2021年4月4日(日)イースター礼拝(召天者記念礼拝)

ルカの福音書24章1-12節「復活されたイエス様」

<子どもたちへ>

 イースターおめでとうございます!!
 皆は、「もう待ちきれない」という思いを経験したことがありますか。とっても欲しかった物を注文してそれが届くまでの間「待ちきれない」という事がありますね。新しい服を買ってそれを着て出かけるという時も、その日が待ちきれないという事があるかもしれません。「待ちきれない」というのは、うれしい事だけではないかもしれませんね。僕は、高校生の時、足首の怪我をして手術を受けました。その日の夜は、麻酔が切れてとっても痛かったのを覚えています。夜の暗い中で痛みを堪えながら、「早く朝にならないかなぁ~。明るくなって病室の人たちが起きれば気がまぎれるかもしれない」と考えて朝が待ち遠しかったですね。
 イエス様の十字架の死と埋葬を見守っていた女性たちは、日曜日の朝が「待ちきれない」気持ちで、土曜日を過ごしていたことでしょう。イエス様が十字架にかけられたのは金曜日の昼間です。ユダヤ人たちの一日は日没から日没までなので、金曜日の昼間は一日目、金曜日の日没から二日目となります。そして土曜日の日没から三日目となるのです。女性たちは、金曜日の日没から始まる安息日を守り、日曜日の朝を待ちわびていたのです。今日は、この三日目の日曜日の朝に起こった、素晴らしい出来事を一緒に見ていきましょう。イエス様は、十字架で死なれました。しかしイエス様は、それで終わりではなかったのです。

 日曜日の朝、女性たちは、イエス様の埋葬されたお墓に行きました。どんなことを話しながら向かったのでしょうか。
「さあ、イエス様のお墓に行って、香油を塗りましょう。」「でもお墓には大きな石で蓋がしてあるのよね。どうやってそれをどかしたら良いかしら?」「私たちだけで大丈夫かしら・・・」女性たちは、こんなことを話しながらお墓に歩いていきました。
 ところが、お墓についてみると、お墓の入り口にあるはずの大きな石が脇に転がされていました。
「あーー!石が脇にどかしてあるわよ。」「誰がこんなことをしたのかしら」女性たちはびっくりして急いでお墓にかけより、中を覗きました。そしてさらにびっくり仰天です。「イエス様のお体がなくなってる!!!」お墓の中を見回してもイエス様のお体はどこにもないのです。

 するとそこに天の御使いが現れました。彼女たちは慌ててひれ伏しました。御使いは言います。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」御使いは、イエス様が十字架にかかる前にイエス様ご自身が言っていたことを思い出しなさいと言いました。女性たちは、びっくりしながらも喜んで弟子たちに報告しました。でも弟子たちは、なかなか信じられないでいたようです。しかし復活したイエス様は、弟子たちに姿を現して、確かに復活したことを証明してくださったのです。

 皆さん、イエス様は僕たちの罪のために十字架にかかってくださいました。聖書は、神様を無視し、否定して信じないということを罪だと教えています。その罪には神様の厳しい裁きがあります。けれどもイエス様は、僕たちが神様の裁きを受けることがないように、僕たちの罪を背負い代わりに十字架にかかって死んでくださいました。それだけではありません。イエス様は、僕たちの罪の赦しが確かであり、信じる全ての人に永遠の命が与えられることを証明するためによみがえられたのです。イエス様は、死を打ち破ってよみがえって、今も生きておられます。イエス様は、今も僕たちの罪を赦し、恵みを与え、復活の希望を与えてくださるのです。イエス様は、僕たちに素晴らしい「希望」を「恵み」を「祝福」を与えてくださいます。僕たちのために十字架にかかって死なれ、復活された救い主イエス様を信じて歩みましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様が、僕たちの罪のために十字架にかかってくださり心からありがとうございます。神様、僕たち、私たちの罪をお赦し下さい。
 イエス様は、死で終わりではなく、三日目によみがえって今も生きておられることを感謝します。僕たち、私たちの心を復活の希望に満たし、恵みを与えてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

<適用>

「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。
ここにはおられません。よみがえられたのです。」  ルカの福音書24章5-6節

 昨年は、イースターの直前で新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言が出され、集まってのイースター礼拝(召天者記念礼拝)を行うことが出来ませんでした。今年は、このようにイースター礼拝を行えることを主に感謝致します。
 さて、イースターは、毎年日程が変わります。日程の決め手になるのが、月の満ち欠けです。イースターは、「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」と決められています(325年ニカイヤ公会議)。今年は、春分の日の後の最初の満月が3月29日(火)でしたので、満月の次の日曜日である4月4日がイースターという訳です。
 私たちの救い主イエス様は、確かに十字架につけられ死なれました。そして確かに三日目によみがえられたのです。今日は、イエス様の復活を感謝するイースター礼拝、そして召天された信仰の方々を偲ぶ、「召天者記念礼拝」となっています。今日私たちは、復活されたイエス様を見上げつつ、イエス様によって与えられる永遠の命の希望を心に留め、聖書の御言葉に耳を傾けましょう。

