2021年3月7日(日)礼拝説教 ルカの福音書22章1-23節 「最後の晩餐」

<子どもたちへ>

 みんなには、大切に(記念に)している事柄や日がありますか。誕生日は、とても大切で記念すべき事柄ですね。その他にも何か記念とするべきことがあるでしょうか。例えば、私にはありませんでしたが、「初めてテストで100点を取った日」とかなど、これは覚えておこうと決めたことなどが記念日となるでしょうか。今週の11日で東日本大震災から10年となります。経験したことのないような地震と津波によって大きな被害が発生しました。この間も大きな地震がありましたね。神様の支えと慰めがあるように祈りましょう。皆は、東日本大震災を経験し、新型コロナウイルス感染の拡大という予想もしない出来事の中にいます。皆の人生の中でも忘れられない出来事となっていると思います。
 今日は、ユダヤ人たちが、大切にしていた「過越しの祭り」のことを見ながらイエス様のお姿に目を向けましょう。そんな大切な時に、イエス様の周りでは不穏な動きがありました。

 先週、「安息日」のことを聞きましたね。安息日とは、どのような日のことでしょうか。この日は、仕事を休み神様を礼拝する大切な日として守るのでしたね。今では、日曜日が礼拝の日として守られています。ユダヤ人の中のパリサイ派の人たちは、安息日にはどんな仕事もしてはいけないと、決まりを細かくしていました。彼らは、神様を礼拝するよりも律法を細かく守ることが重要となっていたのです。しかしイエス様は、安息日に神様のわざを行っていました。パリサイ人たちは、そのことが気にいらないので、どのようにしてイエス様を捕まえようか相談をしていたのです。イエス様の周りには常に群衆がいますから、すぐには手を出すことが出来ません。そんな時に、イエス様の弟子のひとりイスカリオテのユダが一つの提案を持ちかけるのです。なんとユダは、イエス様を裏切り、売ってしまい、イエス様を捕まえられるように情報を渡すと約束してしまったのです。

 そうこうしているうちに過越しの食事となりました。これがイエス様の最後の晩餐となります。ユダも知らん顔をしてそこにいました。イエス様は、この時に過越しの食事の意味を説明してくださいました。まずパンが裂かれて弟子たちに分けられます。そして言われます。ルカ22章19節を読みましょう。パンは、イエス様のからだを現わしています。イエス様は、私たちの罪のために十字架にかけられるということです。
 イエス様は、杯も弟子たちに与えて言われました。今度は、20節を読みましょう。杯のぶどう酒は、十字架で流されるイエス様の血潮を現わしています。イエス様は、私たちの罪が赦されるために必要な事を示してくださいました。それは、イエス様ご自身が私たちの罪の代わりに十字架にかけられるということです。罪のために神様の裁きを受ける必要があるのは私たちです。けれどもイエス様は、私たちの身代わりとなって罪に対する神様の裁きを受けてくださるのです。それが、イエス様の十字架です。この十字架にイエス様は、進んでいかれるのです。
 でもイスカリオテのユダは、イエス様を裏切るのです。「この中に裏切者がいる」と言われた時もユダは心動かされず、その席から出て行ってしまいました。

 今日一つの事を心に留めましょう。それは、イエス様は、みんな一人一人の罪の身代わりに十字架にかけられ、血を流してくださったということです。このイエス様の十字架は、私たちに罪の赦しを与え永遠のいのちを与えます。イエス様の救いを信じましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様が、私たちの代わりに十字架にかかってくださったことをありがとうございます。イエス様を信じて救いを受けて歩み続けることが出来るように導いてください。イエス様は御名によってお祈りします。アーメン。」

<適用>

「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約です。」
                                   ルカの福音書22章19-20節

 レオナルド・ダヴィンチの絵画で有名なものの中に「最後の晩餐」があります。一度は、見たことがあると思います。今日の説教題を聞いて、その絵画を思い受け浮かべた方もいるのではないでしょうか。ダヴィンチの書いた「最後の晩餐」は、イエス様が言った「この中に裏切者がいます」という場面が描かれています。ダヴィンチの絵では、椅子にテーブルとなっていますが、実際にイエス様の時代では、床に座るか横になっての食事でした。「裏切者がいる」と言われ、みんなびっくりして体を起こしたでしょうから、その時の表情がよく描かれていると思います。
 先週の礼拝で「レント」について話がありました。この時期は、私たちのためになされた十字架のみわざを思いめぐらしつつ過ごします。今日は、イエス様の受難を前にした「最後の晩餐」に心を向けましょう。

Ⅰ;過越しの祭り

 まず、最初に最後の晩餐が行われた時である「過越しの祭り」とは何かを見ることにしましょう。出エジプト12章1-14節を開いてください。

旧約の時代、イスラエル人たちは、エジプトで増え広がりました。そこでエジプト王ファラオは、イスラエル人たちを奴隷として苦役を与えました。それは、とても厳しいものでした。詳細はお話しできませんが、後で出エジプト記をじっくり読んでいただきたいと思います。このようなエジプトでの苦役の中で、イスラエル人たちは、主なる神様に助けを求めて祈りました。神様は、イスラエルの叫びを聞かれ、その様子をご覧になり、一人の指導者を立てました。それがモーセです。モーセは、神様の言葉に従い、イスラエルの民を率いてエジプトを出ようとファラオに交渉しますが、ファラオは、それを許可しませんでした。神様は、心を頑なにするファラオに対して10の災いを与えます。最後の災いが、エジプトのすべての初子を打つと言うものでした。

