2021年5月23日(日)礼拝説教 使徒の働き19章1-7節 「聖霊を受ける恵み」

<子どもたちへ>

  皆さん、今日はある特別な日ですが、何だかわかりますか?春に受難節、イースターがありましたが…そこから約50日、今日はペンテコステの日です。聖霊降臨日とも言います。昨年のペンテコステは緊急事態宣言のさなかで、皆さんと共にペンテコステの礼拝をすることは出来なかったように思います。1年たってまだまだコロナ禍の中ではありますけれど、こうして集まって一緒にペンテコステを祝うことが出来て感謝です。まずは、ペンテコステってどんな日なのか、一緒に学んでいきましょう。

 イエス様がよみがえったイースターから40日がたちました。イエス様はその間、使徒たちに何度も現れて色々なことを教えてくださいました。しかし、40日目の日、こうおっしゃいました。「エルサレムを離れないで、わたしの父の約束を待ちなさい。もうまもなく聖霊さまが来られます。」そう言われるとイエス様は、弟子たちが見ている前で天に昇って行かれ、雲に包まれて見えなくなりました。
 それから更に10日が過ぎ、ペンテコステの日になりました。ペテロを中心に、弟子たちはエルサレムで一緒に集まりお祈りをして過ごしていました。すると突然、激しい風が吹くような音がしました。ビューっ、ゴーっ!と、とても大きい音で、家全体に響きわたりました。何だろう?皆が驚いていると、今度はあら不思議!そこにいるみんなの上に、炎のような分かれた舌が現れて、一人ひとりの上にとどまったと言うのです。「おい、きみ。それは何だ?」「あなたこそ、何かついているわよ。」なんて話しあったかもしれませんね。誰が見てもわかる不思議な印が現れたのです。これは、聖霊が降られたことの印だったのです。

 さらに不思議なことは続きます。そこにいるみんなが、色々な国のことばで話し始めたのです。皆さんは何か国語知っていますか?おはよう、グッドモーニング、ニーハオ。グーテンモルゲン、あいさつだけでも何十種類ものことばがあります。この時聖霊を受けた人たちは、十数種類もの国のことばを話し出したといいます。物音に驚いて集まって来た人たちは、地中海沿岸の各国から来ていましたが、自分たちの言葉で話すのを聞いて、驚いたんですね。
 でも、大事なのは話した内容です。彼らは習ったこともないことばで、「神の大きなみわざ」を語ったというのです。つまり、神のひとり子イエス様が、罪人の身代わりになって十字架で死に、罪をあがなって下さったことです。その3日目によみがえられたイエス様を信じることで罪ゆるされ、永遠のいのちを頂くことが出来る、という大きなみわざのことです。

 これらの出来事は何を意味しているでしょう。一番目は、イエス様を信じる者は聖霊を受けるのだ、ということです。聖霊によらずにイエスは主であると言うことは出来ない、と聖書で言われています。信じていること自体が、聖霊様のお働きの印です。もう一つは、聖霊を受けることで私たちは力を受け、イエス様の救いの恵みを伝えることが出来る、ということです。今日のみことばを読みましょう。自力で人生を進めても限界があります。聖霊さまの力が必要なのです。ここで「力」と訳されていることばは「ダイナマイト」の語源になったことばです。ダイナマイトには、爆発的な普通ではない力がありますね。聖霊さまがお持ちのこうした力を、私たちにも注いでいただきましょう。そしてクリスチャンとしての歩みが力強くなりますように。またお友達や周りの人にもその恵みを伝えていけますように。

<祈り>神様。ペンテコステの日に聖霊が降られたのは、私たちに力を下さるためであることを感謝します。私たちに聖霊様を満たして下さい。そしてその力を私たちの信仰生活に与えて下さるよう、お願い致します。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

