2021年3月14日(日)礼拝説教 マタイの福音書26章36-46節 「苦悩の中での祈り」

<子どもたちへ>

 皆は、「眠れない夜」を過ごしたことがありますか?「明日は待ちに待った遠足!」と考えただけでも眠れなくなるかもしれませんね。お菓子を買ってリュックに詰めてワクワクしながら準備をして、夜は期待に胸が膨らんでなかなか眠れない時があったでしょうか。もしくは、寝ることは寝るけど、「まだ、夜中の2時、まだ3時」と一時間ごとに目が覚めてしまうという経験があるでしょうか。僕たちは、楽しいことを思い浮かべただけでワクワクして寝付けないものですね。
 でも時には、大きな問題に直面して考え込んでしまって寝付けないという事もあるのです。イエス様は、十字架を前にしてそんな眠れない夜を過ごしました。それがゲッセマネの園での最後の祈りの時となりました。

 イエス様と弟子たちは、最後の晩餐を終えて、オリーブ山のゲッセマネという場所に祈りに行きました。その場所は、エルサレムのすぐ側に
あって、イエス様はエルサレムに来ると良くそこで祈っておられました。イエス様は、そこに到着すると弟子たちに「ここに座っていない」と言われ、ペテロとヤコブとヨハネを連れて少し進まれました。するとイエス様の様子が急に変わりました。
 イエス様は、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」と言われました。これは、「一緒に祈っていてほしい」というイエス様の願いです。3人の弟子たちは、死ぬほどに震え恐れるイエス様の姿を始めてみました。これは大変なことになると思ったでしょうね。
 イエス様は、少し離れた所にひざまずいて「わが父よ。できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈りました。これは「父なる神様、人類が罪を赦され救われるためには、どうしてもあの恐ろしい十字架にかかる必要があるのでしょうか。他にもっと別な方法はないのでしょうか。」というイエス様の素直な気持ちです。

 でもイエス様の祈りは続きます。「しかし、わたしの望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」これは「神様、十字架以外に人類を罪から救う道はないのですね。その神様の願いの通りになさってください。わたしは、それに従います。」という決意の告白であり、祈りです。
 イエス様は、子なる神であり、人類を罪から救うために来られた救い主です。イエス様ご自身十字架のことを予告しておられました。しかしイエス様は、当然の様に十字架に進んで行かれたのではありません。イエス様は、神様であると同時に完全な人間でした。ですからイエス様は、人間として十字架の恐怖に押しつぶされそうになっていたのです。それだけではなく、全ての人の(もちろん僕たちの)罪の代わりに神様の裁きを受けるのです。それが十字架でした。イエス様は、罪を犯すことはなく、完全に聖い人間として神様の御前を歩みました。だからこそ、僕たちの罪の身代わりになることが出来るのです。そのためにイエス様は、十字架にかからなくてはなりません。だからイエス様は、苦悩の祈りをするのです。イエス様は、僕たちのために苦しみを経験されるのです。
 けれどもイエス様は、この祈りの中で神様の御心に従い、十字架に進んでいく決心をしました。

 その時です。祈りの静けさを打ち破る様に、武器を持った人たちがゾロゾロっと、やって来ました。その先頭には弟子のひとりユダがいます。ユダは、イエス様が夜に祈る場所を知っていたので、イエス様を引き渡すために群衆を連れて来たのです。こうしてイエス様は捕らえられました。イエス様は、迷うことなく恐れることなく、十字架に進んでいかれました。
 今日も、僕たちを罪から救うために十字架に進んで行かれたイエス様を見上げましょう。イエス様の救を感謝し、信じましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様が、僕たちのために十字架に進んでいかれたことを感謝します。イエス様によって救いが与えられることを信じます。イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。」

<適用>

「それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。『わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。』」   マタイの福音書26章39節

 引き続きゲッセマネの園でのイエス様のお姿、そして祈りの言葉に注目していきましょう。「ゲッセマネ」という言葉は「油絞り」という意味があります。そこはオリーブの園となっていて、実からオリーブ油を絞ることからゲッセマネの園と言われるのです。その場所でイエス様は、まさに絞り出すような祈りをされました。

