<子どもたちへ>
イエス様の山の上でのお話が続きます。今度はイエス様は、「皆さんは聖書の言い伝えを聞いていますが、本当の意味はこれこれですよ。」と説明されました。先週はその内の「殺してはいけない」の深い意味を学びました。今日は、その仕上げです。実は、とってもレベルの高いことをイエス様はおっしゃっいました。なんて言ったのでしょうか?
イエス様はお弟子さんや集まって来た大勢の人たちの顔を見て言われました。「皆さん、自分の敵を愛してお祈りしてあげなさい。」……え?今なんて言いました?そう思った人もたくさんいたでしょう。「敵を?愛しなさいって…?」「無理!」そんな声も上がったかもしれません。皆さんも同じように思うかもしれませんね。
イエス様はみんなを見つめて言いました。「天の父なる神様は、良い人も悪い人も太陽で照らして恵みを与え、雨を降らせて水を与えて下さるでしょう?優しくしてくれる人だけに優しくするのでは、神様の子どもとしては足りないのですよ。」
私たちは意地悪な人や、嫌なことを言ってくる人を敵と感じてしまうと思います。そんな相手を好きになんてなれないよ!と思うのは当然のことです。でもイエス様が言われた「愛する」というのと、「好きになる」とは別のことです。好きにはなれなくても、その人のひどい行いを神様が止めて下さるように、その人が悔い改められるよう祈ること、それが「愛すること」です。「好き、嫌い」というのは気持ち、感情です。でも「愛して祈る」というのは意志(=心を決めること)によってすることです。その一番のお手本は、イエス様ご自身です。イエス様は自分を十字架に付ける兵士たちのひどい行いに、心も体もずたずたに傷つきました。でも「父よ彼らをお赦しください。」と祈られたのでしたね。
私自身も、イエス様と同じように行うには神様の助けが必要だなあ、と強く感じます。普通の人間には敵を愛してお祈りして上げるのは、とても難しいのです。だからこそ「イエス様のおっしゃるように、私は心を決めました。愛して祈ります。こんな私に愛を与えて下さい。」そう祈っていきましょう。そして天の神様とイエス様に似た人になって行けるよう、成長させて頂きましょう。
<祈り>
神様。いじわるな人、好きになれない人がいますが、その人のために祈ることを教えて頂きました。神様からの愛が必要です。どうぞイエス様の教えに従おうとする強い決意と、神様からの助けを私に与えて下さい。そして段々とイエス様に似た人になれますよう、お導き下さい。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
<適用>
「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」 マタイの福音書5章44節
イエス様はこんな難しい教えを私たちにお話になって、出来ると思ったのだろうか?とため息をつきたくなる方がいるかもしれません。中川健一先生が聖書の解説サイトを運営しておられますが、初心者の方からこんな相談が寄せられていました。「山上の垂訓の中にある命令は、私にはとても実行できないような内容です。読んでいて辛くなります。どう理解すべきでしょうか。」
中川先生はいくつかのことを答えておられますが、特に大切な点をご紹介します。「山上の垂訓は、救いに至る道を教えているのではありません。これを守れば天国に入れる、ということではないのです。…辛くなる理由は、これでは自分は救われない、と感じるからではないでしょうか。もし山上の垂訓が救いの条件であるなら、救われる人はひとりもいません。」イエス様の救いは「悔い改めと信仰」によって与えられるものですから、混同しないようにすることが大切です。
中川先生はまたこうも答えられました。「イエスは…神の義を手に入れた人たちの特徴を上げています。山上の垂訓は、信仰によって義とされた人に対して語られたもので、どうすれば神に喜ばれる生活ができるかを教えています。」つまり、信仰の結果にふさわしいあり方を教えていらっしゃる、ということです。ですから、めげずにあきらめずに、学んで参りましょう。
1.愛の教え
まず学んで行きたいのは、聖書に見る愛の教えです。当時のユダヤ教の伝承「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」と言われていました。これは聖書の教えのように思えますね。前半の部分はレビ記19章の「自分の隣人をあなた自身のように愛しなさい」に確かに書かれています。では後半はどうでしょうか?実は「自分の敵を憎みなさい」という言葉は聖書の中にはありません。にも関わらず、この愛の教えは当然のように敵への憎しみとセットで解釈されました。ユダヤ人から見ると「隣人」とはユダヤ人、「敵」は異邦人でした。仲間を大切にして敵はむしろ憎む、というのが、常識だったのです。
