2021年6月13日(日)礼拝説教 ヨシュア記1章1-11節「強くあれ、雄々しくあれ」

<子どもたちへ>

 皆は、普段どんなアニメを見ていますか?僕は、最近「ドラゴンボール」がまだ放送されていることに驚きました。また、機動戦士ガンダムの人気もまだまだ続いていることにもびっくりしました。僕が小中学生の時に見ていたアニメです。良いアニメは、いつの時代でも受けつがれていくということでしょうかね。

 イスラエルの民は、神様の約束が受けつがれて、その信仰も次の世代に受け継がれていきました。神様は、モーセをリーダーにしてイスラエルの民をエジプトから導き出しました。それは、神様がアブラハムに約束した地であるカナンに導くためです。しかしイスラエルの民は、約束の地を目前にして不信仰になってしまい、40年間も荒野を旅しながら生きていくこととなってしまいました。この40年の間で、エジプトを脱出した時大人だった人たちは死んでしまいました。モーセも死んでしまいました。
 こうしてイスラエルの民は世代が変わっていくのです。けれども神様の約束は次の世代に受け継がれていきました。モーセの後、新しい指導者となったのは、40年前に偵察隊の一員だったヨシュアでした。偉大な指導者であるモーセの後にイスラエルの民を導くのは、とても大変な事だと思います。ヨシュアは、大きな不安に包まれていたのではないでしょうか。そんなヨシュアに対して神様は、「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない」と声をかけて励ましてくれました。ヨシュアには、これから多くの困難が待ち構えています。だから神様は、「強くあれ、雄々しくあれ」と励ましてくださったのです。そして「あなたとともにいる」と約束もしてくださいました。神様は、「モーセと一緒にいてくださったように、ヨシュアとも一緒にいるよ」と言ってくださったのです。ヨシュアは、本当にうれしかったでしょうね。同じように神様は、僕たちと一緒にいてくださいます。

 このように励まされて、いよいよヨシュアは、イスラエルの民を連れてヨルダン川を渡ります。でもこの時は、雪解け水が川に流れ込む時期で水が多く、ヨルダン川の川幅が広がり簡単に渡ることが出来ない状態でした。さてどうしたら良いでしょうか。神様は、ヨシュアに一つの方法を教えてくださいました。それは、祭司が、十戒の書かれた石の板の入った契約の箱を担いで先に川に入るということでした。箱を担ぐ祭司の足が川の水に入ったその時、川の水が上流で堰き止められて民は乾いた所を渡ることが出来るのです。さてどうなったでしょうか。聖書には「箱を担ぐ者たちがヨルダン川まで来たとき、ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸も水があふれていた。ところが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると、川上から流れ下る水が立ち止まった。・・・。イスラエル全体は乾いたところを渡り、ついに民全員がヨルダン川を渡り終えた。(ヨシュア記3章15-17節)」と書かれています。

 以前にも似たようなことがありましたね。覚えていますか?
 そう、モーセがリーダーとなってイスラエルの民がエジプトから脱出した時のことです。イスラエルの民は目の前は紅海、後ろはエジプト軍という絶対絶命の状況になりました。その時、モーセが杖を海の上に指し伸ばすと海の水が二つに分かれ、イスラエルの民は乾いた地を渡ることが出来たのです。神様は、ヨシュアの時もご自身の力あるみわざを示し、奇跡を行い川の水を堰き止めてくださったのです。
 神様は、今も「強くあれ、雄々しくあれ」と語り掛けてくださいます。そして主なる神様は、モーセと共にまたヨシュアと共に一緒にいると約束してくださったように、今も僕たちと一緒にいると約束してくださっています。神様を信じて、神様に導いていただいて歩んでいきましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。今も神様は「強くあれ、雄々しくあれ」と励ましてくださることを感謝します。またいつでも共にいるという約束をありがとうございます。神様、僕たちの毎日の生活を守り導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

<適 用>

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れはならない。おののいではならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」                      ヨシュア記1章9節

 今日の聖書箇所のヨシュア記1章6節や9節は、私にとって記念すべき御言葉です。私の名前は、この箇所から取られたからです。私の「勇二」と言う名前は、「雄々しくあれ」の「雄」から取られています。本来なら聖書の通り「雄二」とするところでしょうが、それは恐れ多いという事で「勇二」にしたと父から聞いています。「強くあれ。雄々しくあれ。恐れはならない。」とありますから、恐れ多いと言わず、「雄」の字を使ったらよかったのにと思いますが、「勇気」の湧き上がるような御言葉ですから、「勇二」も良いなと思います。
 ヨシュアに「強くあれ、雄々しくあれ」と語った神様は、今も私たちに「強くあれ、雄々しくあれ」と語りかけ励まし、力を与えてくださいます。

