2021年4月18日(日)礼拝説教 ルカの福音書24章36-53節 「復活の証人」

<子どもたちへ>

 皆は、とってもうれしいこと時やテレビや映画を見て心から感動した時など、どうしますか。多分、家に帰ってから家族に嬉しい事や感動したことなどを伝えるのではないでしょうか。それは、その感動を一緒に喜んでもらいたいからです。エマオに向かっていた二人の弟子たちは、せっかく移動して来た道を、急いでエルサレムに戻りました。それは、復活したイエス様に出会って一緒に歩いて話をしたという感動的な出来事を伝えるためでした。

 エルサレムで弟子たちが集まっている家に着いたら、そこはもう大騒ぎでした。この日の朝、「イエス様のからだがなくなった」という知らせを聞いた時は、みんな驚きつつも訳の分からない状態で騒いでいました。しかし夜には、「本当に主はよみがえった(34)」という喜びの気持ちで騒いでいるのです。その家では、皆が興奮しながら話をしています。そしてエマオに向かっていた二人の弟子たちも道中のこと、イエス様と話をしたこと、食事の席で目の前の人がイエス様だと分かったことを全部話しました。とっても興奮しながら話したでしょうね。

 するとそこに突然、イエス様が現れました。ヨハネの福音書を見ると、彼らのいた家の戸は閉じていて鍵がかかっていたのです。けれどもイエス様は、何の前触れもなく彼らの真ん中に立ったのです。「えーーーっ!!!」「わっ誰だ!!???」誰一人、最初イエス様だとは思わないで、「幽霊だーーーー」とびっくり仰天です。この時皆で、イエス様が復活したことや実際にイエス様に会ったことを興奮して話したのです。しかし実際にイエス様が姿を現すとそれを現実の事として受け止めることが出来ませんでした。予期していない出来事のために、弟子たちは信じられないのです。人って、あまりにもうれしすぎると目の前のことが信じられなくなるものです。思ってもみないものをもらうと嬉しいでしょう。ほっぺたをつねってみたりして、「痛いから本当だ」なんで言ったりします。弟子たちも目をこすって、ほっぺたをつねってイエス様をまじまじと見ます。
 イエス様は、少々呆れ気味に「どうしてそんなに疑うのですか」「幽霊なら体は持っていないしょ。」「何か食べ物はありますか」と言って弟子たちの目の前で焼き魚を召し上がりました。それからイエス様は、弟子たちの心を開いて、聖書からご自分に書いてあることを教えられました。イエス様は、神様が約束してくださった救い主で、イエス様の十字架は罪の赦しのために必要なことで、イエス様の復活は、救いと天の御国への希望を確かに約束するためのものなのです。その場にいた弟子たちは、イエス様を前にして本当にうれしくて、イエス様の教えて下さる一つ一つの事をしっかりと聞いて受入れていきました。

 こうして弟子たちは、イエス様の十字架と復活の証人と変えられて行くのです。弟子たちは、イエス様が罪の身代わりに十字架にかかってくださったことの証人となりました。弟子たちは、イエス様が死を打ち破って復活したことの証人となりました。そして弟子たちは、イエス様が今も生きておられる事の証人となりました。
 イエス様は、よみがえり今も生きておられます。そしていつも僕たちと一緒にいてくださるのです。今もイエス様は、僕たちの心を開いて御言葉を教えて導いてくださいます。

お祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、よみがえり、今も生きておられる事を感謝します。イエス様は、弟子たちに語られたように、今も語り掛けてくださること、聖書の御言葉を敎えて下さることを信じます。どうぞイエス様、力を与え、導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

<適用>

「神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。 使徒の働き3章15節 

引き続き御言葉に耳を傾けましょう。弟子たちは、どのようにして復活の証人として整えられて行ったのでしょうか。

Ⅰ;イエス様との再会(36-39)

 弟子たちは、イエス様の復活の証人と変えられました。その変化は、イエス様との再会によって始まりました。今日開いたルカ24章36節からの箇所は、ヨハネの福音書20章19節からと同じ時間帯の出来事を扱っていますので、そちらもあわせて読むとより理解が深まります。
 ルカ24章36節の「これらのことを話していると」というのは、エマオから帰ってきた二人の弟子がエルサレムの弟子たちの所に来て話をしている時という事です。エマオに向かっていた二人の弟子は、宿での食事の時に、一緒に旅をしていた人物がイエス様だと分かりました。彼らは、「心は内に燃えていたではないか(ルカ24:32)」という感動と喜びを胸に急いでエルサレムに戻りました。二人は、自分の経験したイエス様との出会いを興奮しながら話したのです。するとそこにイエス様が、突然姿を現されました。この家が、どこだったのかは、はっきりとしていませんが、恐らく最後の晩餐をした部屋だったのかもしれません。先ほど話したようにその家は、戸が閉められ鍵が掛けられていたのです。しかしイエス様は、そんなことに縛られることなく、突然現れたのです。恐らくその場にいた人たちは、目の前の人がイエス様だと分かったことでしょう。けれども一同、突然すぎることとうれしすぎて、驚きすぎて何が起きているのか事態を把握できないでいたのです。