しかしイエス様は、神様の教えを正しく教えてくださいました。それが今日の中心聖句である44節の後半です。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」これは、私たちの周りにいる人は「敵」などではなく「隣人」なのだ、と言う事ではないでしょうか。あの人は味方、あの人は敵、と心の中で線引きを初めて始めてしまうと神様のみこころから遠ざかってしまいます。
私たちの側がだれをも敵と見なさない、と決意していても、私たちに対して敵意を持ち、害をなす人は残念ながら存在します。山上の説教冒頭の八福の教えでも、信者を「ののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせる」人々に言及されています。しかしそういう存在すら「隣人」である、ということをイエス様は教えられたのです。自分で敵を作り出すのではなく、神様の目線を私たちに与えて頂きたいものです。
2.本当の敵
2つ目に学びたいこと、それは私たちが意識すべき本当の敵とは誰か、ということです。それはエペソ書6章12節に書かれています。お読みします。「私たちの格闘は血肉に対するものなく、支配、力、この暗やみの世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」
この世界は罪に満ちています。迫害のみならず、犯罪、虐待、不正などなど、悪を行う存在が、こちらに対して敵意をもって迫ってくる場合があります。だからこそ、神様の御言葉に耳を傾ける必要があるのです。目の前の誰かを敵と見なすのは、相手の「血肉」と戦おうとしていることです。血肉が相手の戦いは間違ったものであり、神様が与えて下さる勝利とは程遠いものしか得られません。
では誰と戦うのでしょうか?暗やみの支配者、もろもろの悪霊と呼ばれる悪魔、サタンこそが、真の敵なのだと聖書は教えています。神を知らず罪の中を生きる人たちが、実は背後で策略をもって働くサタンの支配のもとに罪を犯している、というのが真相なのです。このサタンの策略を打ち砕いてくださるよう祈るのが、敵に対する私たちの攻撃です。相手の罪に満ちた言動にこちらの血肉が感化されてしまって、復讐をすることがないように注意しましょう。
「自分を迫害する者のために祈る」とは、サタンの支配に屈している人が解放され、神の前に悔い改め救われるよう祈る、ということなのです。とりなしの祈りという、神に喜ばれ受け入れられる祈りの戦い。それこそが「敵を愛する」ということではないでしょうか。
3.無条件の神の愛
最後に私たちが知らなければならないのは、無条件の神の愛にならう、ということです。
「自分を愛してくれる人を愛する事、仲の良い相手にだけ挨拶することは、誰にでも出来ます」とイエス様はおっしゃいました。悪人でも神を恐れない人でも、自分にとって大切な相手には良いことをします。しかしイエス様は、「神の子であるあなたたちは、それで満足してはいけません。父なる神が完全な愛で分け隔てなく愛しておられるように、あなたたちも分け隔てなく愛する者、完全な者となりなさい。」と教えられました。
私たちを敵視する相手を愛するこのような愛は、生まれながらの私たちの中にはありません。天の父なる神様が私たちに無条件の愛を注いで下さることで、だんだん神様に似たものとされていくのです。そして一番のお手本はやはりイエス様ご自身です。私たちの身代わりになるために、無条件で命を捨てて下さったイエス様です。ご自分を傷つけ苦しめた兵士たちの赦しを、十字架上で祈られたイエス様です。そのイエス様が、「あなたも無条件で他者を愛し、とりなしの祈りを捧げなさい」とお語りになりました。人には不可能なこのお言葉ですが、主なるイエス様の御言葉です。「愛を与えたまえ」と祈り求めつつ、意志をもって敵対者を愛し、とりなしの祈りを捧げて参りましょう。神様の御業を信仰と忍耐をもって待ち望みましょう。
<祈り>
神様。敵を愛し祈れ、という主イエス様のみことばを学ばせて頂きました。私たちの本当の敵はサタンであって、周りにおかれた人たちは皆隣人であると確認させて頂きました。敵対してくる人々を愛するということは、たやすいことではありません。愛の神様、どうぞ私たちに与える愛を注いでください。私たちを助け、愛の神の子どもにふさわしく、敵対者の悔い改めと救いを祈り求める者として下さい。御名によって祈ります。アーメン。