2021年2月7日(日)礼拝説教 ルカの福音書5章1-11節「イエス様と私」

<子どもたちへ> 

 皆さんは、大人になったらやってみたい仕事がありますか?警察官、ケーキ屋さん、学校の先生、いま時だとユーチューバ―という人もいるかもしれませんね。今日はイエス様から大切なお仕事を頂いた人のお話です。それは少し前のお話にも登場した、ペテロさんです。
 ペテロはしばらく前にイエス様に出会って、弟子になっていましたね。お仕事は漁師で、兄弟のアンデレと一緒にガリラヤ湖で魚をとっていました。漁師仲間には、後で12弟子になるヨハネとヤコブもいました。

 ある日のことイエス様がガリラヤ湖のペテロのところに来ておっしゃいました。「みんなに舟から話したいので、少しこぎ出してくれないか?」あんまり大勢の人が押しせまってきて、話しづらかったのでしょう。
ペテロは「どうぞ、どうぞ!」とイエス様をお乗せしました。イエス様は舟の上から岸にいる人々にお話をされました。ペテロは舟の上でお話を聞きました。
 話が終わるとイエス様はペテロに言いました。「深いところまでこいで行って、網を下して魚を取りなさい。」ペテロはびっくりしました。「えっ!イエス様、実は私たちは夜通し漁をしたのに何もとれなかったのです。」ペテロは心の中で(漁は夜中にやるものなんだけどなあ。それに今日は長年漁師をしてきた私でもダメだったんだけど…)そう思いました。網も洗ってあったので、もう使いたくない気持ちもあったのでしょう。
 それでもペテロは言いました。「でもあなたがそうおっしゃるのですから、網を下してみましょう。」イエス様のおっしゃることなんだから、私は弟子なんだから、と従うことにしたのです。するとどうでしょう。たくさんの魚がかかり、重すぎて引き上げられません。「おーい、手伝ってくれ!」と仲間を呼んで助けてもらいました。すると2そうの舟が沈みそうなほどの、沢山の魚がとれたのです。

 漁師として今まで経験したこともないほどの出来事でした。ペテロは怖くなり、イエス様の足元にひれ伏しました。湖の中や魚のことまでご存知のイエス様は、自分の生活や心の中もお見通しだ…そう思ったのです。「イエス様、私のようなものから離れて下さい。私は罪深い人間ですから。」
 イエス様は優しくおっしゃいました。「怖がらなくてよい。あなたはこれから人間をとる漁師になるのです。」不思議な言葉ですね。人間をとる漁師とは、人々を神様のもとへ連れて行く人のことです。イエス様を信じて罪赦され、永遠のいのちを頂けるように導く人のことです。ペテロは新しいお仕事を頂いたのです。舟からあがるとペテロは何もかも捨ててイエス様について行きました。アンデレ、ヨハネ、ヤコブも一緒でした。

 みなさん、自分のことは自分が一番知っている、人生は自分のものだ、と思っていませんか?それは間違いです。それでは大漁の前のペテロと同じです。罪深い存在であると気付いて謙遜にされることが必要なのです。「あなたのおっしゃることですから」と謙遜に従うことが大切です。将来の進路を考えるときも、神様あなたは私に何を望んでおられますかとお祈りして行きましょう。仕事以外でも、今この時に与えられる役割もきっとあります。弱っている友達を励ます、家族の一員として役目を受け持つ、出来ることを見つけて教会の奉仕する、友達やまわりの人のために祈る…。色々あります。「私には何が出来るでしょうか」と祈る心を是非持って下さい。そして一歩踏み出して、実際にやって行きましょう。皆さんの上にイエス様のみこころが実現しますように。

<祈り>
「神様。私たち一人ひとりに役割と使命を下さることを感謝します。私に今出来ることを教えて下さい。また将来、どんな仕事をして行くとよいのか、神様にお従いして行けるように導いて下さい。イエス様によって祈ります。アーメン。」

<適用>

「イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』」マタイの福音書4章19節

 私たちは、常に「自分と誰か」という関係の中で生きています。私から見た今の状況は、「牧師である私と皆さん」という関係があり、「聖書の話をする私と聞いている皆さん」ということになります。そのほかに「先生と生徒」、「社長と社員」、「親と子」など私たちは、様々な関係性の中で生活をしています。では、自分の人生(生き方)を考えた時、そこにはどんな関係性があるでしょうか。おそらくそこには「自分と自分」と言うことしかないような気がします。私たちは、多くの場合、自分の人生を自分の意志と考えで何とかしていこうとするのではないでしょうか。だから私たちは、疲れるのです。
 でも今日の個所は、「イエス様と私」という関係で人生を生きることが出来ることを教えていると思います。

