<子どもたちへ>
皆さんは、どんな時に「幸せだなぁ~」と感じますか?何か美味しいものを食べた時とか好きなものを買った時などいろいろでしょうね。僕は、子どもの頃、年に数回の外食が楽しみでした。外に食べに行かなくても、出前を取った時は特別な感じでしたね。また親戚の叔父さんが、お寿司を御馳走してくれて、腹いっぱい食べた時は幸せを感じましたね。二つとも食べ物の事ですね(^^♪
イエス様は、本当の幸せとは何かを教えてくださいました。
ある時、イエス様は、山の上で弟子たちをはじめ多くの人たちに教えました。イエス様の周りには、イエス様のお話しを聞きたい人やイエス様に病気を治してもらいたい人たちなど、いつも多くの人たちが集まいたのです。そういう人たちに向かってイエス様は、大切な事をお話しになりました。
イエス様は、「心の貧しい者は幸いです。」と言われました。「心が貧しい」とはどのような事なのでしょうか。「心が貧しい」というのは、何でも自分で出来る人でも、あれもこれも持っていると自慢する人でもありません。「心が貧しい」と言うのは、自分は、弱くて、神様の助けがないと生きていけないと知っている人のことです。「心が貧しい」と言うのは、決してダメな事ではなく、神様の助けを受けるために必要な事なのです。神様は、心から神様の助けを必要としている人を助け、たくさんの祝福(良いこと)を与えてくださるのです。それが「神の国はその人のもの」という意味です。
またイエス様は、「あわれみ深い者は幸いです」と言われました。「あわれみ深い人」と言うのは、人の痛みを理解し、その人に寄り添って励ますことが出来る人の事です。僕は、中学生の時、クラスの男子から無視されるということがありました。ある日の朝、学校に行って皆に「おはよう!」と声をかけても誰も返事をしてくれないのです。僕は、何がなんだか分からず、戸惑いながら寂しい気持ちになりました。しばらくして、クラスメイトが僕の所に来て「赤松ゴメン」と言ってくれたのです。友達は、「今日は赤松の番なんだ」と無視された理由を教えてくれたのです。そんなことをすると今度は、その友だちがターゲットにされてしまいます。でも友だちは、そんなことよりも、僕の寂しい気持ちに気づいて声をかけてくれたのです。そのような心が大切だとイエス様は言われました。
そして何よりもイエス様ご自身が、僕たちに寄り添ってくださるのです。イエス様は、僕たちが弱い時に近づいて助けの御手を指し伸ばしてくださいます。イエス様は、僕たちのために十字架に死んで、罪の赦しを与えてくださいました。それだけではなく、イエス様はよみがえって信じる全ての人に永遠の命を与えてくださるのです。イエス様は、いつも僕たちと一緒にいて助け、励まし、力づけてくださるのです。このイエス様のあわれみに満たされ、僕たちもあわれみ深く人に接することが出来ます。するとさらにイエス様は、素晴らしい恵みを与えてくださるのです。
イエス様が、山の上でお話になった事は、僕たちの心の問題です。僕たちの心がイエス様に導かれ、イエス様の愛に満たされる時、僕たちは、本当の幸せ、神様からの祝福に満ち溢れます。その時、僕たちは、生きる力、勇気が湧き上がってくるのです。イエス様に心を満たして頂きましょう。
祈り
「愛する天の父なる神様、今日、皆と共に礼拝出来ることを感謝します。イエス様は、心の貧し者は幸いだと教えてくださいました。僕たちは、神様の助けが必要です。どうか僕たちの毎日の生活を導き祝福してください。イエス様が、僕たち一人一人を愛し、憐れみを注いでくださることを感謝します。イエス様の愛と憐れみに満たされて、憐れみ深い者となることが出来るように導いてください。この祈りをイエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
<適用>
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」 マタイの福音書5章3節
十数年前になりますが、「セレブ」という言葉が注目を集める時代がありました。この「セレブ」の意味は、「著名人、有名人、名士」と呼ばれる人々のことです。簡単に言うと、「うらやましい生き方をしていて、人々に注目されている人」という事でしょうか。その当時、多くの人がこの「セレブ」にあこがれ、そのような生き方が「幸せ」だと考えていました。今でもそのような考え方は、変わっていないような気がします。誰もが幸福であることを願います。だから、人は、自分の欲望が満たされる事柄をひたすら求めています。でもその欲求は留まることなく、いつになっても満たされ、喜びを得ることはありません。それは、自己中心で、不安定で、根拠のない幸せを求めているからです。
では、本当の幸せを得る秘訣は何でしょうか。ある時イエス様は、山の上でそのことを、弟子たちに教えられました。有名な山上の「八福」の説教です。ギリシャ語の聖書では、「幸福である」という言葉が文頭に来ているので、イエス様が「幸せ」ということを強調していることが分かります。詳訳聖書では「うらやましいほど幸福である」と訳しています。この教えの中に、私たち人間が求めるべき幸せがあります。
Ⅰ;神様から与えられる
