2021年3月21日(日)礼拝説教 マタイの福音書26章57-68節 「真夜中の裁判」

<子どもたちへ>

 皆さんにちょっと変な質問をします。昨日の夜中は何をしていましたか…?「寝てました」ほとんどの人はそう答えるでしょうね。そう、夜はゆっくりねむるのがいいですね。では逆に、夜中にしない方がいいことって何でしょう?いくつか挙げて見ると、運動(24時間マラソンとか不自然)、ゲーム、ケンカ、難しい話など、夜中はやめてほしいことって沢山ありますね。
 さて今日のお話は、イエス様の人生の最後の夜中に起こったことです。それは、でたらめな裁判です。それによってイエス様は死刑に決められるのです。今日はそのお話を見て行きましょう。
 先週までのお話で、イエス様が最後の晩餐の後にゲッセマネの園でお祈りした時に、逮捕されてしまったと聞きましたね。イエス様は夜の闇の中で、神殿で一番偉い大祭司カヤバの家につれて行かれました。会議や裁判もする広い建物です。夜中なのに、沢山の律法学者たちやリーダーたちが集まっています。それは、イエス様を死刑にしてやろうと最初から決めてあったからです。

 大勢の人が嘘の証言をしました。「このイエスは悪い男です!」「悪いことをしていました!」でも、証拠を出した人は誰もいませんでした。誰が何を言っても、イエス様は黙っていらっしゃいました。
 すると、しびれを切らして裁判長に当たる大祭司が言いました。「あなたは神の子キリストなのか?黙っていないではっきり言いなさい!」イエス様は「その通りです。」とおっしゃいました。それを聞いたカヤパは「これ以上調べる必要はない。今私たちは神様を侮辱することばを聞いたのだから!」と叫びました。集まっていた人たちはみな、「この人は死刑に当たる!」と言って、イエス様の死刑を決めてしまいました。
 朝になると、イエス様はピラトというローマ総督の所に連れて行かれました。当時は、ローマ帝国に国が支配されていたので、許可がなければ死刑に出来なかったのです。ピラトはイエス様を調べました。ここでもイエス様はピラトに何も答えませんでした。ピラトは、イエス様に悪い所はなく、ユダヤ人のねたみを買って連れて来られたことに気が付きました。「無実の人を死刑にしたくないな。よし、人々に聞いてみよう」。ちょうど過越しの祭りの最中で、いつも囚人を一人釈放してあげていたからです。
 ピラトは人々の所に出て来ました。「ユダヤ人の皆さん、今年は誰を釈放したいですか?人殺しをしたバラバですか、それともイエスですか?」さあ、人々は何と言うでしょう…?実はユダヤ人リーダーたちが先回りしていました。そして、バラバを選ぶように説得してあったのです。ユダヤ人たちは叫びました。「バラバを釈放せよ!イエスを十字架につけろ!」大変な騒ぎになってしまい困ったピラトは、「自分たちで好きなようにせよ!」とイエス様を十字架にかけることを許可してしまいました。

 これがイエス様の受けた裁判の様子でした。人間の悪い思いが支配していて、少しも正しい裁判でなかったことが分ります。イエス様は何の罪も犯さなかったのに、死刑に決められてしまったのです。でも、イエス様は何の抵抗も抗議もされませんでした。すべてが神様のご計画であることをご存知で、受け入れておられたからです。ユダヤ人のリーダーたち、十字架につけろと叫んだユダヤ人たち、バラバにピラト、みんな大きな罪を犯しています。しかし皆さん、聖書はすべての人は罪を犯している、と教えています。この私も罪人のひとりであり、そんな私たちのためイエス様が身代わりになるのが、神様のご計画でした。そのためにイエス様はこんな裁判も耐え忍んで下さったのです。すべての罪を担って下さったイエス様をほめたたえましょう。

