2021年2月21日(日)礼拝説教 ヨハネの福音書5章1-9節 「人生を導くお方」

<子どもたちへ>ヨハネ5章8節「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」

 うちの近くには、プール付きのスポーツジムがあります。いつか泳ぎに行きたいなと思っていましたが、コロナの影響で閉まったままです。また小川町公営の室内プールも閉鎖のようです。プールの維持管理はお金もかかり、大変なのですね。
 さて今から2000年以上前のイエス様の時代に、大規模なプールがあったことを前にもお話しました。覚えていますか?「ベテスダの池」という人工のプールです。そこは常に大勢の人でにぎわっていましたが、今のプールとは雰囲気が違いました。病気の人ばかりが集まっていたのです。改めて学んで行きましょう。

 ここはエルサレム、ベテスダの池です。ここには不思議な言い伝えがありました。「天使が降りて来て水をかき混ぜることがある。その後、一番最初に水に入った人はどんな病気でもいやされる」というものでした。だからそこには、病気の人や体の不自由な人たちが集まっていました。元気になりたい、よくなりたい、と思う人たちがじっと池の水を見つめていました。
 そこに一人の男の人が寝ていました。なんと、38年も病気が治らず苦しんでいたのです。水が動くと急いで入って行こうとするのですが、だれかに先を越されて結局一番には入れません。「ああ、今日も何も起こらなかった。」男の人はため息をつきました

 そこへ見かけない人がやってきました。イエス様です!イエス様は、ユダヤ人のお祭りに合わせて、エルサレムに来ました。でも一番に行かれたのは神殿ではなく、このベテスダの池でした。病気や障害で苦しみ悩んでいる人たちのいるところを、イエス様は素通りなさらなかったのです。わざわざ池まで来てくださいました。
 イエス様は男の人に話しかけました。「良くなりたいか?」男の人はびっくりしました。いつの間にか病気で寝ているのが当たり前になっていました。良くなりたい、とも言わずにこう答えました。「水が動いても、だれも助けてくれません。いつも他の人が先に入ってしまいます。」この人は「自分はもう治らない」とあきらめていたのかもしれません。
 イエス様はその人に言いました。「起きて敷き物を取り上げて歩きなさい」。男の人はイエス様の力強い言葉を聞くと、勇気が出て来ました。「やってみよう!」そう思って動いてみると、からだに力が満ちてきて立ち上がることが出来ました。「立てた!歩ける!」38年間どうにもならなかったのに、イエス様のお言葉に従った時にいやされたのです。

 私たちもどうにもならずに無力さを感じることがあります。そのどうにもならない問題をかかえた人のところに、イエス様は自分から近づいて下さいます。そしてその力で助けて下さるお方なのです。本当の願いがあるのに諦めている、ということはありませんか。諦めずに、素直な祈りによって願いを聞いて頂きましょう。イエス様のお力と恵みに信頼していきましょう。癒された男の人のように、神様の大きな恵みが皆さんの上にありますように。

<祈り>
神様。問題を抱える人にイエス様が近づいて助けて下さることを感謝します。私にも恵みによる解決をお与えください。アーメン。

<適用>

ヨハネの福音書5章6、8節

「イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。『良くなりたいか。』・・・イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい。』」

 私が、沼田にいたころに通っていた内科医では、看護師が患者を呼ぶのではなく、医師が診察室のドアを開けて呼んでいました。診察室で体温を測るときは、先生が体温計を渡してくれます。風邪の時の吸引の処置をするときでもその先生が、いろいろ準備をしていました。医師という仕事は、一日中座っていますから、診察室の中でも動き回って体を動かしているのかもしれません。ある時、そこに通っている知人から、あの先生は、患者を呼びながら待合室の患者の様子を見て、診察室に歩いてくる歩き方も見ていると聞いたことがあります。その医師は、自分で動きながら、患者の様子を見学し、声の調子なども聞きながら、問診をしているような感じでした。私は、その先生は、比較的患者の話をよく聞き、丁寧に診てくれるのではないかと思っています。こうして私たちは、体のことに関しては、病院に行って診てもらいます。それが一番の方法であると知っているからです。
 では、私たちは、自分の「人生」についてどんな方法をとることが出来るのでしょうか。私たちは、自分の人生と言う道についてどんなメンテナンスが必要なのでしょうか。誰が、その道の補修をしてくれるのでしょうか。皆さんは、それを知っていますか?

