2021年6月20日(日)礼拝説教 ヨシュア記6章1-11節「神による勝利」

<子どもたちへ

 先週のお話を覚えていますか?モーセの後を引き継いだヨシュアをリーダーとして、イスラエルの人たちはヨルダン川を渡って行ったのでしたね。神様の奇跡で川がせき止められて、乾いた川底を渡ることが出来たのでした。渡った先は、どこでしょう?それは、神様が下さると約束された地、カナンです。40年もさまよって世代が入れ替わり、いよいよカナンに入る時が来たのです。
 しかし一つ大きな問題がありました。エリコという強くて大きな町を征服しなければならないのです。今日は、自分たちには無理と思えるようなことをどのように乗り越えさせていただくのか、エリコ攻略の話から一緒に学んで行きましょう。

 ここはエリコの町です。ヨルダン川に近く、水も豊かなところです。今から8千年も前に建てられた、世界最古の町だそうです。でもエリコの人たちは、イスラエル人が不思議な方法でヨルダン川を渡って来たと聞いてふるえ上がっていました。「怖いなあ。きっとイスラエルがせめて来るぞ。誰も入って来られないように門をしっかり閉めておこう!」
 一方、イスラエルの人たちもエリコの城壁を見てため息をつきました。「あ~あ、何て高い城壁だろう。5㍍もあるよ。」5㍍というのは信号機の高さと同じです。幅も3㍍あります。更に城壁の前には幅8㍍もの深い堀が掘られています。40年も国を持たずにさまよってきたイスラエル人たちには、すごく進んだ文明国に見えたことでしょう。
 ヨシュアもイスラエルの人たちも「私たちにこんなすごい町を征服出来るのかなあ」、と不安になってしまいました。

 しかし神様はおっしゃいました。「わたしはエリコの町を、あなたがたにあげましょう。」そういってからヨシュアに不思議な命令をなさいました。ヨシュアはその命令を人々に伝えました。「神様の命令です。よく聞きなさい。行列を作って町の周りを歩きなさい。私が合図するまで声を出してはいけません」。順番はこうです。まず武器をもった兵士たち。次に角笛を持った7人の祭司たち。その後を、契約の箱をかつぐ祭司たち。最後に兵士たちです。
 祭司たちは角笛をプーっ!と吹きならします。朝早くこのようにエリコの町を1周するのを6日間続けました。なぜこんなことをするのか、誰もわかりません(わたしもわかりません)。ただ、神様がそのように命令なさったから、そうしたのです。

 7日目の朝になりました。この日も同じように町の周りを歩きますが、一つだけ違います。この日だけは7回周ったのです。7周目に、祭司たちが角笛を長く吹き鳴らしました。ヨシュアが言いました。「さあ今だ!大声で叫べ!神様がエリコを与えて下さるぞ!」すると皆が叫びました。「オオーっ!!」するとどうでしょう。突然ガラガラと大きな音を立てて、城壁が崩れ出したのです。「それ行け!」イスラエルの兵士たちは一気に町に攻め入って、エリコを征服しました。イスラエルの大勝利でした。

 さて皆さん、今日のお話から何がわかるでしょうか。この世の方法と違っても、神様のおことばに従う時、人間の考えや思いを超えた祝福が与えられるのですね。エリコの高い壁のように「自分には無理だ。乗り越えられそうもない。」と思う問題にぶつかる時、「神様、どうしたらいいでしょうか。導いて下さい。」と祈りましょう。信仰を働かせる時、神様は喜んで解決を備えて下さると教えられているのです。

<祈り>
神様。どんなに困難に思えることも、神様は解決出来ることを信じます。私たちが困難を乗り越えて行けるようお導き下さい。御名によって祈ります。アーメン。

<適 用> 

「信仰によって、人々が七日間エリコの周囲を回ると、その城壁は崩れ落ちました。」  ヘブル人への手紙11章30節

 ギターには、ピックと言うものを使って弾く方法と指で弾く方法があります。私が、ギターを始めた頃に、その両方を練習していました。しかし、指で弾く弾き方は、なかなか上達しませんでした。すると教えてくれていた人が、「自分が弾こうとしていることを声に出して言ってみるといいよ」と教えてくれました。それは、ちょっと恥ずかしいことなのです。声に出したとしても「ジャンジャカ、ジャカジャカ」とかなるからです。「ジャガイモか!」みたいなことです。私は、そんなことをする意味が分からず、最初その方法を拒否していました。するとその人は、「声に出して言えないと実際に弾くことは出来ない。声に出すことで弾き方を確認することが出来る」と教えてくれたのです。私は、「それを早く言ってよ」と思いながら、しぶしぶ声に出しました。すると弾き方が分かってきて、どうすればよいかも分かって来たのです。
 神様が、ヨシュアに示したエリコ攻略の方法は、とてもユニークなものでした。それは、神様の方法であり、神様の勝利へとつながるものでした。

