2021年7月11日(日)礼拝説教 マタイの福音書5章13-16節 「地の塩 世の光」

<子どもたちへ>赤松由里子師

 先週から、「山上の説教」と言われるイエス様の教えを学び始めました。2回目の今日は、これ(塩の小ビン)とこれ(懐中電灯)に関係しますよ。さて何でしょう?それは「地の塩、世の光ということです。早速学んでいきましょう。
 イエス様はガリラヤ湖の近くの小高い山に登って、お話を始めました。お弟子さんたちや癒しを求めて来た病気の人や悪霊につかれた人が、大勢つめかけています。イエス様は沢山のお話をしてくれました。

 そしてこうおっしゃいました。「あなたがたは地の塩です」(13節)。どういうことでしょうか?塩が何に使われるのか考えると分かってきます。まずは調味料として、塩味を付けますね。また食べ物を塩に漬け込むと、腐らせずに保存できます。また氷に塩を混ぜれば温度を下げることが出来ますし、雪国では雪を溶かすのに塩から出来た物質を道路にまきます。塩って色んな効果があるのですね。
 ここでイエス様がおっしゃったのは、腐らせない(腐敗を防ぐ)塩の役割のことです。私たちがそこにいることで、世の中が悪くなるのを防いでいるのですよ、ということです。「子どもの自分も?」と思うでしょうか?そうです、皆さんも地の塩なのです。私たちの周りには、いじめや悪口、盗み、うそなど、悪が沢山はびこっています。そういう中でもイエス様の教えを守って従うならば、社会が罪で悪くなるのを防ぐことが出来ます。

 またイエス様は、「あなたがたは世の光です」(14節)とも言われました。それは「世界を照らす光」という意味です。これは何か知っていますか(絵)?灯台です。海を航海する船が真っ暗な夜でも方向が分かるように、照らしています。真っ暗闇でも光があれば進むべき方向が分かるので、正しく進んでいけるのです。世の光とはこのように、進むべき方向を示す役割を持ちます。
 光にはスポーツのスタジアムを照らすような強い光もあれば、ロウソクの灯りのようにほのかな光もあります。その人によって違ったとしても、その人の自然なあり方で光の役割が果たせるなら、それでいいのです。具体的には、イエス信じる喜びを隠さずに表すことです。また、神様の教えにもとづいて生活していくことです。

 ここまで聞いて、「でも自分には出来ないよ」と思った人がいるでしょうか。思い出して下さい、このお話を聞いていたのは、困りごとや悩みを抱えている普通の人たちでした。普通の人が神様に助けの中で、地の塩・世の光とされているのです。
 大事なのは、「隠さない」ということです。塩が塩気をなくしては捨てられるだけ、とイエス様は言われました。灯りをつけてからおおい隠す人はいない、とも言われました。灯りはみんなを照らす場所におくのです。隠さずに従う歩みをすることによって、地の塩、世の光の役割が果たせます。神様に助けて頂きましょう。

<祈り>
神様、私たちを地の塩、世の光と呼んでおられることを学びました。私たちは平凡な存在かもしれませんが、神様が願っておられる大切な役目を果たすことが出来るようにお導き下さい。神様のお言葉を守って生活し、隠すことなくまわりに証しさせて下さい。御名によってお祈りします。アーメン。

<適用>赤松勇二師

「あなたがたは地の塩です。…。あなたがたは世の光です。」  マタイの福音書5章13-14節

 イエス様は、「幸いなるかな」と教え、それに続いてイエス様を信じる者がどのような歩みをすることが出来るのかを教えられました。「地の塩、世の光」と言う言葉は、聖書の中でも有名な言葉の一つかもしれません。「塩」も「光」も私たちが生きていくために必要なものです。私たちの健康のためには、適度な塩分補給は大切な事です。光は、私たちの心の安定のために大切なものです。では「地の塩」「世の光」とはどのようなことなのでしょうか。

Ⅰ;地の塩

 まず、イエス様は、「あなたがたは地の塩です。」と言われました。この言葉を理解するためには、「塩」の持つ特性に目を向けると良いでしょう。「塩」には、防腐剤としての役割と味を調えるという働きがあります。イエス様は、私たちがこの地にあって、この二つの働きをすることが出来ると言われたのです。

