2021年5月9日(日)礼拝説教 出エジプト記12章1-14節 「主への過越」

<子どもたちへ> 

 少しだけ、モーセのお話をおさらいしましょう。まず赤ちゃんの時です。モーセはエジプトで生まれたヘブル人(=イスラエル人)でした。でも、王様の命令で仕方なくナイル川に捨てられたのを、王女様に助けられて王子になりました。
 次に40歳の時です。同胞ヘブル人をいじめるエジプト人を殺して追われる身となり、ミデヤンに逃げました。イテロという人に助けられ、羊飼いとしてそこで暮らすことになります。
 そして80歳の時。燃える柴の中から神様がモーセに現れて、「エジプトから私の民を連れ出せ。」と言われました。モーセはみことばに従い、エジプトの王ファラオに神様の命令を伝えに行きました。

 さあ、ここからが今日のお話です。モーセはファラオに言いました。「イスラエルの神様は、私の民を解放してエジプトから出て行かせよと言われます。」するとファラオは怖い顔で言いました。「なんだと?奴隷を解放しろだと?だめだ、だめだ!そんなことをして誰がかわりに働くというのだ。それに私はお前たちの神など知らないぞ!」。そう言ってモーセたちを追い払い、ますますイスラエルの人たちを苦しめました。モーセはあきらめずに何度もファラオのところに行き、「神様に従わないと災いが起こりますよ。」と警告しました。実際、9つもの災害が起こったと聖書には書いてあります。カエル、あぶ、イナゴなどの大群、太陽が暗くなったりナイル川の水が血に変わったり。ヒョウ(先週礼拝中にふりましたね)が降ったりもしました。それでもファラオは神様のことばに従いません。それで、神様はいよいよ最後の10番目の災いを下すことにされました。神様は言われました。「私は真夜中にエジプトを行き巡る。すると人も動物もすべての初子はみな死ぬ。」

 モーセはイスラエル人たちに言いました。「子羊をとって夕方にほふり、その血を家の二本の門柱とかもいに塗りなさい。神様が初子を打たれるが、家に血の塗ってある家は過ぎ越される。その家にわざわいは起こらない。」そこでイスラエル人たちは命じられたように行いました。
 神様が警告された日の夜中のことです。エジプトの国中で悲鳴があがり、泣き叫ぶ声がしました。お城のファラオのところも同様です。初子が死んでしまったのです。ファラオはモーセを呼び出して言いました。「おまえもイスラエル人もエジプトから出て行け!家畜を連れて行ってもよい、神を礼拝してもよい…ただし、私のために祝福を祈ってくれ…」。イスラエルの人たちはせきたてられる様にして荷物をまとめ、大急ぎでエジプトを脱出しました。大人の男の人だけで60万人もいたそうです。この時は、イスラエル民族がエジプトに来てちょうど430年目だったと聖書に書かれています。

 皆さん、今日のお話は実はイエス様の十字架に繋がっています。イエス様は「神の子羊」と言われるお方ですが、この過越しの時の子羊に例えられているのです。そしてこれは、イエス様が十字架で流された血潮は私の救いのためだ、と信じることに繋がります。イスラエル人のところを滅びの災いが過越したように、イエス様を信じる人は救われて天国に入ることが出来ます。そうでなければ罪人である私たちは、みな滅びると言われているのです。大切なのは神様が用意して下さった救いを受け取ることです。長く教会に通っているのにこの救いを受け取っていないとしたら、あまりにも残念です。今の時代は、イエス様の十字架への信仰だけが、私たちに示された救いの道です。信じて救いの恵みを受け取らせて頂ましょう。

<祈り>
神様、子羊なるイエス様の血しおが十字架で流され、私たちに救いの道が備えられたことを感謝します。この救いをうけとり、救い主イエス様を心から信じ受け入れたいです。私の信仰を導いて下さい。御名によって祈ります。アーメン。

<適用>

「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」  Ⅰヨハネ1章7節

 先日テレビで、日本人としての「常識」と言われる事柄を知っているかどうかを試すという内容の番組をしていました。私が見たと時間帯では、大先輩に対して失礼な事をしてしまった後、その方の自宅に謝罪に行く時の常識が試されていました。玄関に入った時から畳の部屋に通されて、相手が来るまでどのように待つか、畳の部屋ではどのように歩くかなど、いくつかのポイントがありました。その中で相手への気持ちを表わすための手土産をどのように渡すのか、そのタイミングと方法などいろいろあるようです。
 私たちが、神様に赦されるためには、何が必要なのでしょうか?