 皆さんも嬉しいあまり事態を呑み込めないという事があるのではないでしょうか。私は、高校受験の時にそのような経験をしました。私は、中学3年の担任から「お前は、この高校には入れないから別の高校にしなさい」と言われていました。でも私は、それでもかまわないと思い、その高校を志望校としていました。毎月行われる模擬試験では、私の順位は定員外となっていました。直前の模擬試験でも私は、不合格となっていました。いよいよ入学試験の日、私は全滅だと実感しました。家に帰って私は、「高校に落ちたから、定時制への準備をするよ」と親に言ったのを覚えています。結果発表の日、どうせ落ちているからと思いつつ高校まで見に行きました。するとどうしたことか、合格者一覧に自分の番号があるのです。最初は、信じられず、何度も自分の持っている受験番号を見直しました。一緒にいた友達にも私の受験番号を確認してもらいました。あるはずのない自分の番号があるのですからびっくりです。何かの間違いではないかとずっと疑っていました。合格者は、入学のための資料をもらいます。私は、受付に行って「僕の番号があったのだけれども、何かの間違いでしょうか?」と思わず聞いてしまいました。私は、嬉しいのですが、信じられず家に帰っても「あれは間違いだったから」と高校から言われるのではないかと思っていました。けれども、中学校に合格の報告をしたら、担任がそれを否定しなかったので、本当だと思う事にしたのです。

弟子たちは、イエス様がここに現れるはずはないと考え、すぐには信じられず、挙句には「幽霊を見ている」と思うほどでした。イエス様は、釘打たれ穴の開いた手と足を見せてご自分の体を示されました。このイエス様との嬉しい再会は、弟子たちを力づけることとなりました。
 イエス様は、復活のからだをもってよみがえられたのです。そして生きておられるのです。イエス様は、「平安があなたがたにあるように」と言ってお姿を現されました。今もイエス様は、私たちに対して「平安があなたがたにあるように(シャローム)」と言って語りかけてくださるのです。このイエス様との出会いをいつも持たせていただきましょう。

Ⅱ;復活の確信(40-47)

 弟子たちが復活の証人となるために、イエス様はご自分の復活が確かであることを更に示されました。ペテロをはじめ弟子たちは、イエス様と3年も一緒に過ごして来ました。そして弟子たちは、イエス様を「先生」と呼び尊敬し、仕えたのです。その師を前にして「幽霊だぁ」とは失礼な話です。でも彼らは、本当にうれしくて信じられないでいたのです。そんな彼らの思いを知ってイエス様は、優しく接しておられます。
 まず、イエス様は、十字架に釘付けにされ穴の開いた手と足を見せました。ヨハネの福音書では、最後に槍で刺された脇腹も見せたとあります。イエス様の復活のからだは、私たちの罪のために十字架につけられ、私たちのために苦しまれた傷跡を残したものでした。彼らは、確かにイエス様の受けた傷であることを確認しました。それでも信じられない弟子たちでした。中には、最後まで(イエス様が昇天されるまで)信じない人もいたようです(マタイ28:17)。イエス様は、ご自分が確かによみがえり、体を持っていることを示すために、食事をなさいました。これは、肉体を持っていること、生きている事の否定しようのない証拠となりました。

 それだけではなくイエス様は、弟子たちの心を開いて、聖書全体の御言葉から救い主に関する預言を教えられました。実はイエス様は、復活当日の夜だけではなく、よみがえってからの40日間至る所で弟子たちにお姿を現され、教えられました。イエス様は、復活後の40日間常に姿を見せて弟子たちと過ごしたのではありません。イエス様は、姿を現して共に語り、そして見えなくなられるという繰り返しだったと思います。聖書では、イエス様との再会の代表的な場面が書かれています。しかしイエス様は、時々姿を現すことによって、ご自分がよみがえり、今も生きておられることを示されたのです。イエス様は、目に見える形で復活を示し、同時に聖書の御言葉からそれを論証しました。弟子たちは、イエス様によって心が整えられながら、復活の事実を受け入れ、そして聖書によってそれが語られていたことを知り、救いのみわざを理解し確信したのです。

