2021年7月18日(日)礼拝説教 マタイの福音書5章21-26節 「愛されて 赦されて」

<子どもたちへ>

 みんなのクラスにはどんなお友達がいますか?クラスのみんなが全員仲が良いということはないかもしれませんね。嫌いとは言わないまでも「あの子は苦手だな」と思う事もあるかもしれませんね。時には、喧嘩をすることもあるでしょう。クラスの友達との喧嘩がなくても兄弟で喧嘩をすることがあるでしょうね。そのような時皆の態度や言葉は、どのようなものになっているでしょうか?あまり冷静に考えたことがないかもしれませんね。今日は、イエス様の教えてくださった御言葉にしっかりと心の耳を傾けましょう。

 イエス様は、「殺してはならならい」という十戒の言葉を教えてくださいました。イエス様の時代、律法学者と言う人たちがいて、旧約聖書から神様の言葉(律法)を教えていました。しかしその教え方は、律法さえ守っていれば救われるということでした。そして神様の教えだけではなく、人間的な言葉も付け加えて教えていたのです。その部分が、「人を殺す者は裁きを受けなけなければならない」という言葉です。これは、当然のように思うでしょう。けれども「人を殺す者は裁きを受けなければならない」と言うのは、人を殺さなければ大丈夫という事なのです。それも当然と思うかもしれませんね。
 でもイエス様は、「しかし、わたしはあなたがたに言います。」とそれだけではないよと言われました。イエス様は、実際に人を殺してしまう事がないとしても「兄弟に対して怒る者」「『ばか者』と言う者」、「『愚か者』と言う者」は、裁きを受けなければならないと言われたのです。最初に友達や兄弟と喧嘩をしてしまう時、皆の態度や言葉は、どうですかと質問しました。「バカ!」とか言っていませんか。「うざい」「きもい」と言った言葉も同じ事です。イエス様は、その様に相手を傷つける言葉を使う事は、相手を否定して殺したことと同じだと言われたのです。僕たちの言葉は、それほど重要な意味を持つという事です。皆の言葉や態度は、どうでしょうか。
 イエス様は、そのような場合、すぐに和解をしなさいと教えてくださいました。

 二人の男の子が、一台の一輪車で仲良く練習をしていました。しかしケンちゃんは、夢中になって練習をしています。順番を待っていたタカシ君が、「そろそろ交替しよう」とお願いしました。けれどもケンちゃんは「もう少しまってて」となかなか順番を譲ることがありませんでした。ちょっと二人の会話を聞いてみましょう。
タカシ君=イライラして来て「ケンちゃんは、いつもそうやって自分ばっかりだよね。ほんと、うざい!!」
ケンちゃん=「そんなことはないよ。もう少しだって言ってるじゃん」
タカシ君=「ふざけんなよなぁ。もういいよ。帰るから!」
ケンちゃん=「帰るなら、帰れば!!」
 ケンちゃんは、教会に行っていたので、教会でイエス様が教えてくださったことを聞きました。そして、タカシ君に悪いことをしたと気づいたのです。そしてすぐに、タカシ君に謝りました。二人は、仲直りして一輪車の練習を続けることが出来るようになりました。ケンちゃんは、すぐに謝ることが出来ました。タカシ君は、ケンちゃんをすぐに赦す事が出来ました。

 僕たちもすぐに謝ることが出来るように、人を赦す事が出来るように神様に助けてもらいましょう。そして、僕たちは、人を傷つける言葉ではなく、人を励まし力づけられるような言葉を使えるようにも神様に助けていただきましょう。

祈り
「神様、あなたの聖なる御名を賛美します。僕たちは、無意識に人を傷つけてしまう言葉を使ってしまうことがあるかもしれません。神様、僕たちの心を助け、言葉を導いてください。人を傷つけ、けなす言葉ではなく、人を励まし、力づける言葉を使う事が出来るように助けてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」   イザヤ書43章4節前半

<適用>

 梅雨が明け、夏本番となります。既に猛暑日となっていますので、体調が守られるようにと祈ります。梅雨明けと共に今年は東京オリンピックが開催されます。今回のオリンピックは、「コロナ禍の開催」として歴史に残るものとなるでしょう。日本には、選手だけではなく、報道関係者も多く来ています。オリンピックの期間、選手を始め関係者はプレイブックに従って行動することが求められているようです。このプレイブックには、コロナ禍での開催のために細かいことが定められているようです。私は、どうなるのか心配しています。
 聖書には、私たちが神様を信じて、神様の御教えに従って歩むようにと教えられています。その事が私たちの人生を豊かなものにしていくことになります。では私たちは、どのようにして神様の御言葉を聞き、実行する事が出来るのでしょうか。イエス様は、山上の説教でそのことを教えてくださいました。