Ⅰ;過越しの制定

 出エジプトに際して、イスラエルの民が神様の裁きから救われるためには、子羊の血が必要でした。神様は、エジプトの動物から人間に至るまでの初子を打つと言われました。このことがどうして神様の裁きなのかと言うと、動物が打たれるというのは、エジプト人が礼拝していた神々が打たれるという事で、偶像への裁きとなりました。人間の初子と言うのは、ファラオを始め神様に背を向け、心を頑なにする人々への裁きとなります。この最後のわざわい(裁き)は、イスラエル人とエジプト人とでは区別がありました。
 実は、エジプトへの災いのうち4つ目の災いからエジプト人の地域に下るわざわいが、イスラエル人の住んでいる地域では起きることがなかったのです。最後のわざわいである過越しについても区別がされました。しかし自動的に区別されたわけではありませんでした。神様の下すわざわいから救われるためには、一つの条件がありました。その条件とは、出エジプト12章にあるように、過越しのいけにえを捧げるとうものです。

 イスラエル人は、家族ごとに集まり、傷や病気のない1歳の雄の子羊をほふります。そしてその血を家の門柱と鴨居に塗るのです。さらには、その晩「種を入れないパンと苦菜」と一緒に羊の肉を食べるのです。パン種(イースト菌)を入れないとか、パン種を取り除くというのは、心から罪を取り除くという意味を含んでいます。苦菜は、エジプトでの苦役を忘れないという意味があるでしょうか。
 その晩、羊の肉と種なしパンと苦菜を食べるのですが、神様は、「急いで食べ」なさいと言われました。それは、いつでもエジプトを脱出できるようにするためでした。
 真夜中ころ、神様は、エジプトを行き巡り、血の塗られていない家の初子(人から家畜に至るまで)を打たれました。その晩エジプト中に叫びが起り、ファラオはモーセを呼び寄せ、急いでイスラエル人たちを連れ出せと命じました。こうしてイスラエル人は、その晩に急いでエジプトを脱出するのです。

この一連の流れの中で神様は、この過越しを永遠の祭りとして守るようにと定められました。それは、この過越しがイスラエルの救いとなったからです。羊の血が門柱と鴨居に塗られている家は、主が過越し、最後のわざわいから守られ、救われたのです。
 ここで大切なことは、神様がモーセを通して命じたことを信じ、裁きから救われるために犠牲となる雄羊の血に信頼して、その血を門柱と鴨居に塗ることでした。イスラエルの民は、神様の救いのみわざを信じ、感謝をもって過越しの出来事を記念して礼拝をしていきます。こうして「過越しの祭り」が制定されました。

Ⅱ;信仰の継承(親から子へ)

 この過越しの祭りは、イスラエルの中では信仰継承に大切なものとなりました。
 神様は、エジプトの人や家畜に至る全ての初子を打つと言われました。けれどもイスラエルの民は、子羊の血によって救われ守られました。こうしてイスラエル人は、急き立てられるようにしてエジプトを脱出するのです。
 神様は、このことを記念して、1歳の雄の子羊をほふり、パン種を入れないパンと苦菜を食べるという過越しの祭りを制定しました。そしてさらに神様は、初子を聖別するようにともお命じになりました。家畜の初子は主にささげ、男子の初子は贖うのです。それは、神様がエジプトでなさった大いなるみわざを忘れず記念し、主を礼拝し感謝をするためです。この命令は、約束の地に入って定住するようになってから必ず守るようにと戒められています。

