 悪魔は言いました。「イエス様、あなたが神の子なら石ころをパンに変えたらいいでしょう、おいしいですよ」するとイエス様はおっしゃいました。「人はパンだけでなく神様のことばで生きると聖書に書いてある」。悪魔のことばで行動するなど、イエス様にはありえないことでした。
 また悪魔は、イエス様を神殿の屋根に連れて行って言いました。「ここから飛び降りなさい。神様が天使に守らせるでしょうから、みんなあなたをほめたたえますよ。」イエス様は答えました。「神様を試してはいけないと聖書に書いてある。」
 今度は悪魔は高い山からイエス様に世界中の国やお城、王様たちを見せて言いました。「私を礼拝するなら、こんな素晴らしい暮らしや栄光をあなたにあげますよ。十字架になんか、かかることありませんよ。」イエス様は答えました。「引き下がれ、サタン!神である主だけを礼拝しなさいと、聖書に書いてある!」そういわれて悪魔は逃げ去りました。入れ替わりに天使たちがやってきてイエス様に仕えました。

 悪魔の申し出はみな、楽してこの世の王様になる道をイエス様に選ばせようとするものでした。どれも聖書に逆らう罪であって、イエス様から救い主の資格を失わせようとするものだったのですね。しかしイエス様は、聖書のみことばで悪い誘惑を断ち切って行かれました。
 イエス様ですら、悪魔に狙われることがあるのですから、私たちはもっと大変です。親切に思える甘い誘いが、実は悪魔の誘惑の場合もあるのです。それを見分けるには聖書のみことばが鍵になります。みことばに反することはみな罪であって、人を破滅させてしまうものです。みなさん、教会で学んだみことばをしっかり覚えましょうね。そして善悪を見極めて正しい選択をする力を持てるように、お祈りして神様に助けて頂きましょう。

<適用>

マタイの福音書4章4節
「イエスは答えられた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」

 引き続き、御言葉に耳を傾けていきましょう。私たちが経験するだろう「誘惑」には、色々なものがあります。私たちは、それにどのように対処することが出来るのでしょうか。イエス様のお姿は、私たちに大きな模範を示しています。

Ⅰ;欲望に支配される誘惑

 バプテスマのヨハネから洗礼を受けたイエス様は、聖霊に導かれて荒野に退かれました。それは、断食祈祷をするためであり、悪魔の試みを受けるためでした。
 イエス様が、悪魔の試みを受けたとされる荒野は、ヨルダン川のすぐ側にあります。私は、数年前にイスラエル旅行に行く機会が与えられ、バプテスマのヨハネが洗礼を授けたとされる場所を訪れました。その場所から車で数分の所にはエリコの町がありました。そしてこのエリコの町の目の前にイエス様が導かれた荒野が広がっているのです。

 イエス様は、聖霊に導かれ荒野に行かれ、40日間の断食をして祈っておられました。聖霊に導かれてのことですから、この荒野での断食は、主なる神様の導きだったことが分かります。悪魔は、そのような神様の導きをも誘惑の手段として用いることがあるのです。イエス様が40日間の断食を終えて空腹を覚えられた時、悪魔は、すぐにイエス様を誘惑します。悪魔は言います。「あなたは神の子で、神の力を持っているのだから、この石をパンに変えて食べたらどうですか?あなたには簡単な事でしょう」と。この悪魔のささやきの本当の意味は、「あなたが救い主として力を示すのは、人々に満足を与え、食べるものを与えることだ。何も罪を代わりに背負う事ではない」という誘惑だったのです。またこの悪魔の言葉は、自分の思いを優先させ、自分の欲求を満たすことに生きる目的を見出しなさいという言葉でもありました。イエス様にとっては、目の前の石をパンに変えることなど簡単なことです。しかしそれをしてしまったら、イエス様が悪魔の策略に屈した事になるのです。