Ⅰ;私たちを見ていてくださる

 私たちの人生を導くお方であるイエス様は、私たちを見ていてくださいます。
 ある時イエス様は、ユダヤ人の祭りのためにエルサレムに上られました。この祭りが何かは明らかではありません。しかしエルサレムに上る必要があったので、ユダヤ人たちにとって重要な祭りであったことが分かります。
 エルサレムの城壁にはいくつかの門がありますが、その一つに「羊の門」があります。この門は、エルサレム神殿のすぐそば、北側に位置する門です。この門の近くに「ベテスダ」と言われる池があり、大勢の人が往来していました。イエス様の時代は、ヘロデが神殿を建設していましたから、祭司や礼拝者だけではなく、工事関係者もその近くを通っていたと想像できます。それだけではなく、このベテスダの池には、多くの病人が、回廊に伏せっていました。ここには二つ池があり、周囲を囲む4つ(4辺)の回廊があり、池と池の間にもう一本合計5つの通路がありました。ベテスダという言葉は、「憐れみの家」と言う意味があります。伝説によれば、池の水がかき回された時、最初に池に入った人が癒されたというのです。そこに伏せっている人たちは、そのような癒しのわざ、神様の憐れみを求めていたのです。

 ですから当然、そこに集まっていた誰もが、神様の憐れみを必要としていました。けれどもベテスダの池にいた人たちは、なかなか思うように行かず、厳しい現実を抱えていたのです。皆が慰めを必要とし、助けを必要としていました。しかしその場にいた誰もが、我先にと行動し、お互いを励ましあうことも、手を差し伸べあうこともしていなかったのではないでしょうか。だから38年もの長い間病気のために苦しんでいる人がいるということがあったのだと思います。彼は、38年間も病気のために自由に体を動かすことが出来ず、床に伏せっていました。彼は、ベテスダの池に居て水が動いた時にいち早く入ろうと待機していました。でも現実は、甘くありませんでした。彼は、何回となくやって来るチャンスを目の前にしながらその機会を逃していたのです。彼の気持ちを想像することが出来るでしょうか。彼は、諦めの気持ちがありつつ、でも治りたいという思いを持ち続けていたのではないでしょうか。
 イエス様は、このような現実の只中に来てくださり、彼の病気が長いだけではなく、彼の心が飢え渇き、藁をもすがるように助けを必要としているのを知ってくださったのです。

 イエス様は、私たちの現実もご覧になり、私たちの心の状態を知ってくださるお方です。私たちは、やはり競争社会の中で生きています。私たちの生きている社会は、より多く働くことや人よりも良い成績をとること、誰よりも成功すること等など他の人と比較される社会です。その中で多くの人は、心休まらず、ストレスを抱えてしまうのです。私たちも例外ではないでしょう。そのような中で多くの人は、助けを必要としています。けれども、誰もが皆、必死に生きているので、他の人を思いやる暇がないのです。また私たちは、周りの助けを受けたとしても、やはり自分の人生の中でも様々な問題を抱えて生きることには変わりがありません。イエス様は、そのような私たちの心、私たち自身の現実を見て知っていてくださるのです。そしてイエス様は、私たちに近づいて来てくださるのです。

Ⅱ;声をかけてくださる

 私たちの人生を導くお方であるイエス様は、私たちに声をかけてくださいます。イエス様は、どんなふうに声をかけてくださるのでしょうか。イエス様は、ベテスダの池で38年間も病気にかかっていた男性を見て近づき、「良くなりたいか」と声をかけてくださるのです。しかもその方法は、そっとです。
 38年間病気で苦しんでいる人にとって、ベテスダの池は、憐れみの家ではなく競争の世界、誰も自分のことを気にかけてくれる人がいない冷たい場所だったのではないでしょうか。神殿のすぐ側の池ですから、多くの人が行き来します。中には手を差し伸べる人もいたでしょうが、ほとんど顧みられることはなかったように思います。そういう中でイエス様は、心に留めてくださり、「良くなりたいか」と親切に声をかけてくださったのです。彼は、どんなに嬉しかったことでしょうか。皆さんは、こんな経験ありませんか。自分が、弱っている時にもっとも助けを必要としていた時に声をかけられるうれしい経験です。

 私は、そのような経験のしたことがあります。私は、学院を卒業して伝道師となり、教会で働いていた時(独身時代)のことです。ある土曜日の午後、教会掃除が終わり、教会の青年たちが帰った後、ほっと一息ついた時、突然私は、立つことも歩くことも出来ない程の腰の痛みに襲われました。私は、同じような痛みを経験したことがあったので、その原因をなんとなく予想することが出来ました。それは、尿管結石です。次の日は日曜日です。何とかしなければなりません。幸い、奉仕していた教会の目の前には、総合病院がありました(歩いて1分もかからない場所です)。私は、何とか力を振り絞り自力で病院に行きました。でもすでに何人も急患の人がいます。総合病院ですから、救急車で運ばれてくる人が優先されました。そのために私は、順番を待たされることとなり、呼ばれる気配はありません。その間私は、言いようもない痛みでうなっているだけです。看護師さんに聞いても「もう少しです」と言われるだけです。その時です。私が、青白い顔をしながらうなっているのを見た隣の方が、私の状態を見かねて「この人本当に悪そうだから早めに診てやってください」と看護師さんに言ってくれたのです。私は、すぐに呼ばれることとなりました。その時嬉しかったです。そこには、少しでも早く診てもらいたい人たちが集まっていました。その方もそうだと思うのです。けれども、その方は、私に気づいて心配してくださったのです。本当に心の底から嬉しかったです。診察の結果私は、予想通りの「尿管結石」でした。当直医に言われたことは、「どうして救急車を呼ばなかったのか」でした。歩けば1分もかからない病院に行くのに救急車を呼ぶことは出来ない、歩いたほうが早いのです。でも医師は、救急車を呼べば、すぐに診察を受けられるということでした。