<適用>

「しかし、聖霊があなたがたの上に望とき、あなたがたは力を受けます。」     使徒の働き1章8節前半

 さて、先ほどは言わば初代教会の誕生日としての、ペンテコステの聖霊降臨を見てきました。しかし使徒の働きを読んで行きますと、何度も同じような形で聖霊が降られたことが記されています。例えば10章ではカイザリヤの百人隊長コルネリウスらが聖霊を受けました。今日の箇所である19章でもエペソの信者たちが、ペンテコステと同じように聖霊を受けたとあります。使徒2章とは別の角度から、聖霊降臨の恵みを学ばせて頂きましょう。

Ⅰ;聖霊さまを正しく知る

 18章24節ではアポロと言う人はエジプトの文化都市アレキサンドリア生まれのユダヤ人とあります。彼は雄弁で教養があり、同時にユダヤ人として聖書に通じていました。エペソに来てクリスチャンになると熱心に福音宣教を始めました。彼はイエス様のことを正確に語ることが出来ましたので、信者も起こされました。
 しかし、問題がありました。それはアポロが「ヨハネのバプテスマしか知らなかった」という問題です。これは聖霊については十分理解していなかったということでした。そこで、アポロの説教の欠けに気付いたアキラとプリスキラという信徒夫妻が、彼に正確な教えを伝えたとあります。正しい教えを守り受け継ぐ、というのは教会全体に与えられた大切な使命です。このおかげでアポロの知識は修正され、彼は以後ますます用いられたようです。しかしながら、不正確な説教の影響は、エペソの信者たちの内に色濃くに残ってしまっていました。それが今日の箇所です。

 19章1節を見ると、エペソに来たパウロは、アポロが導いたと思われる信者と出会った時、違和感を覚えました。そこで「信じた時、聖霊を受けましたか」と尋ねると、驚くような答えが返って来たのです。2節「いいえ、聖霊がおられるかどうか、聞いたこともありません。」新改訳聖書第3版では「聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と訳していますので、聖霊の存在は知っているように読めました。翻訳した方も「まさか聖霊の存在すら知らない信徒がいるなんてありえないだろう」と考えて、別訳を選択したのかなと思ったりします。しかしこの箇所の直訳は紛れもなく「聖霊のあることを聞いたことさえありませんでした」なのです!
 そんな彼らでしたが、パウロによって正しく教えられ、イエスキリストの御名によるバプテスマを受けた時、ペンテコステの日と同様に聖霊が降られました。

 皆さん、イエスキリストの福音が語られる教会にあって、聖霊の存在もまた教えられ信じられなければなりません。福音伝道教団でも、小川教会でも、聖霊の存在は語られてきたと信じます。しかし私は今朝、改めて宣言するよう導きを感じています。「聖霊は確かにおられる」ということを、です。このお方は単なる力などではありません。神であり、私たちの内に住んで語りかけ、導いて下さるお方です。イエス様を信じた時、聖霊は私たちに降って下さいました。ですから私たちの信仰生活とは、このお方と共に歩む生活であるということを、改めて覚えたいと思います。

Ⅱ;聖霊によるバプテスマ

 次に「聖霊によるバプテスマ」について学んで行きたいと思います。
 3節を見ると、エペソの弟子たちは「ヨハネのバプテスマ」を受けた、と言っています。ヨハネというのは、バプテスマのヨハネのことです。彼はイエス様が働きを始める前の道ぞなえを役割として、「悔い改めのバプテスマ」を授けた人です。福音書によれば、エルサレムやユダヤ全土から人が集まり、「自分の罪を告白して」バプテスマを受けていたと言います。ヨハネは、来るべき救い主を受け入れるのに欠かせない、「真摯な悔い改め」を説いたのでした。
 けれどもヨハネは、次のように語っていました。マルコの福音書1章8節にはこうあります。「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」イエス様ご自身も言われました。「ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです」(使徒1章5節)。

 私たちの団体ではバプテスマを洗礼と呼んでいます。父と子と聖霊の御名によってバプテスマが施されます。このとき欠かせないのは水です。それは「水によるヨハネのバプテスマ」と何が違うのでしょうか?それは、イエスキリストへの信仰告白が必須であり、信じる時に聖霊が注がれるという点です。バプテスマを受けるとき、人は受け身で水を注がれます。丁度そのように、神により聖霊が注がれる、というのです。ですから聖霊が注がれることを「聖霊のバプテスマ」と呼ぶのでしょう。