私たちは、「幸いなるかな」と告白して、歩むことが出来ます。この幸せは、主なる神様から与えられます。イエス様は、幸いな人とは、どのような状態の人であるかを教えておられますが、それは一見するとすぐには理解できない言葉かもしれません。イエス様がここで教えていることは、人が幸福だと感じる価値観とは違うからです。まずイエス様は、「心の貧しい者、悲しむ者」が幸いな者だと言われました。並行箇所のルカ6章20節には、「貧しい人たちは、幸いです。」と言われています。ルカは、実際の貧しさを言っているようです。しかし、マタイの福音書では「心の貧しい者」と言われています。恐らくイエス様は、同じメッセージを繰り返し語っておられたのではないかと思います。それほど重要だという事でしょう。マタイとルカは、何度か語られたイエス様のメッセージの中から選んで書いているという事です。
ともあれイエス様は、富をどれほど持っているかが問題ではない、心の状態が問題であると言っているのです。外見だけが豊かになっても、本当の幸せではありません。心が豊かにされなければ、いつになっても満足は得られません。「心の貧しい」というのは、自分は神様の前に小さな者であることを知っている人のことです。ある人は、この箇所を「心を空にする」ことだと説明しています(山上の説教 上巻)。私たちが、自信満々で心が自分の力で満ち溢れているなら、神様の恵みが注がれる余地はありません。しかしもし、私たちが、自分の力に拠り頼まず、神様の導きが無ければ生きていけないと認めるなら、私たちは神様の恵みを心一杯受けることが出来るのです。 「心の貧しい者」とは、神様なしでは生きていけなくて、神様こそ自分の全てであることを認めて、神様に近づく人という事です。そのような人は、本当に幸せなのです。なぜならば、そのような人を神様は喜んで受入れてくださり、天の御国を約束してくださるからです。そのような人は、地上にあって神様の支配の中に守られて生きることが出来ます。
「悲しむ者」とは、様々な事柄の中で痛み悲しみ涙を流している人という事ではありません。確かに神様は、そのような人を慰め励ましてくださいます。けれども、イエス様がここで言っている「悲しむ者」は、「心の貧しい者」と同じように心の内側の問題となります。イエス様が言われる「悲しむ者」とは、自分が神様の御前に罪人であることを認め、その罪を悲しみ心から悔い改める人のことなのです。そのような人は、神様から罪の赦しと救いを与えられ、神様の慰めを得ることが出来ます。
私たちの社会は、弱さや失敗を認めない社会です。人々は、弱さを見せないように、自分がだめな人間だと思われないように、必死に頑張っています。でもそのような状態では何も良いものは生まれませんし、どこにも慰めはありません。同じようにもし私たちが、神様の御前に自分の罪を認めず、必死にそれを隠しているならば、神様からの本当の慰めは与えられません。けれども私たちが、自分の罪を認め告白し、心から悔い改めるなら、神様は私たちを赦し、本当の(うらやましいほどの)慰めを与えてくださるのです。
そのようにすることによって私たちは、5、6節のような者となることが出来るのではないでしょうか。「柔和な者」というのは、神様に信頼し、神様の御心を行う人のことです。神様の愛を身に帯びて、愛の心、優しい心を持つ人のことです。そのような人に神様はご自身を現し、この地上で主の栄光を現すことができるようにして下さるのです。こう考えると「義に飢え渇く者」も幸福な者と言えるのです。「義に飢え渇く」とは、自分の歩みが神様の義(正しさ)によって満たされること、この世界が神様の義によって支配されることを熱心に求める人の事です。そのような人に、神様はご自身の義を示して、豊かに、溢れるほどに満ちたらせて下さるのです。
本当の幸福は、何かを持っているということではなく、神様にどれほど祝福されているかなのです。
Ⅱ;イエス様を信じること
私たちは、「幸いなるかな」と告白して歩むことが出来ます。この幸いは、イエス様を信じる信仰によって増し加わっていきます。
先ほど、本当の幸福は、何かを持っているという事ではないと言いました。しかし、多くの人は、富を、物を、学歴・高い地位を得ることが幸せだと考えています。だから、人々は、「セレブ」と言われる人に憧れ、有名人の持っているブランド品で身を飾り、生活スタイルの真似をするのです。私は、何も富とか高い地位を求めてはいけないと言っているのではありません。しかし、それが全てとなってしまってはいけないのです。もしこの世の富を得ることが幸せなら、芸能人はみんな幸せだという事になります。大企業の社長や会長は幸福な人だという事になります。人の目には、そのように見えるかもしれません。けれども本当にそうなのでしょうか。芸能人は、売れなくなることを心配しながら仕事をしています。大企業の社長は、会社の業績を心配し、多くのストレスの中にいるのではないでしょうか。富を多く持っている人は、その時は幸福感を得ることが出来るでしょう。しかし、お金は使えばなくなりますので、富がすべてと思う人は、自分の生活を維持するために、いつでも富を追い求めることとなり、その欲求には終がありません。この様にして、人は、自分の願望を満たすことに一生懸命になるのです。けれどもそこには、心の平安を見出すことが出来ません。
