<子どもたちへ>
最近は暖かい日も増えてきて、春が近づいている感じですね。教会のカレンダーでは、2/17の水曜日から受難節という期間に入りました。いつも以上にイエス様の十字架と復活を覚えて過ごす期間です。今日の箇所は、どうしてイエス様が憎まれて十字架に追いやられて行ったのか、その背景がわかる場面です。一緒に学んでいきましょう。
ここはユダヤ人の会堂です。神殿とは別の場所で、神様を礼拝する安息日になると、みんなで集まってみことばを聞くのです。イエス様も会堂に入って来られました。すると、イエス様を嫌っていたパリサイ人と呼ばれる人たちが、こわい顔をしてやって来ました。片手の不自由な人を呼び寄せてイエス様に会わせると、こう言いました。「今日は安息日です。あなたは病人をいつでも癒すようだけれど、安息日にいやすのは正しいことでしょうか?」
「安息日」(あんそくにち)って…なに?ちょっとわかりづらいと思うので、説明しますね。安息日とは、天地創造の時に神様が六日で全てを完成させて、七日目を祝福してすべてのわざを休まれた、ということに由来しています。その後モーセに与えられた十戒(十のいましめ)に、「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。七日目はどんな仕事もしてはならない。」と教えられています。それでイスラエルでは、七日目(つまり土曜日)を安息日として、仕事を離れてゆっくり休み神様を礼拝する日にしたのです。今の教会では、イエス様の復活を記念して「週の始めの日」(日曜日)を礼拝の日としています。
お話を戻しましょう。イエス様の時代には、「してはいけないこと」ばかり気にするようになりました。「ご飯の支度をしてはいけない」「字は一つなら書いてもいいけど二つは書いてはいけない」とか、細かく決められていたのです。パリサイ人たちは、自分が安息日のきまりを守っていることを自慢していました。だから、自由にふるまうイエス様が目ざわりで仕方なかったのです。
イエス様はパリサイ人たちに言いました。「あなたたちも、自分の羊が穴に落ちて危険な目にあえば、助けるではありませんか?人間は羊よりずっと価値ある存在です。安息日に良いことをするのは正しいのです。」そういうとイエス様は手の不自由な人に言いました。「手を伸ばしなさい」。男の人が手を伸ばすと、その手はまっすぐに伸び、健康なもう一方の手と同じようになりました。男の人は大喜びです。うれし涙を流してイエス様に感謝しました。でもパリサイは悔しくて悔しくて、怒りながら会堂を出て行きました。そして、どうやってイエスを殺してやろうかと相談を始めたのです。
形だけこまかく安息日の決まりを守っても、パリサイ人たちの心は神様から遠く離れていました。でもイエス様は決まりを無視しているようでいて、一番大切な神様の愛を示して下さいました。それは、イエス様が神さまだからです。安息日を定めたのも、それをどう当てはめればいいかを示すのもイエス様だ、ということです。それが「安息日の主」ということです。
では私たちはどうしたらいいでしょう?「教会か…。決まりだから行かなくちゃ」ではなくて、心から感謝して神様を礼拝しましょう。また、神様がよろこばれること、他の人への愛や思いやりの行いを実行する日にしたいですね。
<祈り>神様。私たちを価値ある存在と見て下さることを感謝します。安息日とは、祝福神様への感謝の心で教会に集まり、礼拝を捧げられるようお導き下さい。またまわりの人に思いやりと愛を届ける過ごし方が出来ますようお助け下さい。イエス様によって祈ります。アーメン。
<適用>