Ⅰ;全てを注ぎだす祈り

 ゲッセマネの園の「苦悩の中での祈り」は、全てを注ぎ出す祈りとなりました。イエス様は、過ぎ越しの食事の後、弟子たちを伴いゲッセマネの園に行きました。すでにイスカリオテ・ユダは、イエス様を裏切るために行動を起こしています。イエス様は、ゲッセマネの園に着いた時、さらに3人の弟子(ペテロ、ヨハネ、ヤコブ)と一緒に進まれました。その時イエス様は、彼らの見ている前で「深く恐れ悶え始められ」たのです。ある聖書は、「心の深い悲しみ〈苦悩〉を示しはじめられ、深く打ち沈まれた」と訳しています。弟子たちは、今までに見たことのないイエス様の姿に驚いたにちがいありません。そのイエス様の恐れは、「悲しみのあまり死ぬほど」の深い苦しみ悶えだったのです。そのためイエス様は、弟子たちに「ここにいて、わたしと一緒に目をさましていなさい。」と言われたのです。イエス様は、弟子たちに一緒に祈り支えてほしいと願い、またこれから弟子たちの身に起こるだろう困難のためにも祈り備えるようにと言われたのです。

 そう言ってイエス様は、「石を投げて届くほどのところに行き(ルカ22:41)」一人で祈られました。この祈りは「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」で始まりました。これはイエス様の苦悩を率直に表している言葉です。イエス様の願いそれは、十字架を取り除いてほしいということでした。ある人は、イエス様はそれを承知していたのではないかと思うかもしれません。確かにイエス様は、私たちの救いのために旧約の預言を成就することを承知していたし、弟子たちにも十字架について予告していました。けれどもイエス様は、子なる神であると同時に完全な人間なのです。ですから肉体的精神的苦しみを思うと恐れるのは当然ではないでしょうか。
 イエス様がこれほどの苦しみを感じていた十字架刑とは、どんなものなのでしょうか。十字架刑は、ローマ帝国が奴隷、外国人、ローマ市民権を持っていない犯罪人に考えた最も残虐な処刑方法でした。両手両足を釘付けにされ、苦しみながら死を迎える処刑方法なのです。イエス様は、この想像を絶するほどの苦しみを通らなければなりません。それだけではなく、「鞭打ち」「いばらの冠」という肉体的な痛み、そして人々の「あざけり、ののしり」という精神的な苦痛などがありました。それ以上にイエス様を苦しめたのは、罪人として神様の怒りの裁きを受けることでした(イザヤ53:12参照)。イエス様は、罪のない完全な人として私たちの全ての罪を背負い十字架に身代わりとなられるのです。これは、神のひとり子であるイエス様が、神様から見捨てられるという霊的な痛み悲しみを意味しています。このような十字架を前にしてイエス様は、ご自分の全てを注ぎ出して苦しみ祈られたのです。

 皆さん、罪のために神様に捨てられ裁かれるべきなのは私たちです。聖書で教える罪は、「的を外す」という意味を持ちます。私たちが、神様に背を向け、無視し、信じないという事が罪なのです。誰もが、この罪に該当します。そして罪には、神様の裁きが定められています。けれども神様は、私たちを見捨て、裁くのではなく、ひとり子イエス様に全ての責任を背負わせてイエス様を裁くのです。イエス様の苦悩は、私たちの罪の重さを表しているのです。
 イエス様は、私たちに代わって苦悩の中での祈りをしてくださいました。感謝と祈りをもって主イエス様を見上げましょう。

Ⅱ;御心を求める祈り

 ゲッセマネの園での「苦悩の中での祈り」は、御心を求める祈りでもありました。イエス様は、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください(39)」と全てを注ぎ出した後、すぐに「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」と祈ったのです。
 イエス様は、全てを注ぎ出して祈りましたが、その祈りは決して自己中心な祈りではありませんでした。イエス様は、人として率直にご自分の願いを祈り、それでも神様の御心に従い、御心が成就することを願ったのです。2度目の祈りの言葉は、すでにイエス様が十字架に向かう最終決心をしていた事を表しているのではないでしょうか(42節)。

 ルカの福音書では、イエス様のゲッセマネでの祈りの時に「御使いが天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。(ルカ22:43-44)」と書かれています。この時の汗は、極度の緊張と恐れからくる汗だと思われます。
 このようにイエス様は、祈りつつ「しかしあなた(父なる神様)が、望まれるままに、なさってください。」、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように(42)」と祈るのです。イエス様は、苦しみ悶えながら、父なる神様の御心に従い、進んでいく力を与えてくださいと祈っていたのです。この時イエス様の近くには弟子たちがいましたが、弟子たちは、祈れず眠ってしまいました。イエス様は、ゲッセマネで一人孤独に苦闘し祈っていたのです。その祈りによってイエス様は、父なる神様の御心を確認し、その御心に従って進んでく力を与えられたのです。イエス様は、ご自分の思いよりも父なる神様の御心を選ばれました。その御心とは、子なるイエス様が、全人類の罪のために神様の裁きを受けるという事でした。

