2021年6月6日(日)礼拝説教 民数記13章17-30節 「信仰の目を持つ」

<子どもたちへ>

 皆さんは、「だまし絵」というのを知っていますか。色んな種類がありますが、見る人、見るポイントによって、同じ絵が2通りの違う物に見える、というものです。その人の気になるポイントや考え方が、どう見えるかに影響するみたいです。
 聖書のお話の中にも、同じものを見たのにまったく違う見え方、評価になってしまった話があります。だまし絵なら「ああ面白かった」で済みますが、それが人生や民族の歴史に関わるような問題になると大変です。今日は、物事の見方が分かれてしまったことで、イスラエルの運命が大きく変わってしまったお話です。

 イスラエルの人たちがエジプトを脱出して、約1年が経ちました。その間、シナイ山で十戒を受けたり、天から降る不思議な食べ物マナを受けたりと、色々なことがありました。そしてようやく、神様が下さるというカナンの地の手前にやってきました。そこでモーセは、神様から言われてスパイを送ってカナンの土地を偵察させることにしました。親戚の集まりごとに12の部族がありましたので、それぞれ1人ずつ合計12人の代表が行くことになりました。
 「カレブ」「はい!」「シャムア」「はい!」「ヨシュア」「はい!」呼ばれた人が返事をします。モーセは言いました。「カナンに行って、どんな町か、どんな人たちが住んでいるか、どんな作物がとれるか調べてきなさい。果物を持ち帰りなさい。」
 出発した人たちは、あちこち見て回りました。大きなぶどうがなっているのを見つけると、枝ごと1房切り取って棒にくくりつけました。あんまり大きくて重いので2人でかつぐほどです。すごいですね。ザクロやいちじくももって帰りました。

 「ただいま帰りました!」40日間偵察して、12人はモーセとイスラエルの人たちに報告を始めました。「カナンは神様の言われた通り素晴らしい地です。こんなに見事な果物が実っていました。」良い報告を聞いてみんな喜びました。けれどもその内10人の人たちは顔を曇らせて言いました。「ただしそこの住民はとても強そうです。町には城壁があって簡単には入れません。私たちにはとても征服できそうにありません。」みんなはがっかりしました。
 その時偵察隊の一人カレブが言いました。「いいえ、大丈夫ですよ。是非カナンに入っていきましょう!」でも10人は「無理ですよ。かないませんよ。」と言ったので、人々は泣き出しました。「エジプトに帰った方がいいんじゃないか。ここで死ぬのは嫌だよ」。さっきのカレブともう一人、ヨシュアだけはみんなを静めて「神様がついているのだから、怖がってはいけない。私たちは必ず勝てる」と言いました。神様はそれをじっと聞いておられました。そしてカレブとヨシュアの信仰を喜ばれましたが、イスラエルの人たちにはがっかりなさいました。神様はお怒りになって「彼らをみんな滅ぼす」と言われたのです。
 でもモーセが、一生懸命「彼らの罪をゆるしてください。」とお祈りしたので、神様はゆるしてくれました。ですがこうおっしゃいました。「今いる大人たちは、カナンの地に入ることは出来ない。40年間荒野をさまよって大人が死に絶えた後、子どもの世代だけがそこに入れる。しかしカレブとヨシュアは私に従い通したので、そこに入ることが出来る。カナンの地を悪く言いふらした10人は死なければならない。」もう目の前に来ている土地に、あと40年も入れないと言うのです。何という悲しい事態になったのでしょう。

 さて、偵察隊12人は同じ土地を見たのに、なぜ意見が分かれたのでしょうか。それは物事を見る目が違ったのです。カレブとヨシュアは信仰の目を通して物事を見ました。だから、どんなに困難に思えても神様がその土地を与えて下さると信じられたのです。他の10人はと言うと、自分たちに力が足りないことと困難な状況だけを見て、敵に負けると判断したのです。
 今日のお話から学べるのは何でしょうか。「自分には絶対に無理だ」と思う状況の時、不信仰になって嘆いたり逃げ出したりせず、神様の恵みを思い出すことです。神様がみことばでどう語って下さるのかに注意して、神様に信頼していきましょう。

 <祈り>
 神様。私たちの物事の味方をどうぞ整えてください。神様が一緒にいて下さり守って下さることを、思い出せますように。そして信仰を働かせて行動していけるように、お守りください。御名によってお祈り致します。アーメン。

<適応>

申命記1章30節
「あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主があなたがたのために戦われる。エジプトで、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったのと同じように。」

