2021年5月16日(日)礼拝説教 出エジプト記14章15-25節 「主の救いを見る」

<子どもたちへ>

 モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエル人たちはどうなったでしょうか。今日はその続きをお話します。
 イスラエルの人たちは、神様に導かれてエジプトから遠ざかっていました。でも町もない荒野を進むので大変です。そこで神様は特別な方法で、一緒にいて下さるのが目に見えるようにしてくださいました。昼は雲の柱の中が前を行きます。夜になると火の柱が前を行きます。こうして神様は彼らを守り導いて下さいました。

 さて、エジプトの国は何だか静かになってしまいました。国の人口の半分はイスラエル人だったのに、みんな出ていしまったからです。王様は言いました。「何という事だ。イスラエル人がいなくなっては誰が我々のために働くのだ。さあ、おいかけて連れ戻そう!」王様は家来たちと一緒に戦車に乗って、イスラエル人の後を追いました。
 しばらくして海辺まで来ていたイスラエルの人たちが目をあげると、なんとエジプト人が追いついて来ています!「うわあ!!どうしよう、エジプト人が追いかけてきたぞ!きっと無理やり連れ戻されるか、殺されるかだ!モーセさん、どうしたらいいんですか?」するとモーセは言いました。「恐れてはいけない。主があなたがたのために戦って、助けてくださるのです。」

 目の前は海、後ろからはエジプト軍。絶対絶命とはこういうことを言うのでしょう。逃げ場はどこにもありません。でもモーセは天に向かってお祈りしました。そして目の前の海に向かって手を差し伸ばしました。するとどうでしょう。強い東風がふいてきて、海が分かれ始めたのです。水は右と左に分かれて立ち、壁のように見えたそうです。「さあ、神様が助けて下さるぞ!みんな渡るんだ!」海の真ん中も乾いています。神様の奇跡です。イスラエル人たちは無事に向こう岸に渡り切ることが出来ました。
 それを見たファラオは言いました。「我らも行くぞ!」うおー!と雄たけびをあげながら、エジプト軍が海に入っていきます。しかしここからが違いました。神様が介入なさったのです。エジプトの戦車は車輪が外れてしまいました。兵士たちは怖くなって「きっとイスラエルの神が戦っているんだ。逃げた方がいいぞ!」
 モーセが再び海の上に手を伸ばすと、今度はなんと、海が元通りになって水がエジプト軍を巻き込んでしまいました。こうして神様はイスラエルをエジプトの手から救い出してくださったのです。

 みなさん、今日のお話のイスラエルの人たちは、神様の導きでエジプトを出たにも関わらず、絶対絶命のピンチに会いましたね。私たちには、神様に導かれたはずなのにどうして…?と悩む時があるのです。前を見ても後ろを見ても困難ばかり、どうしていいかわからない時、どうしたらいいのでしょうか。そんな時は、目を天に向けて神様にお祈りするのです。私たちには思いもよらぬ方法で、神様は私たちを助け守って下さるお方です。神様がなして下さることに期待して、祈りをささげて行きましょう。

<祈り>
神様、私たちを助け守ろうとして下さることを感謝します。あなたの導きの中でも困難に苦しむときがあります。そのような時に今日のみことばを思い出させて下さい。祈りを導いて下さるようお願い致します。御名によって祈ります。アーメン。

<適用>

モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。・・・。主があなた方のために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」                     出エジプト記14章13-14節

 ずっと前になりますが、私は、川で鯉釣りをしている人を観察したことがあります。鯉を釣るためには、長い釣り竿に餌をつけて、糸をたらします。あとはひたすら鯉がかかるのを待つのです。餌が水に溶けだして鯉がその餌を食べにくるというのです。釣り人は、じっと待ちます。けれどもなかなか釣り上げることが出来ませんでした。近くで鯉が水面にジャンプするのを見る事が出来るのですが、なぜか釣り糸には引っかからないのです。それでも釣り人は、余計な事をせず、人間の気配を消すようにじっと待っていました。なんとなく人生の奥深さを垣間見たような気がしました。
 さて、モーセは、イスラエルの民をエジプトから導き出すことが出来ました。その脱出は、劇的なものとなりました。