 ここで、イエス様が、この地をどのように見ていたのかが気になります。イエス様は、この地には「防腐剤」が必要だと考えておられたのです。という事は、イエス様は、この地は「腐敗」へと進んでいると見ていたという事です。創世記には、天地創造について書かれています。この天地は、創造主なる神様によって造られました。そして神様は、人間を人間として創造し、いのちの息を吹き込み、生きる者としてくださいました。創世記には、その時のことがなんと書かれているでしょうか。神様が創造した全てのものは、「見よ、それは非常に良かった(創世記1:31)」と言われています。神様によって創造された、世界は非常に良かったのです。そして神様と人とは、とても良い関係を持っていたのです。けれども、そこに罪が入ってきました。人は、神様に従うよりも罪に誘惑され、自己中心に生きることを選び取りました。その結果、人は罪ある存在となり、神様との関係は崩れ去りました。そして人類は、罪による堕落の道を突き進むようになったのです。旧約聖書の時代も、イエス様の時代も人々は、神様から離れ、神様の御心からかけ離れた罪の道を進んでいました。それは、今も変わることはありません。神様から離れ、神様を知らず、自己中心に生きる人間は、罪の中を突き進むこととなります。それが私たちの時代であり、この地の社会全体の状況ではないでしょうか。
 だからイエス様は、この地には「塩」が必要だと言うのです。そしてその「塩」は、「あなたがた」とあり、イエス様を信じる私たち一人一人なのです。なぜならば、私たちは、イエス様の十字架の贖いを信じる信仰によって罪赦され、救いの素晴らしさを証しすることが出来るからです。まず私たちは、「地の塩」として、イエス様の救いとイエス様に従うという生き方を証しすることで、人々に間違いを指摘することが出来ます。

 もう一つ、「塩」には、味を調えるという大切な役目があります。もし塩がなかったら、私たちが作るどんな料理も味にしまりがなく、美味しくはならないでしょう。私は、時々料理をしますが、いつも「塩加減」で苦労します。まず、炒め物をする時、どのタイミングで塩を使ったら良いのか迷います。その他の調味料との加減も迷います。塩を入れすぎて、塩辛くなってしまう時があり、塩が足りずに薄味になってしまったりします。何度も味見をしていると、どの味を目指しているのかさえも分からなくなってしまうのです。「塩加減が難しい」と言うと、妻からは「もう少し頻繁に料理をすると良いんじゃないかな」と言われたりしています。
 イエス様は、「あなたがたは地の塩です」と言われました。そして「あなたがた」と言うのは「あなたがたこそ」という意味があります。イエス様は、「あなたがたこそ地の塩です」と言われたのです。私たちは、一人一人が「地の塩」としてその場に良い塩加減を提供し、私たちのいる環境や人間関係に良い影響を与えることが出来るのです。丁度良い塩加減とは、人の心に響く言葉、人を力づけ励まし、立ち上がらせる言葉という事でしょうか。私たちは、いつもそのような者でありたいと願います。私たちは、家庭にあっても、友達との間にあても、会社の中でも、地域の中でも、相手の心を励まし力づけ有益な言葉で話したいと願います。けれどもなかなか、丁度良い言葉にならず、人を傷つけてしまったり、こちらの気持ちを伝えることが出来なかったりするのです。そのような意味で、私たちは、塩加減や塩気を保つことの難しさを感じます。

 イエス様は、塩気を保つようにと言われました。イエス様の時代の塩はあまり良い塩ではなく、塩気がなくなることがあったようなのです。塩気がなくなったら何の役にもならず、捨てられてしまいます。この場合の「塩気を保つ」とは、私たちが聖書の御言葉から学び、塩味の聞いた言葉や行動を通して福音を示すということです。私たちは、塩味の効いた、防腐剤となるような言葉や態度を示すことが出来ます。それは、イエス様によって可能となるのです。私たちは、イエス様によって、地の塩となるのです。皆さんは、地の塩として、丁度良い塩加減を保っているでしょうか。

Ⅱ;世界の光

 イエス様は、「あなたがたは世の光です」とも言われました。光にも大切な役割があります。塩と同じに私たちは、光を毎日使っています。私たちの生活の中で光は、欠かすことの出来ないものです。私たちは、暗くなったら蛍光灯やライトをつけます。なぜなら、暗やみでは、光がないと道を歩けないし、生活できないからです。

 また「光」は、私たちの心に温もりを与え、希望を与えます。私たちは、太陽の光があるから、温かい日々を過ごすことが出来ます。私が以前奉仕していた群馬県の沼田市は、冬になると必ず雪が降ります。気温は氷点下になり、凍てつく寒さとなります。車は、ガラスだけではなく、車全体が凍ります。車体につららが出来ることもあります。ですから冬の朝に車を動かくためには、早めにエンジンをかけガラスの氷をとかす必要があります。朝、車を動かすためには、ガラスの氷を解かさないといけません。この作業には、結構時間がかかるのです。しかし、太陽の光が当たった瞬間、ガラスの氷が一気にとけていくのです。太陽は、一瞬に暗やみを打ち破り、そして、温かさを提供してくれます。また暗やみを歩いていて、あるいは運転していて、遠くの方に小さな光を見つけると勇気づけられたり、ホッとしたりするものです。食卓に明かりがあると一段と温かみが増し、安心感を与えます。光の効果は、上げればきりがありません。イエス様は、私たちがこの世にあってそのような光だと言われました。