 先週の礼拝では、神様から与えられた十戒について学びました。子どもたちへのメッセージの中で私は、前半の4つの戒めと話しましたが、第4戒については触れなかったようです。第4の戒めは、「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」でした。今日も子どもたちと一緒に神様を礼拝できることを感謝します。
 私が小学生の時には、運動会と言えば秋開催でしたが、最近では5月に開催する地域が増えているようです。私が運動会で一番記憶に残って種目は、「騎馬戦」です。コロナ過にあって騎馬戦は、なかなか出来ないかもしれません。私が小学生や中学生の時は、帽子を取り合うのではなく、騎馬を倒し合うという少々激しいものでした。特に中学生の時の騎馬戦は全学年男子合同のプログラムで、皆本気で戦っていたような気がします。練習の時から本気モードだったので怖いくらいでした。練習の時、私は、騎馬を組んでいる仲間と話し合い、周囲を良く見回し、誰の騎馬が強いか、強そうな騎馬がどこを狙っているのかを調べました。そして運動会当日、騎馬戦で最後まで残るためにはどう戦ったら良いか計画を立てるのです。その作戦とは、「強い騎馬の後ろに隠れる」とか「弱そうな騎馬を狙う」など様々でした。そして作戦通りに勝ち残れると嬉しかったのを覚えています。
 さて、イスラエルの民は、エジプトを脱出してから約1年かけて約束の地カナンの近くにやって来ました。エジプトからパレスチナ地方(カナン)までの道のりは、普通ならば1年もかからないのです。しかし神様は、イスラエルの民を1年かけてゆっくり導きました。それは、荒野で律法を与え、幕屋などの備品を作るために時間が必要だったからではないかと思います。こうして2年目になってようやく、約束の地カナンを目前に出来たわけです。その時神様は、モーセに偵察隊を遣わすように言われました。そして12の各部族から代表者が選ばれ、12人の偵察隊が結成されました。この中のカレブとヨシュアはこの後、重要な人物となります。

Ⅰ;直面する物事を理解するために

 私たちは、直面する物事を理解するために、信仰の目を持ちしっかりと事態を把握しましょう。モーセは偵察隊に細かく指示を与えました(17-20)。偵察隊は、南のツィンの荒野から、ヘブロンに入り、北上しながらカナンの地全域を行き巡って調査をし、作物を持ち帰りました。ぶどうを二人で運ぶとありますが、その他の作物など収穫の実が沢山あることを示しているのでしょう。こうして彼らは、40日間カナンの地を隅々まで行き巡り調査をしてイスラエルの民の所に帰ってきました。人々は首を長くして待っていたことでしょう。偵察隊は、見てきたことをそのまま報告しました。偵察隊は、約束の地カナンの現状をしっかりと把握することが出来ました。

 カナンの地は、作物が豊富に収穫できる素晴らしい地域で、「乳と蜜が流れている」と表現できるほど素晴らしい土地でした。しかし、大きな問題がありました。そこに住んでいる民は、力強く、町は城壁で囲まれ、非常に大きいものでした。またそこには、体格の大きいアナクの子孫がいるし、その他、多くの先住民がいたのです。簡単には、攻め込むことが出来ないと思われる状態だったのです。12人の偵察隊は、直面する問題を把握することが出来ましたが、それに対する反応は二つに分かれました。

 私たちの人生には、様々な問題が発生します。その時、まずその事実を把握することは大切なことです。そしてさらに大切な事は、信仰の目を持っているかどうかです。なぜなら、信仰の目を持っているかどうかが、次の段階に大きな影響を与えるからです。

Ⅱ;不信仰に陥らないため

 私たちは、不信仰に陥らないために、信仰の目を持って神様を見上げましょう。
 約束の地カナンを偵察した12人のうち10人は、偵察の結果について残念な反応を示しました。そしてその反応は、イスラエル全体に影響を与えてしまいました。10人は、カナンの地の偵察報告に加えて「あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い(31)」と主張するのです。さらに、神様の祝福を意味する「乳と蜜の流れる地」という発言を否定するかのように、「私たちが行き巡って偵察した地は、そこに住む者を食い尽くす地で、そこで見た民はみな、背の高い者たちだ。・・・私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう(32-33)」と言いふらすのです。「バッタのように見えた」というのは、自分たちの弱さを大げさに表現したものです。偵察隊のうち10人は、「無理だ。神様がいても無理だ」と不信仰になりました。その結果、イスラエルの民もその思いに支配されてしまいました。そしてイスラエルの民は、モーセとアロンに対してつぶやき、「主は何故こんなことをするのか」と騒ぎたて、主が立てた指導者を否定し、新しい指導者を立ててエジプトに帰ろうと言い出すのです。イスラエルの民は、何か問題が発生するとすぐに、過去に逃避してエジプトに帰ろうと言い出すのです。彼らは、すぐに神様を疑い、神様を否定してしまうのです。そのような態度は、自分の考えの中に神様をしまい込み、神様でも無理という不信仰な態度です。