 悪魔の巧妙な策略に対してイエス様は、「イエスは答えられた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある(4)。」と答えられました。これは、申命記8章3節からの引用です。申命記は、モーセがイスラエルの民に語った言葉です。モーセは、約束の地に入る前にイスラエルの歴史を振り返り、神様の戒めを語りました。その中でモーセは、毎日与えられていた食物である「マナ」について語るのです。申命記8章3節「それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」

 イエス様は、このモーセの言葉を引用し、人は肉体的な必要だけではなく、霊的な心の必要があると言われました。そしてその全てを神様は満たして下さるのです。イエス様は言われました。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)」私たちが生きる目的、私たちが生きる道を示すのは、神様の言葉です。
 こうしてイエス様は、欲望を支配する悪魔の誘惑に勝利しました。

Ⅱ;神を疑わせる

 次にサタンは、イエス様を神殿の頂きに連れて行きました。同じイエス様の荒野での誘惑を取り扱っているルカの福音書では、二つ目と三つ目の順番が入れ替わっていますが、誘惑の内容に違いはありません。
 悪魔は、イエス様を神殿の屋上の隅に立たせました。悪魔は、イエス様が神様の言葉を用いて1回目の誘惑を退けたので、悪魔自身も聖書の言葉を使ってイエス様を試みるのです。悪魔の狙いは、イエス様と神様との関係を壊すことでした。
 悪魔は、「『あなたが神の子あら、下に身を投げなさい。「神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする」と書いてあるから』(マタイ4:6)」とささやきました。その意味するところは、「イエスよ。救い主として人々の前に出たいなら、すぐにでも奇蹟を行い、自分が神の子、キリストであることを示せばよいではないか。何も人間の罪を背負い、十字架につけられる必要はない」と言って来たのです。悪魔は、聖書に書いてあるのだから、そのようにしたらよいではないかと誘うのです。この誘いは、神様への疑いを引き起こし、神様を試したら良いだろうという事でもありました。イエス様は、聖書の言葉を使って誘惑する悪魔に対して「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある」とお答えになりました。これには、悪魔は何も答えられませんでした。

 皆さん、悪魔は今でも「本当に神様を信じて大丈夫かな?」「神は、あなたを本当に守り、導くのだろうか?」「神は、あなたを本当に赦して下さるのだろうか?」などと、私たちの信仰の根幹を揺るがそうとします。悪魔は、私たちの心に神様への不信感を抱かせようとするのです。時には、聖書の言葉を用いてもっともらしく感じさせながら巧妙に誘惑するのです。

 しかし悪魔は、聖書を正しく用いることはありません。悪魔がイエス様に言った言葉は、確かに詩篇91篇11-12節の引用です。悪魔は、聖書の言葉の前後の意味を無視して、都合の良い言葉だけを引用します。聖書の言葉は、書かれた言葉の前後の流れをしっかりと理解する必要があります。詩篇91篇は、神様に身を避ける者を神様が守られるという信仰の告白と神様の約束が歌われています。91篇は、「いと高き方の隠れ場に住む者 その人は 全能者の陰に宿る(詩篇91:1)。」で始まり、「彼がわたしを呼び求めれば わたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて 彼を救い 彼に誉れを与える。わたしは 彼をとこしえのいのちで満ち足らせ わたしの救いを彼に見せる。(詩篇91:15-16)」で終わるのです。詩篇91篇は、神様に身を避ける者の完全な平安を約束し、神様の一方的な恵みを約束するのです。

 悪魔は、聖書の言葉を都合のいいように利用するのです。それに対してイエス様は、一貫して聖書の御言葉を正しく用いておられます。イエス様は、申命記6章16節の御言葉を用いました。そこには「あなたがたはマサで行ったように、あなたがたの神である主を試みてはならない。」と言われています。イスラエルの民は、エジプトを脱出して荒野をさまよう中で水を思うように手に入れることが出来ませんでした。その時、彼らは、水を求めてモーセに詰め寄り不平不満を言い神様を試みたのです。その場所が「マサ」と呼ばれたのは、「『主は私たちの中におられるのか、おられないのか』と言って主を試みたから」なのです(出エジ17:7)。イエス様は、このマサでの出来事を扱い、マサの時のように主を試みてはならないと命じられている箇所を用いて悪魔の誘惑を退けました。