Ⅰ;霊的備え

 私たちの人生には、「神による勝利」が約束されています。そのために必要な事は、私たちの心の霊的な備えをするということです。
まず、イスラエルの民がしなければならない霊的な備えは、割礼を受けることでした(5:2-6)。エジプトを脱出した時20歳以上の戦士たちは、割礼を受けていました。しかし、イスラエルの民が40年間の荒野の生活をしている間に、この戦士たちは死んでしまいました。こうしてイスラエルの民は、世代交代が行われましたが、世代交代した人たちは、割礼を受けていませんでした。
 割礼とは、神様がアブラハムとの契約を結ぶしるしとして与えたものです。神様は、アブラハムに次のように言われました。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全きものであれ。…。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。…。次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる(創世記17:1-11)。」

 このために、イスラエルに生れる男の子は、生後8日で割礼を受けることになりました。しかしイスラエルの民は、この神様の命令、大切な儀式をしていなかったのです。その理由は、色々あると思いますが、イスラエルの不信仰が一番の理由だったと言えるでしょう。
 ですからヨルダン川を渡って割礼を施すというのは、神様がイスラエルとの関係を回復し、契約の民として守られることを意味し、イスラエルの民の信仰の回復への一歩となるのです。

 もう一つの霊的備えは、「過越しの祭り」をしたという事です。これは、約束の地での最初の過越しのいけにえという事になります。イスラエルの民にとって過越しの祭りは、神様がイスラエルをエジプトから救い出してくださったという神様の救いへの感謝を表す礼拝です。イスラエルの民は、エジプトを脱出した次の年に過越しを守った後は、過越しを行っていなかったと思われます。過越しの祭りについては、書かれていないからです。それは、やはりイスラエルの不信仰の現れという事になります。エリコ攻略前に過越しの祭りを祝ったというのは、イスラエルの民の主への礼拝の回復であり、やはり信仰の回復の一歩ということになります。このようにして、イスラエルの民は、信仰の回復、霊的な備えをするのです。

 さて、私たちにも霊的な備えは必要です。その霊的備えとは、私たちの心が神様に向けられるという事です。イスラエルの民は、肉体的な割礼を受けることによって信仰の回復をしていきました。私たちは、心の割礼を受けることが必要になります。パウロは、「外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。…。文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです(ローマ2:28-29)」と教えています。これは、私たちの心を暗く包み込んでいる自我や罪を切り捨てることです。それは、私たちの救い主イエス様を信じることであり、神様への信頼をもって歩むという事です。
 それに加えて、私たちは主への礼拝を大切にします。なぜなら、神様は、礼拝を通して私たちを教え、導き、祝福してくださるからです。また礼拝は、私たちの心からの感謝を、賛美を献げる時だからです。私たちの霊的(心の)備えはどうでしょうか。

Ⅱ;神様の方法

 私たちには、「神のよる勝利」が約束されています。そこには、神様の方法があることを心に留めましょう。
 イスラエルの民は割礼を受け、過越しのいけにえを献げ(5:10)、霊的な備えが出来ました。いよいよ第一目標であるエリコを攻めるのですが、ここで重要なことは、神様の方法が示されたという事です。

 エリコの町は、最古の町であり、オアシスとして栄えていて、町の周囲は、城壁で囲まれていました。ですから武器らしい武器を持っていないイスラエルにとって簡単に攻略できるものではありませんでした。しかし、すでにエリコの町は、この戦いに負けていました。と言うのは、エリコの住民(その他の住民も)イスラエルの民には全能の主なる神がついていることを知って気力を失っていたのです(5:1)。
 けれどもエリコの町の攻略が、簡単ではないのは事実です。その時、主の軍の将がヨシュアに現れ、神様の計画を伝えてくれました(ヨシュア5:13-15)。神様は、エリコの町を与えていると勝利を約束して、加えて、ヨシュアに一つの方法を示します。その方法は、戦いとは無縁のように思えますし、どんな効果があるのか分からないものでした。神様が教えてくださった方法は、6章3-5節にあるように、角笛を吹きながらエリコの周囲を1日1回まわるのです。7人の祭司が先頭を行き、その後ろを主の箱が進み、戦士がその次に進みます。武装した兵士は、祭司の前としんがりを努めました。彼らは黙って進み、ただ角笛の音だけが響きわたるのです。7日目には7回エリコの周囲を回り、そして勝利の時の声を上げると城壁が崩れるという方法でした。これが、神様がヨシュアに示した戦い方でした。ヨシュア自身もどのようにしてエリコを攻略しようかと、あれやこれやと思い巡らしていたと思います。神様が教える方法は、町の周りを回るだけと言う、戦いの戦略とは思えないものでした。しかしそこには、神様の方法があるのです。