1;日常の中での交わり

 「イエス様と私」という関係は、日常の交わりの中で豊かにされていきます。1月24日の礼拝でイエス様とアンデレやペテロとの出会いを学びました。バプテスマのヨハネの弟子であったアンデレは、イエス様に出会って、兄弟シモンをイエス様に引き合わせました。このことがきっかけになり彼らは、イエス様の弟子となりました。けれども、彼らはすぐにイエス様に付き従ったわけではありませんでした。ペテロとアンデレは、イエス様との出会いの後も自分の仕事である漁師を続けていたのです。彼らは、ガリラヤ湖で漁師を続けながら、時間のある時にイエス様の話しを聞いていたのではないでしょうか。イエス様は、最初故郷のナザレの会堂で教えました。しかしナザレの人たちは、イエス様を受け入れませんでした。そこで、イエス様は、ガリラヤ湖の北に位置するカペナウムを宣教拠点とします。ルカ5章には「ゲネサレ湖」とありますが、ガリラヤ湖のことです。実は、このカペナウムでペテロたちは、漁師をしていたのです。またペテロの家がカペナウムの会堂のすぐ目の前にあったことから、イエス様とペテロたちは、交わりを深めていたと思います。

 そんなある日、ペテロたちは、一晩中働いても何も捕れなかったという疲労感を抱えたまま、網を洗い次の漁のために準備をしていました。そのすぐ側にイエス様はいましたが、ペテロはイエス様の話を聞く暇などありませんでした。ペテロは、イエス様と群衆を眺めることしか出来ませんでした。ペテロは、群衆が押し迫り、湖に近づきすぎているイエス様を見て「大丈夫だろうか?」と心配していたのではないでしょうか。イエス様は、ペテロに舟を出してもらいたいと声をかけました。こうしてイエス様は、ペテロの舟に乗って押し迫る群集に向かって教えられました。
 このことは、漁を終え疲れた体で網を洗っていたペテロにとって負担になることでした。けれどもこの時の出来事は、ペテロにとって何かが変わり始めていると感じさせたかもしれません。この後、ペテロは人生の大転換の時を迎えます。その転換は、特別な状況というよりもペテロの日常の中で起きました。イエス様は、ペテロの舟に乗って群衆を教えます。ペテロは、その教えをすぐ側で聞くことが出来たのです。こうしてイエス様は、ペテロの日常の中で彼の心に触れてくださったのです。このことは、イエス様とペテロとのより個人的な交わりを生み出していきます。

 皆さん、私たちは、これまで様々な出会いを通して様々な変化を経験して来たはずです。それと同じように、私たちは、イエス様との出会いによって神様を知り、自分が変えられることを経験するのです。イエス様は、私たちの人生という舟に乗ってくださり、私たちの日常の中での交わりの中で教え導いてくださるのです。私たちの人生という舟にイエス様に乗っていただきましょう。

Ⅱ;みわざを見る

 そのような「イエス様と私」のかかわりの中で私たちは、イエス様の大きなみわざを見ることが出来ます。
 群集に話し終わった後、イエス様は、ペテロに陸から離れて網をおろして魚を取りなさいと言われました。ペテロにしてみれば耳を疑いたくなる言葉です。ペテロは、漁師として長年仕事をしてきたプロです。彼は、魚が捕れる時間帯やどこに網をおろぜばよいかなど、魚を捕るための情報を誰よりも持っているのです。そのプロが夜通し働いても何も獲れなかったのです。ペテロは、「徹夜をして疲れているのに、どうして無駄な事を言うのだろう」と思ったかもしれません。イエス様が群衆に話をしていた時間帯は、魚が活動する時間帯ではありません。

 私は、以前独身時代に魚釣りに誘われたことがありました。その時は、川の水を引き込んで作った大きな釣堀での疑似餌(ルアー)を使ったマス釣りでした。私は、「釣りも楽しそうだし、教会に来て間もない青年と時間を過ごしながらいろいろ話をするのも良いかもしれない」と思い行くことにしました。出発時間は、朝の5時でした。その理由を聞くと釣りは、朝の早い時間が良いと言うのです。なぜなら日が昇ると水温が高くなり魚が動かなくなるので釣れなくなるそうです。だからその日の計画は、朝早く行って釣りをして、昼間はのんびり過ごし、日が傾いてきたらまた釣りをすると言う事でした。
 このことからするとペテロが、網をおろすのを躊躇する気持ちもわかります。ペテロの「でも、おことばですので、・・・(5)」という言葉は、「イエス様が言われるなら仕方ないですね。」と言うような響きがあります。ペテロは、「どうせダメなのに」との思いがあったでしょうか。彼は、しぶしぶ網をおろしました。するとどうでしょうか。一晩中何も獲れなかったのに、信じられないほどの大漁となりました。しかも助けに来たもう一そう共々沈みそうになるくらいの常識をはるかに超えた大漁となったのです。