だから、最初に見たように、私たちの幸い、祝福は、主なる神様から与えられるという事に心の目を向けるべきなのです。そしてさらに、聖書は、イエス様を信じることによって与えられる幸せについて教えています(7-10節)。
「あわれみ深い者(7節)」とは、言葉の通り、人に対して憐れみを示すことが出来る人、憐れみを注ぐことが出来る人のことです。「心のきよい者(8節)」とは、一心に神様を求め、誠実にそして忠実に神様に従うことを願う人のことです。私たち人間は、本来この二つの性質を持ち合わせてはいません。私たちは、憐れみがどのようなものかを知らなければ憐れみを現すことは出来ないし、神様を知らなければ、神様を求めることも出来ないのです。「平和をつくる(9節)」ことも人間の持っている価値観では無理なことです。人は、皆それぞれ違う価値観を持っていますから、平和を築こうとしても、そこには衝突が生じてしまうのです。
でもこれらの事を可能にする方法があります。それが、「イエス様を信じる」信仰によって生きる、生き方です。イエス様は、私たちの罪が赦される道を用意してくださいました。私たちは、本来なら、神様の憐れみを受ける資格がなく、罪の赦しを得る資格のない者でした。聖書は、神様を信じないこと、神様を無視し、自己中心に生きていることを罪だと教えています。「罪」と訳されている言葉は、「的を外す」と言う意味があります。私たちは、生まれながらにして、神様の愛と神様の教えという的を外して生きています。しかし、神様は、本来なら憐れみを受ける資格のない罪人が、神様の憐れみを受けられるようにしてくださいました。イエス様は、私たちの罪の身代わりに十字架にかかってくださいました。私たちは、神様の基準からは大きく外れ、神様を無視し、自分勝手な道に進んでいました。神様は、そんな私たちを見捨てずに愛し憐れみ、救いの道を与えておられるのです。私たちは、罪を告白し、イエス様の救いを信じる信仰によって、罪赦され、救いを受けることが出来るのです。これ以上の憐れみはありません。私たちは、この素晴らしい神様の憐れみ深さを知ることによって、「あわれみ深い者」となることが出来るのです。これだけでも幸福だと思いますが、憐れみ深い者には、さらなる神様の憐れみが注がれもっともっと憐れみ深い者となることが出来るのです。
またこのイエス様の救いによって、神様を知ることができ、神様の教えを知ることが出来ますから、一心に神様を求めることが出来ます。すると神様は、ご自身の御心を私たちに教えて、導いてくださり、私たちは、神様を見るように生きると事が出来ます。
そしてさらには、「平和をつくる者」へと変えられるのです。私たちは、本来罪によって、神様との関係は最悪な状態でした。けれどもイエス様の十字架の救いによって、神様と私たちとの間に和解が成立しました。私たちには埋めることのできない、神様と私たちとの大きな断絶をイエス様が埋めてくださったのです。ですから、私たちは神様から本当の平和を頂き、平安を受けることが出来ます。そして、私たちは、神様から与えられる平安によって、平和をつくる者へと変えていただくことが出来るのです。だからそのような人は、神の子どもと呼ばれるのです。
私たちは、イエス様を信じる信仰によって、本当に多くの祝福を与えられています。
さらにさらにイエス様は、迫害さえも幸福だと言っています。なぜなら、信仰のゆえに迫害を受ける時、神様は天の御国への約束を確かなものとして示してくださるからです。天の御国では、地上の迫害に勝る大きな神様からの報いがあるのです。
イエス様が、教えてくださったことは、私たちが生きる上でとても大切な事柄です。私たちは、神様からの祝福を与えていただくために、心を神様に向け、心の内側の点検をしていきましょう。また私たちは、人とのかかわりが豊かにされるために、心を神様に向けましょう。私たちの心が、イエス様の愛と憐れみに満たされる時、私たちは愛と憐れみの心を持ち、謙遜に歩むことが出来ます。
神様は、私たちに素晴らしい祝福、うらやましいどの幸いを与えてくださいます。
祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、「幸い」がどのような事なのかを教えてくださいました。私たちは、この世の何かによってではなく、神様から本当の「幸い、うらやましいほどの幸い」を与えられることを感謝します。そのために、私たちは心を主に向けて、心の内側を神様に満たして頂いて歩みます。私たちは、神様の導きなしでは生きていけません。神様、私たちの日々の生活を導き、祝福を与えてください。
新型コロナウイルスの感染を終息させてください。ワクチン接種が始まっていますが、ワクチンが行き渡りますように、医療従事者が守られ、必要な医療を施すことが出来るように支えてください。日本に、世界に、神様の憐れみと慰め、励ましが満ち溢れますようにとお願いします。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」