Ⅰ;主は共におられる

 神様は、「強くあれ、雄々しくあれ」と語りかけてくださいます。それだけではなく、「共にいる」と約束をしてくださいました。この時のヨシュアは、どのような心境になっていたと想像することが出来るでしょうか。
 ヨシュアは、若い頃から偉大な指導者モーセの側について仕えていた人物です(出エジ24:13)。ヨシュアは、モーセが祈りつつ、苦労してイスラエルの民を導いている様子を見ていました。成人男性だけでも60万人と言われていますから、女性と子どもを含めると100万人以上になる一群です。その他に多くの家畜がいるわけですから、リーダーはどれほど大変なことでしょうか。ヨシュアは、この大変な役目をモーセに代わってしなければなりません。しかも約束の地に入るためには、先住民族との戦いは避けられません。民の指導者としてヨシュアには、軍事面でも力が求められることとなります。さらには、神様が与えると約束している土地は、今のパレスチナの南部から北部のレバノンに至り、東はユーフラテス川まで、西は地中海までという想像を超える広範囲です。これを全て占領できたのはダビデとソロモンの時代ですが、ヨシュアの心には、言いようもない不安と恐れが渦巻いていたことでしょう。

 神様は、そのようなヨシュアに対して「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてならない。」と語りかけてくださったのです。そして神様は、励ましに加えて「わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(5)」と約束を与えてくださったのです。なんと素晴らしい約束ではないでしょうか。ヨシュアは、モーセを通して主ご自身の力あるわざが行われるのを見ていました。それは、主なる神様が、モーセとともにおられた証拠です。同じことが今ヨシュアに語られているのです。モーセとともにいた神様がヨシュアと共にいると約束してくださるという事は、神様は、ヨシュアを通してご自身の力あるわざを行ってくださるという約束でもあるのです。これほど力強い言葉はありません。

 皆さん、イエス様は「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます(マタイ28:20)」と約束してくださいました。今も神様は、私たち一人ひとりと共にいてくださるのです。私たちが困難と思える状況に直面する時、言いようもない不安を感じる時、どうしようかと迷い悩む時、神様は「強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない」と語りかけてくださり、「わたしはあなたと共にいる」と約束をしてくださるのです。

Ⅱ;主の教えを離れない

 神様は、「強くあれ、雄々しくあれ」と語りかけてくださいます。私たちは、この様に語りかけてくださる神様の教えから右にも左にも離れないで歩んでいくことが大切です。
 ヨシュアは、約束の地を占領するという大事業を目の前に恐れを抱いていたので、「強くあれ、雄々しくあれ」と励まされる必要がありました。しかし実は、もう一つの面でも励ましが必要だったのです。それは、神様の御言葉に従うという事柄です。ヨシュアにとって、神様の教えを守ることの不安要素とは何でしょうか。それは、イスラエルの民の信仰が揺れ動きやすいという不安です。イスラエルの民は、何かと言うとモーセに対して不平を言い、神様につぶやいて不信仰になっていました。そんなことが何度となく繰り返されてきたのです。これからは、イスラエルの民の不平不満やつぶやきは、ヨシュアに向けられるのです。するとヨシュア自身も葛藤を覚え、神様を信じ信頼することが揺らぐ可能性があるのです。またヨシュアは、モーセを通して与えられた命令をイスラエルの民の中に浸透させることが出来なくなる可能性があるのです。だから神様は、「強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。(7)」と励まして下さっているのです。そしてこの励ましにも神様の素晴らしい約束があります。その約束とは、「あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである(7)」と言うものです。8節ではもう少し具体的に「おしえの書を口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ」とあります。「口ずさむ」と訳されているヘブル語には「思い巡らす」という意味があります。これらの意味する事は、神様の教えを口ずさみ、思い巡らすことによって、その教えの意味を知り、実行することが出来るようになるという事です。そしてさらには、神様の教えに従うことが、神様の栄光を現すこととなり、神様の祝福の中を歩むことになるということです。
 詩篇でも同じことが言われています。詩篇1篇です。「幸いな事よ 悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず あざける者の座に着かない人。主の教えを喜びとし 昼も夜も その教えを口ずさむ人。その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。(1-3)」

 私たちは、ヨシュアと同じように神様の御言葉に従う事において「強くあれ、雄々しくあれ」と励ましを必要としているのではないでしょうか。私たちは、聖書の教えから、かけ離れた価値観の中で生きています。主なる神様を信じて聖書の教えに従って生きる事が、肩身の狭いことと感じ、周囲との違いに心くじけてしまうことがあるかもしれません。私たちは、家庭の中で、地域の中で、職場の中でも信仰の戦いをしています。サタンは、私たちの心から御言葉を取り除き、私たちの心から神様への信仰をなくそうと誘惑してきます。私たちは、そのような中で、心が揺れ動き、聖書の御言葉に心を開くことが出来ず、主の道から右に左にそれてしまうことがあります。神様は、私たちに対して「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。」と語り、力づけてくださるのです。私たちは、自分の力で信仰の戦いをするのではありません。「強くあれ。雄々しくあれ」と言ってくださる神様の力によって御言葉に従う力が与えられるのです。