 この聖霊によるバプテスマは目には見えません。それゆえに神様は、初代教会での聖霊降臨を、異言や預言と言った不思議な様子でお示しになったのでしょう。今の時代は必ずしもそのような出来事を伴いません。むしろ人知れず聖霊のみわざは行われていると言えるでしょう。聖霊と訳されるギリシャ語プニューマは、風と訳すことも出来ます。イエス様もヨハネの福音書3章で、聖霊のお働きを風にたとえて説明されました。風は目には見えず、どこから来てどこへ行くか知らない。しかし木の葉がそよぎ、物が動かされ、確かに風が通ったことがわかる。聖霊も同じように、そのお働きの結果を静かに残して行かれます。それは、人に真実な悔い改めとイエス様への信仰を持たせる、という結果です。私たちのうちに悔い改めと信仰があるなら、そこに確かに聖霊が働かれたのです。
 神は分け隔てなく、信じる者に聖霊を注いで下さいました。ユダヤ人だけでなく異邦人にも、預言者や使徒だけでなく名もなき信徒にも、神様は惜しむことなく聖霊を注がれました。自らの内に悔い改めと主イエスへの信仰が確かに宿っているなら、あなたも確かに聖霊のバプテスマを受けています。確信を持ち神様に感謝いたしましょう。

Ⅲ;聖霊に満たされる

 最後に聖霊様とどのように歩むのかを学んで終わりたいと思います。それは、「聖霊に満たされる」ということです。
 エペソ5章18節にはこう勧められています。「酒に酔ってはいけません。…御霊に満たされなさい。」酒に酔い支配される状況と、聖霊に満たされるということが対比されています。人は、聖霊に満たされて神と共に歩むかわりに、酒など代用品をもって心を満たそうとします。酒は一時的には心を明るくしますが、放蕩や失敗を招きます。しかし聖霊は喜びと賛美を与えて下さり、それは命ある限り絶えることがありません。お酒が入らないと人と打ち解けられない、歌なんて歌えない、という人は沢山います。しかし聖霊に満たされると感謝と賛美が生まれ、人との関係にも秩序が与えられます。聖霊に満たされた歩みは、クリスチャン生活の成熟のために大切なポイントです。 

 では満たされる、とはどういうことでしょう。怒りに満たされるとか喜びに満たされる、という言い方があります。その感情が支配的になって、他の思いが入り込む余地がない、ということです。聖霊に満たされるとは、聖霊が他によって妨げられることなく、支配なさるという意味です。自分が神のものであることを認め、自分自身の人生の主権を聖霊に明け渡すことです。具体的には自分の人生にみことばをあてはめ、祈りのうちにそれに従って歩むということです。

 「聖霊に満たされなさい」とは、ギリシャ語から直訳すると「満たされ続けなさい」「繰り返し満たされなさい」となるそうです。私たちは、時に聖霊を悲しませることがあります。自我の方が強くなって、聖霊から支配権を奪ったままのこともあります。そんな私たちだからこそ、繰り返し聖霊に満たされることが必要です。だからこそ、一瞬で終わりでなく生涯にわたって、聖霊に満たされ続ける必要があります。今の自分自身はいかがでしょうか。聖霊の細き御声に耳をすましてみましょう。明け渡すべき心の王座を、聖霊にお返ししようではありませんか。その時私たちは、本当の意味での力を頂くことが出来ます。

<祈り>
 神様。ペンテコステを記念する礼拝にお導き下さり、ありがとうございます。私たちに聖霊が降られて、神様につく人生へと変えて下さったことを感謝いたします。みことばのご命令の通り、聖霊様に満たされる歩みを私たちは求めます。けれども肉の思いは聖霊に明け渡すことに抵抗いたします。どうぞ私をきよめ、助けてくださって、聖霊に満たして下さい。そしてあなたへの感謝と賛美、人との平和と秩序に溢れる成熟した信仰生活へとお導き下さい。そしてまわりの方々に福音を届ける者となれますよう、お導き下さい。主イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。