2/17日は教会歴で「灰の水曜日」と呼ばれる日でした。灰の水曜日からイースターの前日までを受難節(レント)と呼んで、イエス様の十字架と復活を深く覚える期間です。今年のイースターは4/4ですから、そこまでの数週間は十字架に向かっていくイエス様のお姿を学ぶことになります。今日の箇所はイエス様のお働きでは前半の方だと思われますが、すでにその段階でユダヤ教指導者たちに憎まれ死に追いやられていく予兆が見られます。律法学者たちがイエス様を生かしておけないと思うほどのテーマが、この「安息日」に関する考え方でした。ですから「安息日」を定められた神様を正しく知ることは、神様に喜ばれる信仰とは?という問いに答えを与えてくれます。少し硬いテーマに思えますが、神様がどのようなお方かに焦点をあてつつ、共に学ばせて頂きたいと願います。
1.安息日とは何か
まず最初に「安息日」とは何かということを学びたいと思います。すでに子どもたちとも学びましたが、それは天地創造に由来します。そして十戒の中にこうあります。「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事せよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない」(出エジプト記20章8~10節)。これは家長や奴隷の所有者、など指導的な立場の人に向け、家族も家畜も奴隷も在留外国人も、皆が仕事から解放されて休み、神を礼拝出来るようにせよ、との配慮に満ちた戒めでした。
一方で、同じ出エジプト記31章の最後の所では、シナイ山での十戒授与の締めくくりの言葉として、安息日を守るように厳しく教えられています。違反者には死刑が定められていました。ですからイスラエル民族は、代々安息日を守ってきました。更に、何が仕事にあたりどこまでが許されるのか、細かい決まりを作ってきました。こうした言い伝えは人の解釈に過ぎないのですが、口伝律法(くでんりっぽう)と呼ばれて聖書と同じ権威がある、とされました。それを最も強硬に主張したのがパリサイ人だったのです。福音書ではパリサイ人とイエス様の論争が繰り返し出て来ます。それはパリサイ人が、口伝律法の虚しさを指摘するイエス様を、挑戦的で危険な存在と見なしたからでしょう。
さて私たちクリスチャンは、安息日をどうとらえたらよいのでしょうか。私たちが週に一度日曜日を神様のために聖別し、礼拝のために集まるのは幸いなことです。人の努力や頑張りで生きるのではなく、神様に生かして頂いていることを確認し、心身を休ませることであるからです。神様は祝福をもって応えて下さるのですから、自らの魂の養いのために、そのような一日を勝ち取りたいものです。
それと同時に、律法主義に陥らないよう気を付けなくてはいけません。パウロは言いました。「こうして律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです」(ガラテヤ3:24)。律法はみこころを知らしめる養育係だというのです。日曜日を神様のために聖別することは大切ですが、それが出来ない人を裁いてはなりません。「聖日の厳守」は自分自身の決心としてなら幸いですが、人を裁いたり、信仰による救いがうやむやになってはいけないのです。むしろ、自発的かつ感謝をもって礼拝に集い続けたいものです。
2.真実の愛を喜ばれる主
さて、マタイの福音書に戻りましょう。イエス様と弟子たちは麦畑を通りました。空腹だった弟子たちは、麦の穂をつんで食べ始めたというのです。イスラエルでは貧しい人たちがこのように作物をつんで食べることが認められていました。問題は、それが安息日だったということです。パリサイ人がそれを見ていたのです。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはいけないことをしています。」どういうことでしょうか?麦の穂を手で摘んだことが収穫、食べるためにもみ殻を取り除いたことが脱穀、口で吹いてふるいにかけて食べたから、見事に仕事が成りたち律法に違反したというのです。なんとくだらない指摘でしょうか!