Ⅰ;主の臨在(出エジプト13:17-22)

 私たちは、「主の救いを見る」ことが出来ます。なぜならば、神様の臨在は常に私たちと共にあるからです。
 イスラエルの民は、モーセに率いられてエジプトを脱出することが出来ました。神様はこの時、約束の地カナン、現在のパレスチナにイスラエルの民を導くのに、最適な道を示しませんでした。エジプトからパレスチナに行くためには、地中海に沿って北上するのが一番の近道です。しかし、神様はその道ではなく、荒野の道にイスラエルを進ませました。それは、すでにその地域にペリシテ人が定住していて地中海沿岸を占領していたからです。北上するという事は、エジプトと隣接するペリシテの国境を通過するという事です。という事は、とても厳しく国境警備がなされていたと推測できます。エジプト側にはエジプトの防衛線があり、ペリシテ側にはペリシテの防衛線があり、厳重に警備されていたことでしょう。そこを通るとなると、イスラエルの民は、戦をしながら道を進むしかないのです。そうなったら、イスラエルの民は戦いの備えなどありませんから、力を失いエジプトに引き返すことになるでしょう。神様は、そのことを知っていて、遠回りの道であってもイスラエルの民が比較的安全に進むことが出来る荒野の道へと導くのです。

 この時から、神様の臨在がイスラエルの民の中に明かにされました。男性だけでも60万もの人が荒野の道を移動するためには、最後尾にも分かるように目印が必要です。神様は、それを昼は雲の柱、夜は火の柱によって示してくださいました。モーセが民の先頭を進んだでしょうが、神様ご自身が、そのモーセの前に立って、イスラエルの進むべき道を示してくださったのです。この神様の臨在は、約束の地にイスラエルの民が入るまで、離れることはありませんでした。

 イスラエルの民を確かに導いておられた神様は、私たちの歩みのただ中にもおられます。イエス様は、助け主である聖霊なる神様が私たちと共にいると約束して下さました。聖霊なる神様は、父なる神様の御心を私たちに示し、私たちが御言葉に従って歩めるようにと私たちと共におられます。神様は、インマヌエルなるお方です。インマヌエルとは、「神が私たちとともにおられる(マタイ1:23)」という意味です。神様は、私たちから決して離れることなく、私たちの人生の進む道を確かに示してくださるのです。私たちはこのことを心に留め、信仰を持って歩んでいきましょう。

Ⅱ;静まって主を待つ

 私たちは、「主の救いを見る」ことが出来ます。そのために必要な事は、静まって主を待つということです。
 神様は、イスラエルの民を荒野の道に導いていかれました。それが比較的安全な道だと思われました。しかし神様は、モーセに方向を変えて海辺に面したところで宿営しなさいと命じました。この海辺と言うのは、紅海(葦の海)のことです。エジプトのファラオをはじめ家臣たちは、イスラエル人が出て行ってしまったことで後悔しました。初子が打たれるという大きな痛手を経験したはずですが、エジプト人たちは、60万人もの国の労働力である奴隷を失い、経済的には大打撃です。ファラオは、エジプトの全軍を率いてイスラエルを追いかけました。エジプト軍は、徒歩で移動するイスラエルの後を容易に追いかけ追いつくことが出来ました。それを見たイスラエルの民の驚きを想像することが出来るでしょうか。