 皆さん、私たちは時として孤独に苦しみ嘆き、うなだれることがあります。今月は、東日本大震災から10年となります。目を疑うような被害が発生し、私たちは痛みと悲しみに打ちのめされました。東日本大震災だけではなく、阪神淡路大震災、熊本地震、九州豪雨、大雨や台風による被害など多くのことをあります。そして今、私たちは、新型コロナウィルスという前代未聞の出来事の渦中にいます。私たちは、そのよう中でこれらの事をどのように受け止めることが出来るのか思い巡らしながら祈ります。また私たちは、自分の人生についても様々な事柄の中で悶々として祈ります。時には、声にならない祈りになります。そのような時、イエス様は私たちの心の叫びを知り聞いてくださるのです。私たちには、次のような約束があります。「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることが出来るのです(ヘブル2:17-18)。」、「私たちの大祭司(イエス様)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです(ヘブル4:15)」。
 イエス様は、ご自身が苦悩の祈りを通られたので、苦悩する私たちの心の思いに寄り添い、知り、助け、力を与える事が出来るのです。そして神様は、私たちの祈りの中で、御自身の御心を確かに示して、前進する力を与え導いてくださいます。今、この瞬間も神様の御手は差し伸べられています。私たちは、全ての事柄の中で主なる神様に祈り、神様の御心を求めて、主と共に歩ませていただきましょう。

Ⅲ;チャレンジの祈り

 ゲッセマネの園の「苦悩の中での祈り」は、私たちにチャレンジを与えるものでもあります。弟子たちは「ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」と言われました。また「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」とも言われました。
 「目を覚ましていなさい。」という言葉は「油断せず注意していなさい。」という意味があります。弟子たちは、すぐ目の前に迫っている大きな試練のために祈り備えることが求められていました。しかし弟子たちは、祈ることが出来ず、眠り込んでしまっていたのです。

 イエス様の側に呼ばれた3人の弟子たちは、以前は一晩中働いていた漁師でした。その時彼らは、一晩中寝ずに働くことが出来ました。しかしこのゲッセマネでは、起きていられないのです。弟子たちは、「祈り」をそれほど重要視していなかったのではないでしょうか。弟子たちは、心のどかで、別に祈らなくても大丈夫と考えたのかもしれません。それがまさに誘惑だったのです。
 この時、3人の弟子たちが求められたことは、そのまま私たちへの勧め(チャレンジ)となっています。私たちは、好きなこと、興味のあることには、何時間でも集中するでしょう。では、御言葉を読むことや祈ることについてはいかがでしょうか。イエス様は、弟子たちに油断せず注意していなさいと言われたのです。イエス様は、私たちにも、自分は大丈夫と油断しないで、しっかりと信仰をもって歩むために祈り続けるようにと言っておられるのです。

 イエス様の苦悩の中での祈りは、私たちのためのものでした。イエス様は全てを注ぎ出して祈られました。またイエス様は、御心を求めて祈られました。イエス様は、祈りを通して父なる神様の御心に従い、十字架に進んで行かれたのです。
 苦悩の中での祈りをされたイエス様は、私たちの心の思いを知り、助けてくださいます。信じて主に祈りましょう。
 私たちは、誘惑に陥らない様に、御心を知り従い続けることが出来るように心の目を覚まして祈り続けましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、ゲッセマネの園で、苦悩の中での祈りをささげました。イエス様のその苦しみは、私たちの罪のためです。イエス様は、私たちの罪が赦されるために十字架に進んでいかれました。イエス様は、神様の御心求めて祈り、従う力を得ることが出来ました。
 今イエス様は、私たちの苦しみ恐れを知り、助け励まし、導いてくださることを感謝します。イエス様が、私たちの日々の歩みに確かに寄り添ってくださることを信じます。
 神様、どんな事柄の中にあっても、あなたの御心を知り、祝福の中を歩むことが出来るように祈り続ける信仰を与えてください。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。」