2021年1月24日(日)礼拝説教 ヨハネの福音書1章35ー51節 「イエス様に従う」 

<子どもたちへ>

 「師匠、弟子にして下さい!」。そう言って憧れの人を訪ねる…弟子入りにはそんなイメージがありますね。普段は使わない言葉ですが、芸人さんや落語家さん、相撲など、今でも師匠と弟子の関係は続いています。憧れの師匠のようになるために、身近で見て学び指導を受ける日々が、弟子としての生活でしょう。でもイエス様の弟子になる、というのはこれとは少し違います。最初の弟子たちの姿から学んで行きましょう。
 前にイエス様が洗礼を受けられたお話をしました。だれから洗礼を受けたのでしたっけ?…バプテスマのヨハネでしたね。「わたしが洗礼を授けるなんてとんでもない!」と遠慮するヨハネを、イエス様が説得して実現したのでしたね。

 ヨハネはある日、イエス様を見かけました。すると一緒にいた2人のお弟子さんに言いました。「見なさい、あの方が神の小羊だ!」2人の弟子は顔を見合わせました。「ヨハネ先生がこう言うなんて、どういうことだろう?」知りたくなった2人をヨハネはイエス様の方に行かせました、弟子の1人はアンデレ、といいました。あとで12弟子の1人になる人です。元はバプテスマのヨハネの弟子だったんですね。2人がイエス様の後について行くと、イエス様がおっしゃいました。「何の用ですか?」アンデレはもじもじして言いました。「あのう先生、どこにお泊まりですか?」。すると「ついて来なさい」と言われたので、イエス様の泊まっているところに行きました。その日はずーっとイエス様とお話していました。もしかしたら泊まったのかもしれませんね。アンデレたちははっきりわかりました。「この方こそ罪から救ってくださる救い主だ!ヨハネ先生の言った通りだ!」この日からアンデレはイエス様の弟子として生きることになりました。

 アンデレはうれしくて仕方ありません。さっそく家に帰って、兄弟のシモンにイエス様のことを話しました。「兄さん!僕はキリストにあったよ!」驚いたシモンは、イエス様に会いに行きました。そして心からイエス様を信じました。初めて会ったシモンに、イエス様は「これからあなたをペテロと呼びましょう」とおっしゃいました。そう、この人もあとで12弟子になるペテロだったのです!
 聖書ではこの次の日、ピリポさんとナタナエルさんもイエス様を信じてお弟子さんになったとあります。色んな人が登場しますが、一つ共通していることがあります。それは、先にイエス様のことを知った人が、感激して嬉しくて、他の人に教えてあげたということです。そして教えてもらった人は、人づての話で終わらせないで、自分でイエス様の話を聞きに行って信じたのです。これはとても大事なことです。

 皆さんにも同じように、イエス様のことを紹介する人になってほしいのです。コロナが落ち着いたら教会においでよ、と誘うことも出来ます。イエスさまのお話を短く聞かせてあげることも、みなさんには十分出来ると思います。また、信じたならば弟子としてイエス様の教えをよく学んで下さい。もう知ってるよ、ではなくて、更に深くイエス様を知って行けるように、教会に来つづけて下さい。みことばを学び続けて下さい。

<祈り>
神様、イエス様に出会い信じる事が出来て感謝します。私にイエス様のことを教えてくれた人たちのように、私も誰かにイエス様をお伝えできるようお導き下さい。また弟子としてイエス様のことを良く知ってみことばを実行していけますよう助け手下さい。

<適用>
続いて一般の方向けに適用を学んで行きたいと思います。今日は、イエスの最初の弟子たちの様子を一人ずつ取り上げて学ばせて頂きます。

Ⅰ;伝道に用いられたアンデレ

 何人もの人物がこの箇所に記されていますが、まず取り上げたいのはアンデレです。先ほども見ましたが、彼はバプテスマのヨハネの弟子でした。罪の悔い改めをバプテスマのヨハネから徹底的に教えられていたことでしょう。ヨハネ1章の前半には、そのバプテスマのヨハネのことが書かれています。そしてヨハネの言いたかったことが1:34にまとめられています。「この方が神の子であると証言しているのです。」この方、とはイエス様のことです。ヨハネは、悔い改めだけでは不十分であり、神の子である救い主を信じることが必要だと教えていたのです。
 こういう人物を師にもったアンデレは幸いでした。ヨハネに促されて、アンデレはイエス様の方に移って行きました。そこでイエス様自身から神の国について、預言されたメシヤについて、イエス様ご自身について、ひざ詰めでお話を聞いたのでしょう。「この方こそ救い主キリストだ」と十分な確信を得ました。そして弟子の第一号となったのです。

 ところで皆さん、アンデレの最大の働きについてどう評価されているかご存知ですか?ちょっと失礼かな、とも思うのですが、それは兄弟ペテロに伝道したことだ、などと言われます。40節でもアンデレの説明は「シモン・ペテロの兄弟」とあります。誰もが知るあの使徒ペテロの…というニュアンスです。アンデレは第一号の弟子ではありますが、一番弟子と言えばアンデレではなくペテロです。