 モーセは、神様の導きに従って民を導き、紅海(葦の海)の岸に宿営します。この時モーセは、神様からエジプト軍が押し寄せてくること、エジプトの全軍を通して栄光を現すという神様の言葉を聞いていました(出エジ14:3-4)。モーセは、イスラエルの長老たちにもこのことを伝えたと思います。けれども彼らは、エジプト軍がすぐ側まで押し迫ってきた時に、モーセに対して文句を言い始めました(14:11-12)。エジプトを脱出できた時、彼らは心の底から喜び、感激の涙を流しながら意気揚々を行進したのではないでしょうか。神様が雲の柱、火の柱によって導いてくれることを見て、本当に心強いと感じたのではないでしょうか。けれども、イスラエルの民は、迫りくるエジプト軍の土ぼこりを見た時、思いもよらない状況に直面した時、神様への信頼や感謝は一気に覚めてしまったのです。そして慌てふためき、モーセに対して「どうしてこんなことをしたのか?エジプトから出たいなんて言ったか?」と騒ぎ立てました。これに対してモーセは、「恐れてはいけない。しっかり立って、今日、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい(13)。」とはっきりと告げました。

 私たちは、思いもよらない出来事に直面した時、大体二つの応答をするのではないでしょうか。一つは、イスラエルの民のような応答です。彼らは、エジプト軍を見て恐れ神様に叫びました。そしてその叫びは、指導者として立てられたモーセへの不満として爆発しました。彼らは、「どうしてエジプトから連れ出したのか、エジプトにいたほうが良かったと」言うのです。イスラエルの民は、苦役の中で神様に叫び求めたのです。神様が、自分たちの祈りに答えてくださり、モーセを遣わしてくださったこと知ったはずです。また、彼らは、神様がエジプトに対して数々の奇跡を行ったことを経験しました。そして何より、彼らは、神様の導きによってエジプトを脱出したという素晴らしい奇跡の中にいるのです。けれどもイスラエルの民は、神様がどれほど素晴らしいことをしてくださったのかをすっかり忘れ、神様の愛のわざを否定したのです。これがイスラエルの民の応答でした。
 もう一つの応答の仕方は、モーセの姿に表れています。モーセは、イスラエルの民同様に紅海とエジプト軍に挟まれたのです。しかもモーセ自身も神様がどのように救ってくださるのかを理解はしていなかったと思うのです。けれどもモーセは、神様が「ファラオとその全軍勢によって栄光を現す(14:4)」と言われていたことを信じていたのです。それだけではなく、モーセは、神様が数々の奇跡を通してご自身の力を示してくださったこと、神様がイスラエルの民を愛し守り、約束の地へ導いてくださることを信じて信頼していたのです。だから背水の陣で打つ手がない状態でもモーセは、13節のように言うことが出来たのです。モーセは、エジプトからイスラエルを脱出させてくださった神様は、今度も助けてくださると信じていたのです。モーセは、神様から眼を離さず、神様の力を信頼し、静かに主を待つことが出来ました。

 私たちは、どちらのタイプでしょうか。中学生たちは、先週中間テストがあったようですね。私は、中学生の時、テストをする教師に対してイスラエルのような態度を取っていました。テストの理由が分からず、何でこんなことをするのか、テストなんてなくなればよいのにと不満を持っていたのです。ですから真剣にテスト勉強するわけがありません。私は、今でこそ、テストがあっても騒ぎ立てず、静かに教科書を読み返し勉強すれば良かったと思います。このことは小さなことですが、私たちは、逆境だと感じる時、八方塞の状況になったと思う時、神様につぶやいてしまうでしょうか。このつぶやきは、過去の神様の恵みを忘れ、神様の愛を否定するようことになってしまいます。それとも私たちは、「あの時神様は、励まし助けてくださった。今度も神様は導いてくださる」と神様の愛、神様の助けと導きを信じる信仰に立つことが出来るでしょうか。神様は、私たちと共にいてくださいます。私たちは、どんな時でも静まって主を待つことが出来るのです。

Ⅲ;主なる神様を知る

 私たちは、「主の救いを見る」ことが出来ます。そのことを通して私たちは、主なる神様の御力を知ることになります。
 神様は、不平不満爆発のイスラエルの民を忍耐の限りを尽くして導かれました。モーセは、神様に信頼しつつ、イスラエルの民の不平不満を聞いて、神様に訴えたと思います。神様は、モーセに「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶのか」と言われました。これは、モーセの心も冷静さを失いかけていたという事ではないでしょうか。それも仕方のない事です。モーセ1人で60万人以上の群れを連れ出さなくてはいけないし、前は海、後ろはエジプト軍という状況です。どう考えても逃げ道はないのです。