これに対しイエス様は旧約聖書の例をひいて反論されます。ダビデ王がサウル王から逃げていた際に、空腹の彼らに祭司が聖別のパンを与えたが、ダビデは神から裁かれませんでした。かえって祝福され後に王となっています。律法には特例もあるということです。また安息日に祭司が儀式で働くのは許される、ということも示されます。
そして最も大切なことを言われました。7節のホセア書からのみことばです。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。」いけにえというのは儀式でもっとも重要な事柄です。しかし神様は、私たちが真実の愛で神様を愛しお従いすることの方を喜ぶのだというのです。そして愛の神を信じる者ににふさわしく、人を助けたり生かしたりする形でみことばを実行するということも含まれるでしょう。形ばかりを気にするのは間違った考え方だと言っておられるのです。
イエス様は、パリサイ人が罪のない者を罪と定めた、と非難されます。何が罪で誰が罪人か、お決めになるのは神であるイエス様です。イエス様が安息日を定められた神だというのです。それが「人の子は安息日の主です。」というみことばの意味です。律法的に他人を裁く人は、神様だけがなさることをしてしまっているのです。今一度、神様への真実の愛によって行動しているか、人を大切にしているか、確認させて頂きたいと思います。
3.私たちへの愛を表わされる主
またイエス様は会堂に入って行かれました。そこはパリサイ人たちが活動の中心にしているところでした。人々もみな聖書の御言葉が朗読され教えが語られるのを聞きに、集まっていました。そこに片手のなえた人がいました。イエスはきっと癒しを行う、それを律法違反として訴えてやろう。パリサイ人たちはそう思ったようです。そして彼をちらちら見ながら、「安息日にいやすのは正しいことでしょうか?」とイエス様に尋ねたのです。
口伝律法によれば、安息日には生命に危険の及ぶ場合は手当をしてもよいそうです。また怪我をした場合も薬のついていない包帯をまくこことは出来ました。しかし生死にかかわらない病気の治療は労働とみなされ、禁止事項だったというのです。この片手のなえた人のケースでは、命にかかわる状態ではありませんから、癒しは律法違反とみなされるのでした。論争は必至です。
みなさん、イエス様はこのような論争など何でもなかったと思われますか?もちろんイエス様はどんな時も、毅然とそして力強くパリサイ主義を論破して行かれました。しかしながら、まことの神であると同時にまことの人間でもあったイエス様は、疲れを覚えらることもあったのではないかと思うのです。現代であれば、SNSなどで炎上すると、誹謗中傷が大変なことになります。そんなことにならないよう、当たり障りのない発言や行動を取るのが、知恵ある行動とされます。
片手のなえた人の癒しは、翌日に持ちこしたら何の問題もないことでした。明日ここへいらっしゃい、と約束すれば、1日遅れで癒されたって本人は大喜びでしょう。イエス様も論争を避けることがおできになります。
しかしイエス様はそんなことはなさいませんでした。安息日の主であるイエス様が、人の言い伝えに遠慮することはあり得ませんでした。穴に落ちた羊なら口伝律法ですら助けるのを認めているのに、はるかに価値の高い人間を助けるのがダメとは何という矛盾でしょう。「安息日に良いことをするのは正しいのです。」と宣言し、その人に「手を伸ばしなさい」と言われました。するとその手は癒されまっすぐに伸ばせるようになりました。イエス様は、長年の彼の苦しみをただちに癒すことを選ばれたのです。
イエス様は真実の愛を私たちに表して下さるお方です。ご自分に苦しみを引き寄せる結果を招いても、断固として人への愛を表して下さるお方です。この時生じたパリサイ人たちの殺意が、後のイエス様の逮捕と十字架につながっていきます。しかしイエス様は十字架さえも引き受けるおつもりでした。それは私たちを「高価で尊い」「はるかに価値のある存在」として慈しみ、愛してくださっているからです。身代わりとなって罪の赦しを与え、神の子としての永遠のいのちを与える。安息日の戦いの中に、イエス様はこうしたご決心を示して下さいました。
<結論>
行いから信仰へ。私たちが招かれている神様との関係とは、そのような信仰による世界です。日曜日の迎え方においても、神様の愛を感謝をもって受け取る信仰を新たにしたいものです。また、神の愛をもって良きわざを実行する日にしていきたいと願わされます。私たちのための犠牲をいとわれなかった救い主イエス様に、喜ばれる歩みをさせて頂けるよう、祈って参りましょう。