Ⅰ;愛されて、愛し合い

 まずイエス様は、「殺してはならない」というモーセの十戒を取り上げています。神様がモーセを通してお与えになった十戒の第六戒は、「殺してはならない」です。しかしイエス様の時代、パリサイ人、律法学者たちは、「殺してはならない」だけではなく「人を殺す者は裁きを受けなければならない」と教えていたのです。これは、当然だと思うかもしれません。しかし、パリサイ人たちは、神様の命じる言葉に人間的な解釈を加えることで、その意味を薄め軽くしてしまったのです。「人を殺す者は裁きを受けなければならない」と言う時、それは、実際に殺人をした人が対象となります。という事は「殺してはならない」は、実際の殺人だけが問題とされることとなるのです。

 しかしイエス様は、第六戒で「殺してはならない」と命じられた言葉の根本的な意味を明らかにしてくださいました。イエス様は、実際に人を殺すという行為だけではなく、心の行為としても問題とすべきであると言われたのです。兄弟に対して「怒る者(腹を立てる者)は、裁きを受けなければならない」のです。「『ばか者』と言う者は、最高法院で」裁かれ、「『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに」投げ込まれ、神様の裁きがあるのです。イエス様が言われた「兄弟たちに」と言うのは、直接的には同胞であるユダヤ人たちとなるでしょう。しかしその意味は、私たちの身近な人たち、私たちの周りの人たちと理解して良いと思います。私たちは、人に対して怒った事のない人はいないと思います。憎しみを込めて「バカ!」と言ってしまうこともあったかもしれません。言わないまでも、私たちは、相手を否定するような言葉を思いついたりするものです。私たちは、残念な事に「人を傷つけ、否定し、馬鹿にし、侮辱する言葉」が溢れる社会の中で生きています。インターネット上でも誹謗中傷が、繰り返されて問題となっています。
 イエス様は、心の中で相手を否定した瞬間、人殺しをしたことになると言っておられるのです。そしてこれは、見える行為の問題ではなく、その行為の根本である心の問題であるということなのです。イエス様は、「人から出て来るもの、それが人を汚すのです(マルコ7:20)。」と言われました。人から出て来るものとは、「人の言葉」「人の行動」のことです。私たちの口から出る言葉には、私たちの心の内側にある思いや考えが現れ、そして、心にある思いや考えが実際の行動となって出て来るのです。ですから私たちの言葉や行動は、私たち自身の「心」の中にあるものが反映されるのです。皆さんの、言葉や態度は、いかがでしょうか。

 では、そもそもどうして私たちは、「殺してはならない」のでしょうか。私たちは、なぜ言葉でも、心の思いでも相手を否定してはいけないのでしょうか。以前読んだ本の中に「なぜ人を殺してはいけないのですか」という本がありました。その本の中で、「あなたがそうであるように、あなたの家族も、隣のあの人も、かけがえのない人間の一人です。尊い人間同士は必ず共感することができるはずです。だからこそ、人は人を殺してはいけないのです。(212㌻)」と説明されていました。人は、神のかたちに創造され、一人一人神様の愛によって命が与えられ、全ての人が神様の愛の対照です。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)。」これが神様の思いです。私も、あなたも、私たちの周りの全ての人が、神様にとって大切な存在、愛すべき存在なのです。私たちは、神様に愛されています。だから私たちは、自分で自分を否定してはいけません。神様があなたを大切な存在として認めておられるのです。私たちの家族も、隣の人も、友達も神様に愛されています。この神様の基準に立つ時、私たちは、自分も含めて命を大切にすることが出来るのです。私たちは、心の底から相手の存在を認め、賞賛し、尊重しているでしょうか。私たちは、心をご覧になる神様の御前に整えられて歩みましょう。神様に愛されている一人一人として、愛し合いましょう。
 もし、愛の心を持つ事が出来ないとしたら、神様の愛を教えていただき、自分の心を神様の愛で満たして頂きましょう。

Ⅱ;赦されて、赦し合う

 イエス様は、「和解」「赦す」事についても教えてくださいました。私たちの人間関係での「和解」は、礼拝の姿勢にも大きな影響を与えていきます。23-24節です。
 私は、ある時賛美集会で「礼拝」というテーマでメッセージすることがありました。私は、「礼拝」を考えている時に「礼拝者」の姿勢とはどのようなものだろうかと聖書から学びました。その時にこのマタイ5章23-24節が目に留まりました。イエス様は、私たちが憎しみを持ったり、恨みを持ったりすることをどのように扱うべきかを教えておられます。しかしこの問題は、私たちと神様との関係に影響を与え、主への礼拝にも関係してくるのです。イエス様が言われた「供え物を捧げようとした時」は、言い換えれば神様を礼拝する時です。イエス様は、礼拝しようとした時、人に恨まれていることを思い出したら、礼拝を済ませてから和解しなさいと言いませんでした。イエス様は、「捧げものを置いたままにして、まず和解しなさい」と言われたのです。この事についても、先ほどの説明が当てはまります。神様は、律法を守ることだけではなく、守る人の心の内側をご覧になり、神様に対する私たちの心を問題とされるのです。神様への礼拝は、形だけうわべだけでするのではなく、私たちの心からするものです。そして神様との関係は、人との関係に表れていくのです。だからイエス様は、もし恨まれていることを思い出したら、礼拝を途中にしても、神様を待たせてでも、和解をしなさいと教えるのです。