 その時神様は、モーセに杖を海の上に伸ばしなさいと言われました。すると目の前の海の水は、左右に分かれ乾いた地面が出て来たのです。神様は「イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を行くことができる(16)」と言われました。実際にモーセが杖を海の上に伸ばすと紅海の水が左右に分かれて壁の様になったのです。そしてイスラエルの民は、海の真ん中の乾いた地面を歩いて渡りました。普通に考えると、水が分かれて水がなくなってもそこに現れるのは、水を含んだ泥や滑りやすい石でしょう。けれどもこの時紅海の底は、人が急いで渡れる状態になったのです。
 神様は、イスラエルの民が歩いて海を渡れるようにご自身の臨在を示す雲をしんがりとされました。雲は暗闇となり、エジプト軍からイスラエルの民を隠します。こうしてイスラエルの民は、紅海の海の底の乾いた道を進んでいくことが出来ました(19-22)。こんなことは、後にも先にも起きたことがありません。エジプト軍も後を追って同じことをしようとしましたが、もう一度モーセが杖を伸ばすと左右の水が勢いよく元に戻りエジプト軍は水に飲み込まれてしまったのです。こうしてイスラエルの民は、神様の大きな、大きな奇跡で救われ、神様を信じ、モーセを信じたのです。

 神様は、人の考えをはるかに越えた奇跡でイスラエル人を救い出しました。それは、エジプトが主なる神様を知るためでした。そしてそれは、イスラエルの民も主なる神様を知るためでした。イスラエルの民は、「主がエジプトに行われたこと、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた(31)」と言われています。
 今でも神様は、信じて従う私たちを確かな御手で支え、守り導かれるのです。私たちには道がないように思える時にも、神様は道を用意しておられるのです。モーセは、イスラエルの民に「主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。(14)」と言っていました。この告白は、今でも真実です。私たちは、人生という道の途中で様々な事を経験します。時には、それは茨と思える道、試練と思える道もあります。私たちは、それを自力で何とか切り抜けようとするのではなく、私たちと共にいて戦い道を切り開いてくださる神様を見上げることが出来るのです。「黙って主を待つ」と言うのは、私たちが何もしなくてもよいという事ではありません。私たちは、心を静めて主を待ち、黙って主のなさることを待つのです。この様に私たちは、神様のみわざを信じ、神様の導きを信頼して、私たちのなすべきことをするのです。そうすることで、私たちは、主なる神様の偉大さを更に知ることが出来ます。

 私たちは、「主の救いを見る」ことが出来ます。神様は、いつも変わらず私たちと共にいてくださいます。神様の臨在は、私たちの歩みに溢れています。私たちは、「主の救いを見る」ことが出来ます。静まって主のしてくださることを待ち望みましょう。私たちは、「主の救いを見る」ことが出来ます。神様を信じゆだねて信仰の一歩を踏み出しましょう。その時、私たちは、神様の偉大さを更に知り主の栄光の中を歩むことが出来ます。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。
 神様は、イスラエルの民を大いなる御力によって守り救い出してくださいました。今も神様は、私たちと共にいてくださり、大いなる御力で導いてくださることをありがとうございます。心を静めて主を待ち望み、神様のなさることにしっかりと目を向けることが出来るように私たちの信仰を強めてください。
 神様、私たちは「主の救いを見る」と告白できる幸を感謝致します。また私たちは、「主が私たちのために戦われる」と宣言して人生を歩んでいける恵みをありがとうございます。神様、私たちの信仰の一歩一歩を守ってください。新型コロナウイルスの感染がまだまだ続いていますが、このような時代にあっても主なる神様が私たちと共におられ、私たちの人生を共に歩み助け導いてくださることを信じます。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈ります。アーメン。」