Ⅲ;主に従って一歩(ヨシュア記3章)

 神様は、「強くあれ、雄々しくあれ」と語りかけてくださいます。私たちは、この主の言葉に押し出されて信仰の一歩を踏み出していきましょう。 ヨシュアは、ヨルダン川を渡る前に、最初に攻め込むエリコの町を偵察させました。この時ラハブが、偵察した2人をかくまい、エリコの町が滅ぼされる時に助けられることとなります。

 さて、準備万端整っていざ約束の地へ入ることとなる訳です。しかしそのためには、ヨルダン川を渡る必要がありました。ヨシュア記には、「エリコに面したところを渡った(ヨシュア3:16)」とあります。聖地旅行では、エリコに面したヨルダン川に立ち寄ることが多いのですが、今その場所は、十数メートルだけであり、簡単に超えられると思えるほどの川幅です。しかし、ヨシュア記の頃は恐らく川の流れが今とは違っていたのだと思います。さらにヨシュア記では、雪解け水によって水量が多く川幅が広がっていて、流れも強かったので、簡単に渡ることが出来ませんでした。けれども神様が言われる通り、祭司が契約の箱(神の箱)を担いでヨルダン川の水に足を踏み入れた時、大量の川の水が上流で堰き止められました。その場所は「アダム」と言う場所です。エリコから約30km離れている場所です。それほどの広範囲で水が堰き止めらえたわけです。このことでイスラエルの民は、ヨルダン川の乾いた所を一気に渡ることが出来たのです。

 この時ヨシュアとイスラエルの民に求められた事は、何だったと思いますか。それは、神様を信じて従う事でした。神様は、これまでの荒野では雲の柱・火の柱でイスラエルの民を導いて来られました。今回は、契約の箱が先頭を進むのです。これは、全能の主なる神様の臨在が、イスラエルの先を行き、進むべき道を示すという事なのです。ヨシュアは、神様に言われた通りにする必要があり、イスラエルの民は、ヨシュアと共に主の臨在を見て、信仰の一歩を踏み出すことが求められたのです。箱を担ぐ祭司の足が、「水際の水に浸る」というのは、まさに記念すべき信仰による一歩だったという事です。この信仰による一歩がないと、民は前進することが出来ないのです。

 皆さん、私たちも主なる神様を見上げ、信仰の一歩を踏み出していきましょう。私たちは、今、大きな時代の変化の中に置かれています。この先、世界がどうなっていくのか分からないような状況です。世の中の物事だけではなく、人の心もどのように変化していくのか見当がつかない感じがします。このように私たちを取り巻く環境は、常に変化をしていきます。けれども、昔も今もとこしえに変わる事のない神様が、「強くれ、雄々しくあれ」と語りかけてくださいます。そして神様ご自身が、御言葉によって私たちの進むべき道を示してくださるのです。神様を信じ、信仰の一歩を踏み出していきましょう。
 どのような一歩を踏み出しますか。「強くあれ、雄々しくあれ」と励ましてくださる神様を、そして私たちの罪のために十字架にかかって救いを成し遂げてくださったイエス様を、「信じます」という信仰告白の一歩を踏み出しますか。「強くあれ、雄々しくあれ。あなたと共にいる」と約束してくださる神様を見上げ、聖書を読む時間を確保し、常に御言葉を思い巡らす歩みへと一歩を進めますか。「強くあれ、雄々しくあれ」と語りかけて導いてくださる神様を見上げ、神様によって人生が導かれることを信じて、信頼し祈りつつ信仰の一歩を踏み出すでしょうか。それぞれの信仰の一歩が神様の祝福に溢れる様にと祈ります。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。今日も、主を礼拝する恵みにあずかることが出来、心から感謝致します。神様は、ヨシュアに「強くあれ、雄々しくあれ」と語りかけたように、今も私たちに同じように語りかけてくださることを感謝致します。私たちは、神様が共におられる事を信じます。神様の教えを離れず、右にも左にもそれず歩みます。主なる神様を見上げ、信仰の一歩を踏み出します。神様、私たち一人ひとりの歩みを祝福してください。
 新型コロナウイルス感染を終息させてください。全世界の医療従事者を守り、必要な治療を行う事が出来るように助けてください。新型コロナウイルスに感染している方々の上に神様の癒しが与えられますようにとお願いします。私たち一人ひとりの健康と仕事をお守りください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」