 ここで、「恨まれていることを思い出したなら」と言う言葉が、ポイントとなると思います。イエス様は、自分がしてしまったこと思い出したらと言いませんでした。もし自分が人に対して不愉快なことをしてしまったら、どう考えても謝罪が必要となるでしょうし、和解が必要になってきます。けれどもイエス様は、「誰かに恨まれていることを思い出したら」と言うのです。これは、「自分にはそのような自覚がないとしても、他の人が嫌な思いになっているなら」という事ではないでしょうか。私たちは、無意識のうちに相手を否定する言葉を口にしたりしてしまいます。自分では、それほどきつい言葉ではないと思うけれど、相手には心傷つく言葉だったりするのです。
 すると私たちは、そんなこと言ったって、相手も悪いのではないかと思うかもしれません。人は、自分の問題よりも相手の問題を見つけ出す傾向があります。人は、素直に謝るという事は出来ないものです。アダムとエバは、神様に罪を指摘された時、言い訳をしていきます。アダムは、「神様が助け手として与えたエバが悪いのです」と言い、エバは「蛇が悪い」と言いました(創世記3:8-13)。二人とも自分の罪を認めることをせず、相手の責任としたのです。実は、これが私たちの人間関係の根本にあるのだと思います。イエス様は、他の人ではなく、あなたはどうなのだろうかと問いかけているのではないでしょうか。このイエス様の言葉は、私たちに対する大きなチャレンジだと思います。

 では、どうしたら私たちは、「和解」という事に進むことが出来るのでしょうか。そのためには、神様が私たちのためにしてくださった事に目を向ける必要があります。神様は、私たち人間の罪をご存じで、それを見過ごすことが出来ないお方です。けれども神様は、私たちを裁くのではなく、御子イエス様を地上に送ってくださいました。イエス様は、私たちの罪を全て背負い、私たちの身代わりとして十字架で死なれ(神の裁きを受け)、よみがえって救いを成し遂げてくださいました。神様は、私たちがイエス様の十字架による救いを信じる時、私たちの罪を全て赦してくださるのです。神様は、罪のために神様から離れ、裁かれ、永遠の滅びへと進むはずの私たちを、イエス様のゆえに赦し、受け入れ祝福を与えて下るのです。パウロは「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます(ローマ5:8)」と言っています。神様は、信仰をもって応答する私たちを無条件で愛して、赦して、救いを与えてくださいました。私たちは、イエス様の十字架の救いによって神様との和解が与えられ、神様との平和が与えられるのです。この救いの恵みに立つ時、私たちは、赦し合うことが出来ます。
 そしてこの和解は、緊急性のあるものです。マタイ5章25-26節は、その緊急性を教えています。そしてこれは、私たちの人間関係の事だけではなく、私たちと神様との関係についても言われていることだと思います。もし私たちの心に誰かを赦せない、という思いがあるなら、あなたと神様との関係をしっかりと見直すことが必要かもしれません。神様が与えてくださる和解をしっかりと心に持ち、赦されている事を感謝し、赦す心を与えていただきましょう。

 私たちは、私たちの心が神様の愛に満たされることを祈り求めましょう。神様に愛されている者として愛を実践する事が出来るように助けていただきましょう。私たちは、イエス様の十字架によって罪赦されることを感謝しましょう。そして私たちは、神様と正しい関係を持つことと、人と正しい関係を持つことを願い求めましょう。私たちは、神様に「愛され、赦されて」います。私たちも人を「愛し、赦す」事の出来る者として成長させていただきましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、愛が足りなくて心が狭く、人を傷つけ悲しませてしまう者です。それだけではなく、神様をも悲しませてしまう者です。どうぞお赦し下さい。神様の愛で私たちの心を満たしてください。神様に愛されていることの素晴らしさをもっと教えてください。神様に赦されている恵みを忘れることがないように助けてください。私は、イエス様の十字架の救いを信じます。
 神様、私の心の内側をご覧くださり、必要な助けを与えてください。私たちは、神様あなたの助けと導きを必要としています。神様に愛され、赦されている者として、愛し合い、赦し合うことが出来るように導いてください。神様、私たちの人間関係を祝福してください。この祈りを私たちの救い主、イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」