 この経験が、ペテロをはじめアンデレやヤコブ、ヨハネに大きな衝撃を与え人生の転機となりました。ペテロは、イエス様が人間わざではない奇跡を行い、全てを知っておられ、支配しておられるお方であることを認めました。と同時に彼は、イエス様の聖さと自分の罪深さを知ったのです。そこで出てきた告白が8節の言葉でした。ペテロは、「網をおろしなさい」と言われた時、半信半疑だったのです。けれどもイエス様の言葉の通りに従ったら信じられない奇跡を経験したのです。だから彼はイエス様の前にひれ伏して、自分の罪を認めて悔い改めているのです。このペテロの信仰と悔い改めがイエス様の弟子となる最終的な準備だったと言えると思います。
 ペテロが経験した、出来事は大切なことを私たちに教えています。イエス様は、私たちの日常の中に来てくださり、私たちの心に触れてくださいます。そしてイエス様の言葉に耳を傾け信頼する時、イエス様はご自身のみわざを行ってくださるのです。そのような導きを皆さんは経験しているのではないでしょうか。教会に行くようになり、礼拝に出席するようになること、聖書を読むようになること、その一つ一つにイエス様は、かかわっておられるのです。そのような中で私たちは、イエス様の行う事柄を見ることが出来るのです。神様は真実な方ですから、私たちが聖書の言葉に信頼して従っていく時、祝福と恵みを与えてくださいます。イエス様の導きとみわざに期待して歩みましょう。

Ⅲ;イエス様を人生の主人する

 「イエス様と私」という出会いの中で私たちは、イエス様を人生の主人とする生き方へと導いていただくことが出来ます。
ペテロは、舟から上がるとイエス様に従う弟子となりました。イエス様は、恐れひれ伏しているペテロに、「あなたは人間をとるようになる」と言われました。これは、ペテロが投網で魚を捕っていたように、人を生け捕りにしてイエス様のところに引っ張て来るという怖い話ではありません。イエス様の言われたことは、ペテロがイエス様の弟子となり、多くの人々に福音を語り、人々を神様のもとに導くようになるということなのです。ペテロは、イエス様の弟子となりイエス様の教えを聞き、みわざを目撃します。そのことをペテロは、喜びをもって証しし、感動をもって語り伝えるのです。

 まずここで、心に留めたいことは、私たちもイエス様との出会いの中で受けた多くの恵みと祝福、そして罪からの救いという大きなみわざを証しすることが求められているということです。ペテロをはじめその兄弟アンデレ、そしてヤコブとヨハネの兄弟にも向けられた、イエス様の招きの言葉は、私たちにも語られています。
 そして次には、このイエス様の招きに何もかも捨ててイエス様に従ったペテロの姿を見ることにしましょう。ある人が、ペテロたちが何もかも捨てて従ったことについて、「それは、自分の人生は自分のものではなく、イエス様から頂いたものであると認める生き方をした」というような説明をしていました。私は、その説明に納得しています。私たちは、信仰をもって歩むことを、自分を捨てて、自分を無にして従うというイメージを持ちます。しかし、ペテロたちの行動は、自分自身の信念や自我を人生の中心とする生き方から、イエス様を人生の中心として生きる生き方への転換なのです。

 私たちは、自分の力で生きていこうとすると疲れます。自分で何とかしようとすると、時には何かを我慢し、時に思い通りにならないことでイライラしてしまいます。私たちは、自分の人生のハンドルを自力で精いっぱい握りしめるのではなく、私たちを確かに導き祝福を与えてくださるイエス様に握っていただくことが出来るのです。イエス様は、ペテロに「私について来なさい(マタイ4:19)」と言われました。イエス様の後について進んでいくとき、イエス様は私たちの人生を方向付け、導いてくださるのです。イエス様にあなたの人生のハンドルを握っていただきましょう。
 イエス様は、「イエス様と私」という個人的な関係を大事にしてくださり、私たちの人生という舟に一緒に乗ってくださいます。イエス様の声に耳を傾け信頼する時、私たちはイエス様のみわざを見ることが出来ます。私たちは、イエス様に人生をゆだねることができます。イエス様は、「わたしに従ってきなさい」と声をかけてくださいます。このような「イエス様と私」という関係をしっかりともって歩んでいきましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、ペテロの日常の中で近づき舟に乗り、ペテロの心に触れてくださいました。今も私たちの日常の中で近づき、私たちの人生の舟に乗ってくださることを信じます。どうぞ導いてください。
 ペテロは、イエス様のみ言葉に従い大きなみわざを経験し、イエス様による人生をスタートしました。私たちもイエス様のみ言葉に耳を傾け従います。どうぞイエス様のみわざによって導いてください。イエス様、私たちの人生のハンドルを握ってくださり、助け導いてください。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」