<祈り>神様。罪のないイエス様が不正な裁判を耐え忍んでくださり、私たちに救いの道を開いて下さったことを感謝します。自分の内側にある罪から目を背けず、救い主イエス様を、自分に必要なお方としてお受入していけますように。御名によって祈ります。アーメン。

<適用>

「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」 イザヤ書53章7節

 今日の舞台は、大祭司カヤパの家です。そこは今、「鶏鳴教会」として保存されています。大祭司カヤパの家は、エルサレムからオリーブ山(ゲッセマネ)に向かう道の斜面にあり、エルサレムから最短距離で行くためには、その道を使ったようです。

Ⅰ;暗闇の中の最高議会

 真夜中の裁判が行われていた時、そこに集まっていたユダヤ人の最高議会(最高法院)は、まさに暗闇の中にいました。
 イエス様は、ゲッセマネの園で祈られた後、イスカリオテ・ユダが率いて来た群衆によって捕らえられました。群衆は、イエス様を捕らえて、大祭司の家に連れて行きました。イエス様は、ゲッセマネの園に行く時、大祭司カヤパの家のわきの坂道を下って行ったと思われます。そして、イエス様は、群衆に捕えられ同じ道を通って、大祭司の家に連行されるのです。この時すでに、ユダヤ人たちは、最高法院を招集していました。通常の裁判は、昼間行います。けれどもユダヤ人たちは、イエス様を捕えて真夜中でもすぐに裁判を行いました。彼らは、周到な準備をしてイスカリオテ・ユダを派遣したということです。大祭司の家では、真夜中にもかかわらず、大祭司による尋問(不当な裁判)が始まりました。

 皆さん、そこに集まっていたのは、ユダヤの律法学者、長老たちという最高法院です。という事は、律法を守らなければならない代表者たちの集まりという事です。神様は、モーセを通して与えた十戒の中で「偽りの証言をしてはならない(出エジプト20:16)」と命じています。最高法院は、この十戒を守り行うはずです。しかし彼らはその戒めを公然と破り、偽証人を立てるのです。しかもすでに判決は決まっていたのです。彼らは、イエス様を死刑にするために嘘でもいいから証拠が必要だったのです。
 しかし彼らは、イエス様について知らなかったわけではありません。彼らは、イエス様が神の国の事を話し、多くの奇蹟を行い、神様の恵みを宣言することを聞いて知っていたのです。
 イエス様は、数多くの事を話されましたが、一つ上げるとしたら、ルカの福音書4章16-21節ではないでしょうか。イエス様は、故郷のナザレでイザヤ書を開き、それを読んだ後「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」と言われました。人々は、イエス様が「主の霊に満たされたお方」であることを知っていました。人々は、イエス様が、罪に捕らわれている人を解放し、奇跡を行い、恵みを告げしらせる方であることを聞いていたし、目撃していました。イエス様こそ、救い主なのです。旧約聖書に精通している律法学者を始め祭司長たちは、イエス様が預言されていた救い主キリストであると証言することが出来たはずです。けれども彼らの心は、暗闇に支配され神様に心を開くことが出来ず、イエス様を救い主と認める事が出来なかったのです。

 イエス様は、この不当な真夜中の裁判の中で、ご自分に不利な証言がされても反論せず、「あなたはキリストか」という質問に対して「その通りだ」と答えました。大祭司は、このイエス様の答えを「神への冒瀆罪」として訴え、死刑に当ると判断が下されました。しかし、すぐに動くことは出来ません。夜が明けたら、総督ピラトに訴えて正式な裁判を行わなくてはいけません。そこでイエス様は、大祭司の地下牢に留置されていたと考えられます。イエス様への侮辱的な行為が行われたのは、この地下牢だったのではないでしょうか。イエス様は、イザヤが預言したように、黙って口を開かず、十字架に進んでいかれました。それは、私たちを罪の暗やみから救うためです。
 さて、私たちの心は、暗闇でしょうか。イエス様による光に照らされているでしょうか。