Ⅰ;週の初めの日

 イエス様は、「週の初めの日」すなわち日曜日によみがえられました。新約聖書には、4つの福音書があり、4人の著者たちがそれぞれの目線で福音書を書いています。しかしその4人が共通して書いていることは、イエス様の十字架の死と埋葬に続いて、すぐに週の初めの日となっていることです。これはとても重要なことだと思います。と言うのは、私たちの罪の赦しは、イエス様の十字架の死と埋葬、そしてよみがえりで完成するからです。ここで、イエス様の埋葬について少し触れておきましょう。
 イエス様が十字架につけられたのは、金曜日の午前9時ごろです。ルカは、12時ごろから午後3時まで全地が暗くなったと語ります(ルカ23:44)。イエス様は、6時間と言う十字架の苦しみをお受けになり、息を引き取りました(同44-46)。イエス様が十字架にかけられたのは、金曜日のことです。金曜日は、備え日で、金曜日の夕方から安息日が始まります(同54)。だから、すぐにでもイエス様のからだを十字架から取り下ろすことが必要となりました。その時、名のりを上げたのが、議員の一人であるアリマタヤのヨセフでした。彼は、ピラトに直談判をして埋葬の許可を取り付けます。そして彼は、イエス様のからだを亜麻布で包み、まだ誰も葬ったことのない墓に埋葬しました(同50-53)。当時のお墓は、岩を掘って作るもので、入り口には大きな石を転がして蓋をします。

 この時、ガリラヤからイエス様に従って来た女性たちは、イエス様の埋葬を確認し、安息日を過ごします(同55-56)。女性たちは、イエス様の埋葬をしっかりとしたいと願い、イエス様の体に塗る香油を用意しました。安息日は、金曜の日没から土曜の日没までですから、安息日が終わってもすぐに夜になってしまうので墓に行くことは出来ません。彼女たちは、日曜日の朝まで待ち、明け方早く行動します。それはイエス様のお体に油を塗り、自分たちの手で葬りをするためです。
 こうして安息日が終わり、週の初めの日を迎えます。女性たちは、朝早くイエス様が葬られた墓に向かいました。実は、イエス様の埋葬にあたっては、ローマの番兵がつくという警戒態勢がとられていました。ですから女性たちは、簡単にイエス様のお墓に近づくことが出来ないのは分かっていました。けれども彼女たちは、イエス様のお墓に行かずにいられなかったのです。お墓に行って驚いたことに墓の石が脇に転がしてあったのです。マタイの福音書では、御使いが降りて来て石をどかした時に大きな地震があったとあります(マタイ28:2)。彼女たちは驚きながら墓の中を覗き込みました。なんとイエス様の体は、なかったのです。ヨハネは、イエス様のからだを巻いた亜麻布があり、頭の布も巻かれたままの状態で置かれていたと証言しています。イエス様の体はどこにもありませんでした。途方に暮れている彼女たちに対して御使いが、素晴らしい知らせを伝えました(今週の聖句)。イエス様はよみがえられたのです。イエス様は生きておられるので、死人の中にはいません。墓にはいないのです。

 日曜日の朝、イエス様はよみがえられました。しかもこの復活の出来事には、人の手が加わっていません。確かに、イエス様はお墓に葬られたのです。しかしあるはずのイエス様のからだが、そこにないのです。しかも体に巻かれた布や頭に巻かれた布は、巻かれたままの状態でした。この事実は、誰かがイエス様のからだを盗んだのではないこと、イエス様が復活のからだをもってよみがえり、生きておられることの証拠なのです。イエス様は、よみがえりました。そして今も生きておられるのです。ここに私たちの救いがあります。

Ⅱ;空っぽのお墓

 イエス様は、よみがえられました。イエス様は、三日目の朝、死を打ち破りよみがえられました。だから墓は、空っぽだったのです。パウロが言うように「キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示され(Ⅱテモテ1:10)」たのです。
 イエス様がよみがえった日、祭司長たちは墓の番をしていたローマ兵に賄賂を渡して、弟子たちがイエス様の体を盗んでいったという偽りの情報を流させました(マタイ28:11-15)。それゆえに、復活の事実が歪められ、今でもそのようにイエス様の復活を否定する人たちがいます。けれどももし復活が嘘なら弟子たちはともかく、その後の初代教会のクリスチャンたちは、何故迫害の中でもイエス様の救いを証しし続けたのでしょうか。復活が嘘なら、弟子たちには、宣教の力などなかったでしょう。そして福音は世界中に広がらなかったはずです。でも確かに、復活は起きました。確かにイエス様の葬られた墓は空っぽになったのです。この事実は、私たちに大きな希望を与えます。