 今、私たちは、イエス様を直接見る事はありません。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄に満ちた喜びに踊っています(Ⅰペテロ1:8)。」とペテロが言っている通りです。私たちは、イエス様を見てないはいないけれども信じています。それは、福音を通してイエス様の復活の事実を知ることが出来るからです。そして旧新約聖書全体を通してイエス様の十字架の死と三日目の復活による救いのみわざを知ることが出来るからです。なぜならば、イエス様は今も生きていて、聖書の御言葉を教えてくださるからです。私たちは、聖書の御言葉を通して生きて働いておられる父なる神様の愛と御子イエス様の救の恵みを確かに知ることが出来るのです。
 皆さんこれは、本当に素晴らしい事です。私は中学1年の時その事を体験しました。詳細は省きますがその時私は、本当に不安に押しつぶされそうになっていました。私は、どうする事もできない気持ちを落ち着かせるために、聖書を読むことにしました。私は、創世記から読み始めました。何を教えられたということは覚えていませんが、聖書通読を始めて私は、聖書を読んでいる事によって心が落ち着きを取り戻していることに気が付きました。何とも言えない不安が、何とも言えない平安に変わっていたのです。私は、その時初めて、神様が聖書の言葉を通して、語りかけ、平安を与え「大丈夫だよ」と言ってくださっている事を知りました。

 イエス様は、今も聖書の御言葉によって私たちに教えてくださり、イエス様が一緒にいてくださることに気づかせてくださいます。私たちは、イエス様の復活、今も生きておられるイエス様のみわざを確信する事が出来るように求め続けましょう。 

Ⅲ;復活の証人として(48-53)

 弟子たちは、復活の証人として力強く証しする者へと変えられました。それは、イエス様から与えられる聖霊の助けを受けてからのこととなりますが、弟子たちは、復活のイエス様との出会いによって変えられていったのです。

 イエス様は、聖書の御言葉を語りながら、弟子たちに「あなたがたは、これらのことの証人となります(48)」と言われました。弟子たちは、イエス様の十字架の目撃者となりました。そして弟子たちは、イエス様の葬られたお墓が空っぽになったということの目撃者となりました。また弟子たちは、復活のからだをもってよみがえったイエス様と出会い、イエス様が天に昇り今も生きておられることの目撃者となりました。だからこそ彼らは、そのことを力強く証しし続けたのです。イエス様も弟子たちに、福音の宣教をゆだねられました。けれどもイエス様は、弟子たちの力で頑張って証しをしなさいとは言いませんでした。イエス様は、「いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」と命じられました。これは、イエス様が聖霊を送るまでという事です。弟子たちが、力強くイエス様の十字架の救いを語り伝えるためには、聖霊なる神様による助けと導きが必要なのです。弟子たちが、聖霊に満たされるのは、イエス様が天に昇ってから10日後のペンテコステの日となります。それまで待たなくてはなりませんでしたが、すでに彼等は、イエス様の証人としての準備が出来ていたと思います。そのしるしは、弟子たちが、エルサレムに戻り神様を礼拝しているという姿にあります。弟子たちは、イエス様昇天後、イエス様を再び見る事はありませんでした。けれども彼は、大きな喜びに満たされていたのです。その喜びは、イエス様は私たちの罪のために十字架にかかってくださったこという救いのみわざへの感謝から来ています。そしてイエス様は、三日目によみがえって今も生きておられるという永遠のいのちの希望から来る喜びです。この様にして弟子たちは、復活の証人として整えられ用いられることとなりました。

 その結果、今に至るまで福音が宣べ伝えられ、私たちが信仰に導かれるという恵みを受けているのです。そしてこれからは、私たちが、復活の証人として福音を証しするのです。そのためにイエス様は、私たちと共にいて力を与えてくださり、聖霊様を通して私たちに福音の真理を教えてくださるのです。
 私たちも復活の証人です。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様が、今も『平安があなたがたにあるように』と声をかけ、語り掛けてくださることを感謝致します。私たちは、聖書の御言葉によって教えられ、気づかされ、平安と励ましを受けられることを感謝します。イエス様、私たちの心を開き教えてください。イエス様が今も生きていておられることを知ることが出来るように導いてください。
 イエス様が十字架で死に、三日目によみがえり今も生きていた救いを成就してくださったことを信じます。イエス様、私たちの心を聖霊で満たしてくださり、信仰を増し加え、福音を証しする者として用いてください。主を喜び、心から礼拝する者へと変えてください。
 新型コロナウイルスの感染が収まりません。変異ウイルスが猛威を振るっています。世界中を憐れんでくださって、感染が収まりますようにとお願い致します。この祈りを私たちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」