 ここでイエス様が「世の光です」と言った意味を考えてみましょう。イエス様は、この世には「光」が必要だと考えおられました。という事は、この世が「暗闇」だという事なのです。先ほど、神様が造られた世界は、全てが良かったと言いました。神様によって造られた世界は、神様の光に照らされ素晴らしい世界だったのです。しかし人が罪を犯したことによって、この光を失いました。人が、神様から離れ、光に背を受けた結果、罪の世界となり、この世は闇の世界となりました。全ての人は、光を失い、闇の中を手探りして生きているのです。イエス様は、そのような暗闇の世にあって、私たちが光だと言われました。
 この部分も「あなたがたこそ世の光です」という意味があります。イエス様は、「光となるように努力しない」と言いませんでした。イエス様は、「あなたがたは、あなたがたこそは、世の光です」と言われたのです。「地の塩」も同じです。「地の塩」となれるように頑張りなさいではないのです。私たちは、イエス様によって「地の塩」とされ、イエス様の恵みを証しすることが出来るのです。「世の光」として輝くこともイエス様によって可能となります。

 私たちは、イエス様を知る前は暗闇の中で右も左もわからず生きていました。私たちは、何とか人生を良くしよう、自分の人生を照らそうと頑張って生きていますが、その生き方には、限界があります。私たちは、自分の力では本当の生きる道、人生の目的を見出すことが出来ません。なぜなら私たちは、自分自身では人生を照らす光を持てないからです。
 しかしイエス様は、世の光として私たちを照らしてくださるのです。イエス様は、ご自身のことを「わたしは世の光です。(ヨハネ8:12)」と言われました。イエス様は、私たちを照らす光です。イエス様は、私たちが暗闇から抜け出し、光の中を歩むことが出来るように導いてくださいます。そのためにイエス様は、私たちの罪を背負い十字架にかかってくださったのです。イエス様は、私たちが罪の闇に覆われて、力なく生きるのではなく、私たちがイエス様の救いの光に照らされ輝いて生きる事が出来るようにしてくださったのです。ですから、私たちは、誰もが光の中を生きることが出来ます。それだけではなく、私たちは、「世の光」として輝くことが出来るのです。丁度、月が太陽の光を受けて輝くように、私たちは、光であるイエス様に照らされて、イエス様によって輝くことが出来るのです。

 すでにイエス様を信じている皆さん、「世の光」とされていることを信じて歩みましょう。「世の光」として生きるとは、人々にイエス様の愛の恵みを証しすることです。イエス様の救い、天の御国への希望、神様の愛の素晴らしさを伝え、罪から離れ、イエス様に照られて生きる幸いを伝えることです。イエス様によってそれが可能です。
 まだクリスチャンでない人も、諦める事はありません。誰でもイエス様によって照らされて歩むことが出来ます。イエス様は、あなたの心を照らし、あなたの人生を照らしてくださいます。イエス様は、私たちが暗闇に縛られるのではなく、闇から解放され、罪の赦しの恵みを受けて、光の中を歩むことが出来るようにしてくださるのです。イエス様は「わたしは世の光です」と言われ「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます(ヨハネ8:12)」と言われました。イエス様は、あなたの人生を照らし、心を照らし、豊かに輝く日々を与えてくださいます。イエス様の救いを信じ、いのちの光をいただいて歩みましょう。

 イエス様は、「あなたがたは地の塩です。…。あなたがたは世の光です。」と言われました。イエス様は、私たちに塩気を与え、光で照らしてくださいます。私たちは、イエス様に照らされ、闇ではなく光の中を歩めることを感謝しましょう。私たちは、「地の塩」「世の光」としてイエス様の光を反射させ輝き続けられるように祈り続けましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、イエス様によって「地の塩」「世の光」として歩めることを感謝します。そのためにイエス様が、私たちに塩気を与え、ご自身の光で照らして輝かせてくださることを感謝致します。イエス様に照らされる日々の歩みの中で、イエス様の恵みと愛を受けながら賛美と喜びをもって歩ませてください。
 神様、新型コロナウイルスの感染を収束させてください。世界中の医療従事者を守り、世界中で感染している人たちに癒しを与えてください。オリンピックも行われることとなりますが、全ての事を神様の御手によって支えてくださいますようにとお願い致します。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」