 以前、知人からこんな話を聞いた事があります。その人は、腰痛を繰り返していました。痛みが出ると整体院に行って治療を受けていました。ある時治療に行くと、先生は、膝の治療を始めたのだそうです。その人は、「あの~、痛いのは腰なのですが。」と訴えます。その先生は、かまわず膝を診ています。指定されたリハビリは不思議なものでした。お風呂で膝を温め、ゆっくりスクワットをするという事だったそうです。その人は、不思議に思いつつ言われるままリハビリをしたそうです。すると腰の痛みが治ったのです。整体院の先生曰く、今回の腰の痛みは膝から来ているというのです。治療を受ける方としては不思議なリハビリでしたが、先生には目的があって指示をしていたということです。

 皆さん、私たちは、どのように生きたら良いのか考えながら人生を進んでいます。その時私たちが、心に留めるべき原則があります。その原則とは、私たちは、神様の導きの中を生きているということです。私たちは、それぞれ神様の導きを受けて人生を送ります。そして神様は、その都度必要な方法で私たちを導くのです。私たちが直面する様々な事を乗り越えるには、必ず神様の方法があります。イザヤは「あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを、あなたの耳は聞く(イザヤ30:21)」と教えています。その神様の言葉とは詩篇119篇105節で「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道のひかりです。」と言われている通りです。私たちは、聖書の御言葉を通して神様の導きを知ることが出来ます。神様は、聖書の御言葉によって私たちに「これに歩め」と語り掛け、私たちの進むべき道を照らしてくださるのです。私たちは、この神様のみ教え、方法を知る必要があるのです。そのために私たちは、心を静めて、祈り、主を求めましょう。

Ⅲ;従う信仰

 私たちには、「神による勝利」が約束されています。霊的備えが出来、神様の方法が明らかになったら、後は信仰を持って従うだけです。
 ヨシュアは、不思議な神様の方法を知りました。恐らくヨシュアは、「どのようにエリコを攻略することが出来るのだろうか、神様はどのようにして勝利を与えてくださるだろうか」と祈り求めていたと思います。神様は、ヨシュアの祈りに答えてご自身の方法を明らかに教えてくださったのです。ですからヨシュアにとって不思議な方法でも、それが神様の示された方法であるならば、やることは一つだけです。それは、神様の導きに従うという事でした。そして主に従う信仰は、ヨシュアだけではなく、イスラエルの民も持っていたという事が重要になります。イスラエルの民は、ヨシュアに言われた通りの事をしたのです。

 イスラエルの民は、皆が心を一つにして神様の言われたことに従ったのです。すると、どうでしょうか。勝利の時の声を上げた瞬間、頑丈だった城壁が、崩れ落ちたのです。この様にしてイスラエルの民は、エリコを攻略することが出来、ラハブの一族を助けることが出来ました。

 私たちは、自分がどのように歩むべきか神様の導きを具体的に求めているでしょうか。神様の方法に心を向けているでしょうか。例えば、クリスチャンとして家族にどう接することが出来るか。家族や友だちに福音を伝えるために自分のするべきことは何だろうか。色々な出来事をどう受け止め、対処するべきかなど。私たちは、神様からの方法を求めるべきことがたくさんあります。私たちは、その事を具体的に求めましょう。神様は、私たちがするべきことを示し、教えてくださいます。私たちのすることは、神様が教えてくださる一つ一つについて信仰をもって心に留め従うことです。そこに勝利の鍵があります。私たちには、神様の勝利が約束されています。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。ヨシュアは、神様による勝利を得ることが出来ました。そのためには霊的備えがあり、神様の方法が示され、従う信仰がありました。神様は、今も私たちを導いてくださり、私たちは様々な事柄の中で神様による勝利を与えられる事を信じます。私たちは、心に割礼を受け、心を神様に向けて歩みます。私たちは、神様の導きを必要としています。神様の方法を教えてくださり、進むべき道を示してください。
 コロナ過にあって、一人一人が神様の平安に満たされて歩み続けることが出来ますように祝福を注いでください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」