 私たちが、聖書を読み、聖書の御言葉を神様の言葉として受け止め、正しく覚え、理解することが必要な理由がここにあります。悪魔は、手を替え、品を替え、時には聖書のみ言葉によって、私たちの信仰を打ち消そうと誘惑します。その時に私たちは、イエス様のように聖書には「・・・と書いてある」と御言葉を盾にしましょう。聖書の御言葉は私たちを守ります。私たちは、しっかりと聖書を読み、神様の御言葉を心に刻み込みましょう。

Ⅲ;偶像礼拝への誘惑

 最後に悪魔は、イエス様を高い山に登らせて、この世の富、権力の全てをイエス様に見せました。高い山に登ったとしてもこの世の全てが見えるわけではありませんから、悪魔はそのような幻を見せたのでしょうか。そして言うのです。「もし自分を救い主として人々に示したいなら、この世の全ての権力を手に入れることが必要ではないか?あなたは、全世界を支配することが出来る。その力を私が与えよう。一つの条件は、私を礼拝することだ。簡単だろう」と。

 もし、みなさんが、このような誘惑を受けたらどうしますか。悪魔は、「この世の富を手に入れるのはそう難しいことではない。この私(悪魔)を礼拝し、この世の生き方をすればいいんだ。」と誘惑します。それがこの世の生き方だからです。私たちは、神様から離れたこの世の価値観や考え方に支配されやすい者です。それこそ悪魔の支配の中にある生き方なのです。神様ではなく、この世の様々なものに目を向けることが悪魔の策略なのです。

 悪魔は、私たちを誘惑する時にそれほど難しい言葉を用いません。悪魔は、「この世に生きているのだから、この世の価値観、この世の常識、誰もがやっていることをすれば良いのではないか。何も神様に従う必要はない」とささやくのです。悪魔は、イエス様に対してさえ「神様に従うことはやめて、自分に仕えなさい。そすればあなたは、瞬く間に救い主としての力を発揮することが出来る」と誘惑したのです。
 これに対してイエス様は、10節「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある」と答えました。この言葉は申命記6章13節の引用です。モーセは、エジプトを脱出したイスラエルの民が約束の地に入った時に、主なる神を忘れないように、「あなたの神、主を恐れ、主に仕えなさい。」と語っていました。

 イエス様は、主なる神様だけが礼拝されるべきお方であり、主なる神様だけに仕えるべきであるということを明確に示しました。それこそ、人間にとって必要なことだからです。
 イエス様は、悪魔の試みに対して、聖書の御言葉によって勝利しました。私たちは、同じ聖書の言葉を手にしています。私たちも聖書の御言葉をしっかりと握り、悪魔の誘惑に勝利をしましょう。また聖書の御言葉は、私たちの人生の道を示し、土台となります。聖書の御言葉に照らされ歩みましょう。聖書の御言葉は私たちに必要な励ましと慰めを与えて下さいます。神様は、聖書の御言葉を通して私たちに語りかけて下さるのです。聖書を読み、御言葉に教えられ、励まされ歩みましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちの毎日が、神様に支えられていることを心から感謝します。
 イエス様は、荒野で悪魔の試みを受けた時、御言葉によって勝利しました。私たちも悪魔の誘惑に惑わされることがないように、聖書の御言葉をしっかりと読み、心に留めることが出来るように助けてください。
 神様、私たちの心がいつも御言葉に開かれていられるように導いてください。私たちの信仰を強めてくださるようにお願いします。
 神様、新型コロナウイルス感染を終息させてください。私たち一人一人の健康を守ってください。世界中の人たちが、主なる神様を信じ、神様からの慰めと平安に満たされますようにとお願い致します。この祈りを私たちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」