Ⅱ;暗闇のペテロ

 真夜中の裁判が行われている時、ペテロも暗闇の中にいました。真夜中という状態は、ペテロの心を現しているかのようです。
 弟子たちは、ゲッセマネの園でイエス様が捕えられたと時、イエス様を残して、蜘蛛の子を散らすようにして逃げてしまいました。しかしペテロは、ある程度距離をおいてから引き返してイエス様を追いかけます。ペテロは、イエス様の一番弟子という自負からでしょうか、やめておけばいいのに、大祭司の家に行くのです。とは言っても、ペテロは、あまり顔を見られないようにしていたことでしょう。しかしペテロの存在は、無視できないものでした。召使が近寄ってきて「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」と突然質問してきたのです。この不意の問いかけにペテロは、「何を言っているのか私にはわからない(マタイ26:70)」と答えます。ペテロは、最後の晩餐の席で、自分は絶対にイエス様を裏切ることはないと言い切りました。その数時間後の出来事です。ペテロは、イエス様を否定しました。一度言ってしまうとあとは、簡単です。彼の心は、闇の中に転げ落ちて行くように、イエス様を否定することを繰り返してしまうのです。

 その場を離れて門の入り口まで行きました。そこでもまた嫌疑がかけられました。するとペテロは、「そんな人は知らない(72)」と答えます。ペテロはすぐに大祭司の家を出てしまえばよかったのですが、彼はその場にい続けました。すると「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる(73)」と言われてしまいました。方言を指摘されたらごまかすことは出来ません。しかもペテロはイエス様の一番弟子で、いつもイエス様のすぐ側にいましたから、人目についたはずです。一気にまわりの人の目が、ペテロに集中されました。その時ペテロは、「嘘ならのろわれてもよいと誓い始め『そんな人は知らない』」と言ってしまいました。その時、鶏が鳴きました。
 今、この場所は、「鶏鳴教会」となっています。聖地旅行に行った時、確かに鶏鳴教会の周辺では、鶏が良く鳴いていました。エルサレムの町の中で鶏の声が聞こえたのは、その場所だけでした。しかも頻繁にあちこちで鳴いているのです。頻繁に鶏が鳴いていたらペテロもすぐに気づくだろうと思います。ペテロの時代は、そんなに頻繁には鳴かなかったのでしょうか。ともかく、この鶏の声を聞いた時、ペテロは、我に返り自分が何をしてしまったのかに気づくのです。そして外に出て激しく泣きました。

 ペテロは、暗闇に捕らえられ大失敗をしてしまいました。私は、イエス様の「真夜中に行われた裁判」を思いめぐらしていた時に、裁判にかかわる全ての人が、真夜中の様な暗闇の状態であったのだと気づかされました。ユダヤの最高法院は、旧約聖書の預言の言葉を知っていましたが、心が伴いませんでした。彼らは、信仰をもって神様を見上げることはなく、御言葉に従う事もありませんでした。
 ペテロは、どうでしょうか。ペテロは、イエス様の弟子としてイエス様の教を聞き、奇跡を目撃していました。そして彼は、イエス様を救い主キリストと信じていたでしょう。けれどもペテロは、自分の心の状態をよく知りませんでした。彼は、イエス様に従うという強い思いを持っていても、心は弱く、揺れ動き、惑わされやすいものであることに気づいてなかたのです。その証拠に彼は、イエス様の忠告を忘れ、人の目が気になり、イエス様を知らないと否定してしまったのです。
 では、皆さんの心は、何に向いているでしょうか。私たちもペテロと同じような弱さを持っています。私たちは、人の目を気にすることがあります。人の目が気になりだすと、際限なく誰にでも見られていると感じてしまいます。特に日本では、人と同じにすることが当たり前という考え方があります。ですから、私たちは、無意識のうちに周りに合わせてしまうのです。
 家族の中でクリスチャンは(教会に行っているのは)、自分だけという状況でしょうか。家族の中ならまだいいのですが、地域の中でクリスチャンは、自分だけということもあるでしょう。私たちの住んでいる地域では、伝統行事と言うのが行われます。そのほとんどは、お寺や神社とかかわりの深いものです。けれども地域の人は、その宗教的要素は知らず、地域の伝統だから皆が参加して当然と思っているのです。「たまにはいじゃないか」と言われることもあるかもしれません。私たちは、時々、自分の信仰が試される経験をします。私たちは、天地の創造主である本当の神様だけを礼拝します。ですから、偶像礼拝を避けるには本当に知恵が必要です。また自分がクリスチャンであることを伝えるもの勇気が必要かもしれません。ましてや、自分の信仰を周囲の人に証しすることは困難を覚えるかもしれません。
 ですが、私たちには、イエス様がおられます。私たちは、イエス様の光に照らしていただくことが出来るのです。