 38年間病気だった人は、イエス様に目を留めてもらい、イエス様の「良くなりたいか」との問いかけを受けたのです。この言葉はどれほど、彼を慰め、励ましたことでしょうか。しかし、彼にとっては「良くなりたいかって、そうに決まっているでしょう」そう答えたかったに違いありません。でも彼は、力なく池を見ながら「良くなりたいけど、もういいのです。水が動いても自分では入れないし、誰も手伝ってくれないから」と答えるのみでした。何と悲しい言葉ではないでしょうか。けれどもこの言葉は、彼の本当の思い、心からの訴えなのです。彼は、知らず知らずに、イエス様との交わりが与えられ、イエス様の臨在に包まれたのです。

 皆さん、イエス様は、今、私たちの思いを知り、必要を見抜き、私たちに「良くなりたいか」と語りかけてくださいます。あなたは、今、どんなことで助けを必要としているでしょうか。健康のこと?家庭のこと?夫婦関係のこと?仕事?職場?学校?人間関係?就職?将来の事?・・・。イエス様は、「良くなりたいですか」と言ってくださるのです。私たちは、このイエス様の語りかけに遠慮することなく、自分のありままの思いを打ち明け、祈ることが出来ます。イエス様は、私たちの声にしっかりと耳を傾けてくださるのです。今礼拝では、「そうだ!祈ろう」を賛美しています。私たちは、「そうだ!祈ろう」と顔を上げることが出来ます。私たちは、何はともあれ、何事でも神様の御前に祈ることが出来るのです。皆さん、これは素晴らし特権です。どんな時にも、どんなことでも祈りましょう。

Ⅲ;イエス様だからこそ

 私たちの人生を導くお方は、イエス様だけです。イエス様だからこそ私たちの人生に寄り添い、かかわり、導くことができるのです。
 38年間病気に苦しんでいた男性に「良くなりたいか」と問いかけたのは、イエス様だからこその言葉です。私たちは、病気の人や何か問題を抱えている人に何と声をかけますか。私たちは、「良くなりたいですか」などと言えるものではなりません。それを聞いたとしても私たちには、何も出来ないからです。しかしイエス様は、「良くなりたいか」と聞きました。なぜならイエス様には、病気を癒す力があるからです。イエス様は、38年間も病気でいた人の心の叫びを聞き、彼を癒されました。

 私たちが助けを必要としている事柄は、先ほども言ったように、仕事や人間関係、学校でのこと、家庭でのこと、等であり、さらには、自分自身の性格など心の内側の問題など、多くの必要を抱えています。イエス様は、そのような事柄について、「良くなりたいか」と声をかけてくださり、私たちの声を聴いてくださるのです。なぜなら、イエス様には、それが出来るからです。イエス様は、私たちの人生の様々な問題、人には言えない事柄も含めて私たちに手を指し伸ばすことが出来るのです。
 そしてイエス様は、私たちの罪を赦すことが出来ます。そのためにイエス様は、十字架にかかり、死を打ち破って今も生きておられるのです。よみがえって今も生きておられるイエス様は、私たちを赦し、私たちの心に安らぎと希望を与え、私たちの人生を確実に導くことが出来るのです。

 イエス様は、「床を取り上げて歩きなさい」と言われました。私たちは、問題だらけという床に伏しているのではなく、イエス様によって床をたたみ立ち上がって前を向くことが出来るのです。私たちは、イエス様を信じ、信頼して人生を歩みましょう。イエス様は、「良くなりたいか」と問いかけて、私たちの人生を導き助けてくださいます。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、38年間病気で苦しんでいる人の状況を見てくださり、近づき「良くなりたいか」と声をかけました。今もイエス様が、私たちの人生を、私たちの心を見ていてくださり、私たちに近づき「良くなりたいか」と声をかけてくださることを感謝します。
 このように声をかけイエス様は、私たちの心の声(祈り)を聴き、みわざを行い、私たちの人生を導いてくださることを感謝します。イエス様、どうか私たち一人一人の人生に寄り添い、助け、導いてください。私たちは、イエス様によって、立ち上がる力が与えられることを信じます。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」