 イエス様に出会ったアンデレの喜びはあふれ出て、兄弟シモンにそれを伝えずにはいられませんでした。率直に単純にイエス様を紹介するところに、イエス様の素晴らしさが伝わっていくのだな、と教えられます。アンデレのした「連れて来る」という働きを「アンデレ伝道」と言ったりします。コロナ禍でなかなか集会が出来ない状況ですが、それでも「落ち着いたら来てください」「メッセージ動画を見て下さい」など、出来ることから、イエス様の紹介をして行けるよう備えたいものです。心の平安を失い希望を失っている人がかつてなく多い今だからこそ、身近なだれかのために祈り、伝道するアンデレの姿にならって行きたいと思います。

Ⅱ;将来の希望を与えられたペテロ

 さてシモン・ペテロに目を留めたいと思いますが、ここでは彼自身の言葉は全く出て来ません。アンデレの熱っぽい証しと、イエスに合わせたいという誘いで連れて行かれた感じだったのでしょうか。恐らくここでもイエス様はじっくり話をして導いて下さったことと思います。42節には「イエスはシモンを見つめて言われた。『…あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」とあります。

 出会い頭に名前を付けられるとは、唐突な感じです。しかしそれはペテロの人生に大きな変化と将来が待っていることを示すものでした。ケファ、とは岩の意味です。そのギリシャ語がペテロです。それは、シモンがやがて岩のように堅固な信仰を持ち、教会の指導者になることを象徴する名前でした。イエスさまはこの時点ですでにペテロの全てをご存知でした。まだ何者でもない、一介の漁師に過ぎないペテロですが、罪の赦しと救いに至る信仰だけでなく、将来の使命と希望をも備えられていました。皆さん、神様は私たち一人ひとりを世界の基の置かれる前から選んでいたと聖書にあります(エペソ1章4節)。神様は人にご計画をもっておられますが、「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29章11節)と言われています。私たちがいま何歳であったとしても、人生の旅路の何合目であったとしても、イエス様のご計画の実現を祈り続ける歩みでありたいものです。そこにこそ将来と希望、平安が約束されているからです。

Ⅲ;イエスとの出会いで変わったナタナエル

 さてこの翌日さらに2人の人が弟子になっていますが、それはピリポとナタナエルでした。イエス様ご自身で声をかけて導かれたのがピリポでしたが、そのピリポに導かれたのがナタナエルでした。ここではナタナエルに注目したいと思います。
 この人物はあまり聖書に名前が出て来ません、一説によると、12弟子の1人バルトロマイと同一人物ではないかとも言われますが、判然としません。はっきりしているのは「ガリラヤのカナのナタナエル」としてガリラヤ湖畔で復活のイエス様とお会いする弟子たちの中にいた、ということです(ヨハネ21章2節)。一緒にいたメンバーの多くが後の使徒たちだったことを考えると、やはりバルトロマイの別名かも…と思ってしまいますが、深追いはしないでおきましょう。

 彼はピリポから「モーセが書き、預言者たちが書いている方にあった」(ヨハネ1章45節)と証しされます。しかしナタナエルには大きな先入観がありました。「ナザレから何か良いものがでるだろうか。」(ヨハネ1章46節)。イエス様の出身地ナザレが小さな寒村だったこと、宗教的にも重要視されていなかったことで、救い主が出るわけがないと決めつけてしまったのです。ここに人間の知性や思い込みが信仰の邪魔をする様子がうかがえます。

 私たちは先入観を脇において、イエス様ご自身とそのみことばとを知ろうとすることが必要です。ピリポは反論せず「来て、見なさい。」と伝え、イエス様とナタナエルの出会いを導きました。その結果どうなったでしょうか。直接イエス様と接し、彼の事前の行動を見通しておられる不思議なおことばによって、心が変わりました。信じる人になりました。神の子、イスラエルの王、という言葉にその変化が表れています(1.49)。イエス様を知ってもらうのが、やはり一番なんだなと教えられます。イエス様の御教え、イエス様のなさったこと、その一つ一つに力があります。人の言葉で説得できなくても、聖書を通してイエス様に接することが大切なのです。

 ナタナエルは政治的メシヤという希望を持ったようですが、イエス様は彼をたしなめられました。「あなたはさらにおおきなことを見るようになる」(1章50節)というのは、人類を罪から救う神の大きなご計画のことでしょう。そして神の栄光を見るようになるとも言われました。
 イエス様はナタナエルを高く評価していました。しかし、社会的地位があたえられたとしても、様々なこの世の見識を得ていたとしても、私たちのイエス様理解はいつも正されていくべきです。救われたのち弟子として生きるとは、そのように教えられ続け、学び続けることでもあります。

<結論>
 最初の弟子たちそれぞれの、いわば救いの証し、弟子生活スタートの記録を見て参りました。私たち自身の信仰のスタートを今一度振り返り、信仰と将来の希望を新たにしたいと願います。信じるだけでなく弟子としていつもアップデートされる歩みを重ねて参りましょう。

<祈り>
神様。大きなご計画の中で私たちを選んでご計画を立てられ、ふさわしい時に信仰をお与え下さったことを感謝致します。最初の弟子たちはイエス様と直接まみえて堅い信仰に導かれましたが、同じような確かな信仰に私たちを導いて下さい。気持ちをあらたに伝道に励ませてください。また弟子であることを覚えて、常にイエス様から学んでみことばに生きることが出来ますよう、私たちをお導き下さい。御名によって祈ります。アーメン。