Ⅲ;暗闇に輝く救の光

 真夜中の裁判は、悪が支配するような場面ですが、そこにイエス様の光が差し込みます。
 ユダヤの最高法院は、夜が明けてすぐにイエス様を総督ピラトに訴えました。それは、イエス様を死刑(十字架刑)にする最終的な公の判決を出してもらうためです。私たちは、毎週使徒信条で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け・・・」と告白します。そのピラトです。当時ユダヤ人たちは、ローマの支配下に置かれ、その地域を治める総督が立てられていました。ピラトは、ローマ政府によってユダヤ州の総督として任命を受けていました。
 ピラトは、ユダヤ人指導者たちが妬みからイエス様を訴えていることを気づいていました。また、ピラトは、ユダヤ人たちが訴えているような罪は、イエス様にはないことも分かっていました。ピラトは、この裁判の中でなどもイエス様の無罪を主張しているのです。しかし、祭司長や長老たちは、群衆を扇動してイエス様を十字架にかけるように騒ぎ立てました。そしてその声が勝ちました。こうしてイエス様は、十字架へと進むのです。

 祭司長や律法学者たちは、闇に覆われてしまい、神様を否定し神様を無視するという罪に陥ってしまいました。しかしイエス様は、そのような彼らの罪をも背負って十字架にかかってくださったのです。イエス様は、私たちの罪を負い、私たちの罪の罰を身代わりに受けるために、黙って十字架に進んでいかれました。
 また、イエス様は、ペテロが暗闇に留まり続けることがないようにと手を指し伸ばしてくださっていたのです。最後の晩餐の席上、イエス様はペテロの3度の否定を予告しますが、イエス様はペテロのために祈ってくださったのです。「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかえることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい(ルカ22:31-32)。」イエス様は、ペテロの立ち直りを約束してくださって、そのために取り成していてくださったのです。ですからペテロが暗闇に支配され続ける事はありませんでした。

 今もイエス様は、私たちのために執り成していてくださるのです。「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしておられるのです。ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります(ヘブル7:25)。」
 私たちは、イエス様の光に照らされ、イエス様の救いを受け、イエス様の執り成しによって暗闇ではなく、光の中を歩むことが出来るのです。私たちは、罪という暗闇からイエス様の救いという光の中に移されます。私たちは、暗闇と思うような様々な事柄の中にあってもイエス様の光を受けて力強く歩むことが出来ます。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。祭司長たちは、気づかないうちに闇に覆われ神様を信じることがありませんでした。ペテロも闇の中でイエス様を否定してしまいました。私たちも罪と闇によって心が支配される事があります。しかしイエス様は、私たちの罪のために十字架に進んでくださり、救いの道を開き、闇を光にしてくださる事を感謝致します。イエス様が、今も執り成していてくださることを信じます。
 イエス様、私たちの心をご自身の光で照らしてくださり、悔い改めに導き、光の中を歩ませてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」