 神様は、この災いに先立って一つの命令を与えます。それが先ほど読んだ出エジプト記12章に書かれている過越しです。イスラエルの民は、傷のない一歳の雄の子羊か子やぎをほふり、その血を家の二本の門柱と鴨居に塗りました。そして、肉は焼いて、種を入れないパンと苦菜と一緒に食べるのです。神様は災いを下す時に、血の塗られた家を過ぎ越されました。この時大切だったことは、ほふった子羊の血を二本の門と鴨居に塗ると言うことです。神様は、血を見てその家を通り過ぎました。神様の言葉の通りに、血を塗った家は救われたのです。
 神様は、この過ぎ越しをエジプトから救い出された祝うべき日として永遠の記念とするように定められました。こうしてユダヤ人たちは、過越しの祭りを守り続けています。過越しの祭りの時には、子どもの代表者が祭りの意味を質問します。そして家長が、過越しの意味を説明して教えるのです。

イエス様は、弟子たちと最後の時間を過ごすまさにその時が、ユダヤ人にとって最も重要な過越しの祭りの時だったのです。この大切な過越しの食事のためにイエス様は、弟子たちを遣わして準備をさせました。
 イエス様は、ご自分の最後の時を自覚して、その場所を選ばれました。ルカは、この時のイエス様の心境を伝えています。ルカ22章15から16節です。イエス様は、ご自分の十字架の前に弟子たちと過越しのひと時を過ごすことを特別な時としておられました。イエス様は、全人類のためにご自身が犠牲となる十字架を目前にしていたのです。

Ⅱ;新しい契約

 イエス様は、過越しの食事の中で、その意味を明らかにしてくださいました。それは、私たちとって新しい契約となりました。
 先ほど、出エジプト記から「過越し」がどのような事であったのか見ました。その時は、羊かやぎがほふられ、その血が門に塗られました。その血によって神の救いを得ることができました。それが祭りとして記念され、ユダヤ人たちは毎年大切に守ってきました。この過越しの食事では、プログラムがあり、家長がリードして食事がなされます。先ほど触れたように、この食事の席で子どもが過越しの祭りの意味を質問します。この質問もプログラムの中に位置づけられているのです。家長が、子どもの質問に答える形で、出エジプトなどのイスラエルの歴史を語ります。子どもたちは、それを聞いてイスラエルの歴史を学び、神様への信仰の大切さを学ぶのです。

 この最後の晩餐の時は、イエス様がリードして食事がスタートしました。実際にイエス様が、どの段階でのパンと杯を指して言われたのかは分かりませんが、イエス様は明らかに過越しの食事を通してご自身の救いのみわざを語っておられます。イエス様はパンを取り、「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。(19)」と言われました。出エジプトの時、神様が過ぎ越すために屠られたのは、子羊でした。しかし、人類の罪のために裂かれ屠られるのは、子羊ではなくイエス様のからだでした。続いてイエス様は、杯を取り「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約です(20)」と言われました。
 旧約の時代、イスラエル人たちは、罪を悔い改め赦されるために動物をいけにえとしてささげていました。そのためにイスラエル人たちは、繰り返し繰り返しいけにえを捧げ続けなければなりませんでした。しかし、イエス様は、私たちのためにただ一度ご自身を捧げてくださいました。イエス様は、十字架刑にされる前に鞭うたれ傷だらけになり、十字架に釘付けにされ、血を流されました。人類の罪を赦すために流されるのは、子羊の血ではなく、御子イエス様の血潮でした。過越しの子羊は、イエス様の十字架による救いを示すためのものだったのです。イエス様は、最後の晩餐の席で、聖餐式を制定されました。教会では、聖餐式を行っていますが、それは私たちがイエス様の十字架の苦しみを思いめぐらし、今も救いを与えてくださる神様の愛に感謝をするためです。

 イエス様は、私たちすべての人の罪の贖いのために、私たちに代わって十字架にかかってくださったのです。これが「新しい契約」と言われているものです。私たちは、罪を赦されるためにいけにえを捧げるのではなく、私たちのためにご自身を十字架でささげてくださったイエス様を信じる信仰によって罪赦され神の子とされ、恵みをいただくことが出来るのです。
 イエス様が言われた「あなたがたのために」と言うのは直接イエス様の言葉を聞いていた弟子たちに向けられた言葉です。けれども、イエス様の言葉は、今、聖書を通してこの言葉を聞いている私たちにも語られています。イエス様のからだは、皆さん一人一人のためにさかれ、イエス様は皆さん一人一人のために血潮を流してくださったのです。

 イスカリオテのユダは、イエス様の言葉に心を変えることなく、その場を去ってしまい闇にとらわれたままでした。しかし他の弟子たちも最後の晩餐の時のイエス様の言葉を理解してはいませんでした。その証拠に、彼らは、弟子たちの中でだれが一番偉いのかと議論を始めるのです。
 私たちは、「あなたがたのために」というイエス様の言葉にどのような態度を示すでしょうか。私たちは、私たちのために十字架に進まれたイエス様を心に留めましょう。私たちの罪に対する神様の救いのみわざを信じ、信仰をもって応答しましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、十字架を前にして最後の晩餐を持たれました。その席上、イエス様はご自身が進んでいく十字架について教えてくださいました。イエス様のからだが私たちのために裂かれ、イエス様が私たちのために血潮を流してくださったことを信じます。「あなたがたのために」と言われたイエス様の言葉に信仰をもって応答して歩みます。どうぞ信仰を強め、導いてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」