 人は、どうして「死」を恐れるのでしょうか。人は、どうしてお墓に希望を見いだすことが出来ないのでしょうか。ある時、教会員の葬儀をして、納骨式をしていた時、召された方のご主人(未信者)が「あぁー真っ暗だな」と言われました。私は、その言葉に、死を前にした人間の無力さを感じました。私はすぐ、その方に、イエス様によって永遠のいのちが与えられる道があることを伝えました。人は、「死」の先に何も見いだすことが出来ないので、絶望を感じます。人は、「死」とは裁きであり、この裁きを誰も逃れることが出来ないことに気づいているのです。だから、死を恐れ、絶望に近い感情を持つのではないでしょうか。しかし、神様は、人は死で終わるのではないことを明確に教えています。それがイエス様の十字架と復活の事実です。
 もしイエス様が死んでそのままなら、私たちも死が最後であり、それ以上でもそれ以下でもないということになります。そこにどんな希望があるでしょうか。もし復活がなかったら、何の望みもなく、私たちは罪に捕らわれ、絶望と闇の中を生きることになるのです。 皆さん、「イエス様は、よみがえられました」。これは、何度言っても、言いすぎることはありません。イエス様は、私たちの罪のために神様の裁きを受け死なれました。もしそこで終わりなら、私たちも罪のために裁かれるだけで、永遠の滅びに向かうことになってしまいます。
 けれども神様は、イエス様の十字架の身代わりが完全であることを明らかにするために、イエス様をよみがえらせてくださったのです。イエス様は、私たちが義と認められるためによみがえられたのです。

 「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえれました。こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ4章25-5章1節)

 イースターは、この復活を感謝し喜ぶ時です。イエス様は、死で終わりではありませんでした。イエス様は、よみがえり、今も生きておられ、私たちの傍らにいて導いてくださるのです。
 こうして私たちは、天の御国、永遠の命の希望を与えられています。天に召された信仰者たちは、この希望をしっかりと抱いていたのです。そして今私たちは、イエス様の復活の希望によって、いずれ天の御国で再会できる希望が与えられています。あなたは、心のうちに、この復活の希望、永遠の命の希望を持っているでしょうか。復活されたイエス様は、私たちと共にいてすべてを導いてくださいます。私たちは、新しい希望に満ちたイエス様の力に満たされているのです。イエス様による救を信じましょう。

Ⅲ;完全な救い

 イエス様は、よみがえられました。それは、完全な救いを約束します。実は、イエス様が十字架で息を引き取られた時、神殿の幕が真ん中で二つに裂けました(ルカ23:45)。旧約の時代からユダヤたちは、罪が赦されるために、いけにえを捧げていました。人々は、直接神様の前に進み出ることが許されず、祭司が代わりにいけにえを捧げていました。そして祭司の中でも、「大祭司」だけが年に一度だけ、神殿の幕の内側に入り、イスラエル全体の救いのために儀式を行っていたのです。ですから大祭司は、毎年、イスラエルの民を代表して神様の前に出ていたのです。

 イエス様の十字架は、この神殿の幕を真っ二つにしたのです。どういうことでしょうか。それは、神様と私たち人間を分けていた幕がなくなったという事です。という事は、誰もが信仰によって神様の御前に進み出ることが出来るようになったという事です。私たちは、イエス様の十字架と復活による救を信じることによって完全に罪赦され、神様の前に出て、神様からの恵みを受けることが出来ると言う事なのです。
 イエス様は、死を打ち破り復活されました。イエス様は、死という暗闇を打ち砕き復活され、永遠の命という希望を明らかにしてくださいました。そしてイエス様は、神様と私たちとの間に平和を与えてくださり、私たちがいつでも神様の御前に近づけるようにしてくださいました。イエス様は、今も私たちを復活の力で満たしてくださり、暗闇を光に変え、困難の中でも希望を与えてくださるのです。

 皆さんは、このことを信じますか。イエス様の十字架と復活を心から信じていますか。神様は、信じる全ての人に救いを与え、復活の希望、天の御国への希望を与えてくださるのです。そして私たちは、神様に近づき、神様からの恵みをいただいて、生きることが出来るのです。
 私たちの救い主イエス様は、私たちの罪のために十字架に死なれ、私たちが罪赦され、永遠のいのちを受けるために三日目に復活されたのです。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美致します。イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかり、神様の裁きを受けてくださいました。それだけではなく、イエス様は、死を打ち破り三日目によみがえられました。神様この救いのみわざを心から感謝いたします。
 今私たちは、イエス様によって罪赦され、永遠のいのちの希望が与えられていることを信じます。死を打ち破り、暗闇を打ち砕かれたイエス様は、今も私たちと共にいて暗闇に光を与え、困難の中でも希望を与えてくださることを信じます。神様、天の御国を目指して信仰をもって歩み続けることが出来るように導いてください。
 2021年度がスタートしました。この一年も神様の祝福で満たしてください。一人一人の仕事、健康を守り、子供たちの学校生活を守ってください。新型コロナウイルス感染を終息させてください。感染している方々が癒され、医療従者が守られますようにとお願いいたします。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。」