 この祭りは、イスラエルの中で信仰継承を実践するためにも必要な事でした。各家庭で過越しの食事をする時、子どもたちの代表が、どうしてこのようなことをするのかと質問します。大人たちは、はっきりとその意味を答えることが求められました。「あなたがたの子どもたちが、『この儀式には、どういう意味があるのですか。』と尋ねるとき、あなたがたはこう答えなさい。『それは主の過越のいけにえだ。主がエジプトを打たれたとき、主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越し、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」(出エジプト12:26-27)。子どもたちの質問に対して、親は、過越しのいけにえの血によって救われたこと、そして主なる神様が力強い御手によってイスラエルをエジプトから救い出してくださった偉大さを覚え、神様を信じるようにと促すのです。
 私たちも信仰の歩みの中で神様のしてくださったことへの感謝を忘れないようにしましょう。そして私たちの信仰が次の世代に受け継がれることを切に祈り求めましょう。

 今日は、母の日と父の日をひとまとめにして「両親への感謝」を覚える時としています。私たちは、両親を与えてくださった神様に感謝をささげましょう。また私たちを育ててくださった、親に感謝をしていきましょう。今子育て中の方々もいるでしょう。すでに子どもが大人になっている方もいることでしょう。私たちは、親としていつまで子どもに対してかかわるのでしょうか。私は、親と言うのは、いつになっても子どもに影響を与えることが出来ると考えています。私は、50歳になりましたが、親に対してはいつまでも子どものままです。私は自分の親を見ていて、「親と言うのは子どもが40歳になろうと50歳になろうと心配で、気に掛けるものなのだなぁ」と感じています。そして、子どもはいつでも親を見て多くを学ぶことが出来るものです。ですから子どもが大人になったとしても、親の信仰を伝えることが出来るのです。親である皆さん、いつでも自分の子どもに信仰を証しするチャンスがあることを心に留めておきましょう。子どもである皆さん、親への感謝を忘れず、その思いを伝え表わしていきましょう。そのようにして、各家庭が信仰継承の場となることを切に願います。また教会が、信仰を次の世代に確実に継承できるようにと神様の助けを祈りましょう。

Ⅲ;キリストの犠牲

 最後に「主への過越」は、キリストの犠牲へとつながっていることを見る事にしましょう。
 出エジプト12章以降、イスラエル人は、過越しの祭りを守りました。イスラエルの民が、エジプトの地で最後のわざわいから救われるための条件を振り返りましょう。それは、一歳の雄の子羊を屠り、その血を二本の門柱を鴨居に塗ることでした。この時の雄羊の血は「主への過越(11)」だと言われています。神様は、子羊の血の塗られていた家を過ぎ越されました。

 そして神様が、私たちの罪を過ぎ越すために必要だったのが、イエス様の十字架の血潮です。神様は、私たちを(人類を)罪から救うために、御子イエス様をこの世に遣わされました。イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかり血を流し神様の裁きを受けてくださいました。イエス様の流された血によって、私たちの罪は赦されるのです。イスラエルの民が雄羊の血に信頼して、門柱と鴨居に塗り助かったように、人類の罪を贖うイエス様の十字架の血潮に信頼し、信仰によってその救いを受ける時、私たちは罪赦され、救いを受けることが出来るのです。

 最初に「私たちの罪が赦されるためには、何が必要なのでしょうか。」と質問しました。私たちに必要な事は、私たちのためにいのちを捧げてくだったイエス様の十字架を信じることです。イエス様こそ、私たちの罪が赦されるための「主への過越」なのです。まさに、「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめて」くださるのです(Ⅰヨハネ1:7)。
 神様は、イエス様の十字架の贖いの故にあなたの罪を過ぎ越してくださいます。救い主イエス様を信じて、この救いを受けましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。今日も主によって守られ、支えられる恵みを感謝致します。
 エジプトの地でイスラエルの民は、主への過越によって救われました。私たちも主への過越である御子イエス様の十字架の血潮によって罪赦される恵みを感謝致します。
 神様、私たちがこの救いの恵みを多くの人たちに伝えることが出来るように導いてください。また、それぞれの家庭の中にあって、信仰が継承されていけるように導いてください。教会を通して、福音が大胆に語られ、主なる神様への信仰が次の世代に受け継がれていくように祝福を注いでください。
 私たちの救い主、イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。」