 しかし、偵察隊のうちのヨシュアとカレブは、騒然とする民を静めて必ずカナンの地を占領することが出来ると報告します。そして「ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。・・・。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない(14:9)」と言い続けました。この二人の反応は、信仰による反応です。人々が騒ぎたち不信仰になっている時に、二人は主が約束の地を下さるという信仰に立っていました。二人は、主の御心にかない、主に背かずに従うならば、カナンの地を占領できると信じ切っていたのです。彼らは、主が自分たちとともにおられると信仰を持って民を説得します。けれども民は聞く耳を持たず、目の前の問題に心奪われ、ヨシュアとカレブを石打にしようとするのです。この結果、イスラエルの民は、約束の地を目の前にして40年間荒野を旅する事となりました(民数記14:34)。

Ⅲ;共におられる神様を知るため

 私たちは、共におられる神様を知るために、信仰の目を持って主を見上げましょう。
 偵察隊の10人とヨシュアとカレブの2人の違いは、どこにあったのでしょうか。それは、「主が共におられる」ことを信じているか、いないかという事ではないでしょうか。偵察隊の10人は、多くの問題がある事を知って自分達には無理、神様にも無理と判断したのです。そして過去を美化して過去に戻ろうとするのです。イスラエルの民は、何か問題があると「エジプトは良かった」と振り返ります。しかしエジプトでの生活は、本当に良かったのでしょうか。決してそんなことはなく、イスラエルの民は、エジプトの苦役の中で神様の助けを叫び求めたのです。彼らは、その時の苦しみや嘆きを忘れて、今、共におられる神様を否定したのです。

 ヨシュアとカレブは、自分たちをエジプトから救い出してくださった神様の御力を常に信頼していました。二人は、あの時神様が自分たちを助け導いてくださった。今もそしてこれからも神様は、力強い御腕で自分たちを導き助け守ってくださると信じていたのです。
 私たちは、直面する様々な事柄の中でどのような反応をするでしょうか。「問題を乗り越えることは出来ない。」、「神様は何をしているのか。」、「神様がいるなら何でこんなことになるのか。、と祈ることを忘れ、不信仰になってひたすらつぶやくでしょうか。
 それとも信仰を持って、主が共におられるからこの問題を乗り越えることができる。そのために神様を信じて、御心を求め従おうと祈りの心を持つでしょうか。神様は、皆さんの人生の中で多くの助けを与え、祝福を与え、導いておられたはずです。それを思い返すことが出来るのではないでしょうか。

 私は、人生は螺旋階段を上るように進んでいくものだと思っています。螺旋階段は、階段の位置は変わらず、ぐるぐる回りながら登っていきます。ですから階段から見る景色は、同じようなものなのです。螺旋階段を1階から2階に上っていくと、1階で見た景色を含めて2階からより遠くを眺めることが出来ます。私たちが経験する事柄は同じような事、似ているような問題など人生の景色はそれほど変わらないかもしれません。しかし人生の螺旋階段は、確実に1階から2階に上っているのです。私たちの人生の中で起こる同じような事柄でも1階から2階へ進んでいるのです。そして私たちは、以前に神様が導いてくださった主の力を含めて、神様の導きを見る事が出来るのです。
 もし何か問題に直面する時、私たちはこれまでの神様の導きを思い返しましょう。あの時助け導いてくださった神様は、今も助け導いてくださるのです。なぜなら神様は、昔も今もそしてこれからも変わることなく、私たちに御手を伸ばしてくださるからです。
 信仰の目を持って主を見上げて歩みましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様、私たちが信仰の目を持って、いつでも主を見上げることが出来るように導いてください。神様は、昔も今もそしてこれからも変わらずに私たちと共にいてくださることを感謝致します。私たちは、その事を忘れず信仰を持って主なる神様を信じ歩みます。
 神様、新型コロナウイルス感染拡大をとどめてくださり、終息させてください。医療従事者を守り、一人一人に平安を与えてください。そして全ての病院が、必要な治療をすることが出来るように導いてください。日本に、世界に神様の恵みが溢れますようにとお願い致します。この祈りを私たちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」