2021年8月1日(日)礼拝説教 マタイの福音書26章25-34節 「神の国と神の義」

<子どもたちへ>赤松由里子師

 今日も、イエス様が山の上で語られたお話を学んで行きましょう。皆さんの宝物は何ですか?ゲーム機だったりお気に入りのおもちゃ、アクセサリーなどでしょうか?お金だよ~!という強者もいるかもしれませんね。物でなくても、友達、勉強、部活、将来の夢なども、大切ですね。では、皆さんには心配なことはありますか?成績が悪くて勉強面が心配、友達とうまく行かなくて心配。コロナ禍でお父さんお母さんのお仕事がうまくいかなくて、お金が足りるか心配…というお友達も世の中には大勢います。
 こうして見てみると、人が大切に思う物事と、心配を感じる物事は、何だか共通点がある気がします。イエス様のお話を聞いていた人たちも貧しい人が多く、生活の心配を抱えていました。心配ごとを抱えて生きる私たちに、イエス様は神様に信頼して生きなさい、と教えて下さいましたよ。さあ、お話を聞いて行きましょう。

 イエス様はおっしゃいました。「地上に宝を蓄えるのではなく、天に宝を蓄えなさい。」地上の宝とは、たとえばお金のように、人々が皆欲しがるもののことです。イエス様は「地上の宝は無くなったり傷物になることもあり、いつまでも頼りになるわけではありませんよ。」と言われました。
 天に宝を蓄えるとは、神様を信じる心、神様に喜ばれる生き方のことです。天に積み上げられた神様に喜ばれる生き方は、決して失われず傷物になることもなく、いつまでも残って私たちをも喜ばせてくれます。本当の安心を与えてくれるのは神様であって、神様を頼りにすることが大切なのですね。

 そのことがよく分かるように、イエス様は空の鳥を指差して言われました。「食べ物や飲み物のことで思いわずらうのはやめなさい。空の鳥を見なさい。エサのために種まきや収穫をして働く鳥などいませんが、神様がエサを与えてくれています。鳥よりもっと大切なあなたたちに、神様は必要なものを与えて養って下さいます。
 また周りで咲いているきれいな花を見つめておっしゃいました。「着る物のことで心配するのはやめなさい。」今とちがって服は貴重品でした。今着ている服が擦り切れたら次はどうしよう、というのは人々の切実な心配でした。そんな人々におっしゃいました。「この美しい野の花を見なさい。きれいにするお金を稼ごうと働いたり、自分で服を縫ったりしていますか?ちがいますね。大金持ちだったソロモン王様の服でも、こうした花の美しさにはかないませんでした。こんなにきれいに咲いているのは、神様がそう装わせて下さるからですよ。ましてあなたたちにはもっと良くして下さるはずです。」

 最後にイエス様はこう言われました。今日の中心聖句を読みましょう。神の国と神の義を求めるとは、神様が何を喜ばれるのかみこころを求めて従う、ということです。神様を一番にするなら、その人に必要なものはすべて与えられるというのです。神様に信頼して歩んでいる中で、「ああやっぱり大変!」と感じる時があるでしょう。でもその日一日を精一杯生きれば良いのです。明日のことは神様がちゃんと備えをして下さいます。神様に守られていることに信頼して、思いわずらわないで今日すべきことに精一杯取り組んでいきましょうね。

<祈り>
 神様。私たちを大切にして下さり、必要を満たして良い物を下さり、ありがとうございます。地上の宝を増やすことに心奪われずに、天に宝を蓄える生き方が出来るようお助け下さい。神様を一番にする歩みをいつも選びとることが出来ますよう、お導き下さい。思いわずらいではなくて、平安な心で神様に信頼させて下さい。御名によってお祈りします。

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」  マタイの福音書6章33節

<適用>赤松勇二師

 様々なことが言われていますが、今年東京オリンピックが開催されています。コロナ禍での開催、新型コロナウイルス感染防止対策という異例の状況の中で、選手たちもストレスを感じているのではないかと思います。スポーツ選手たちは、世界大会だけではなく、オリンピックを目指して練習と調整を続け、オリンピックの時に最高のプレーが出来るようにします。そのような選手は、オリンピックを目標とし、オリンピックを第一に過ごして来たことでしょう。それでも思うようにプレーできないということがあります。難しいなぁと思います。
 私たちは、人生という道を進むために、何を目指し、何を第一にしたら良いのでしょうか。イエス様の言葉に耳を傾けましょう。

Ⅰ;神様が養ってくださる

 私たちは「神の国と神の義」を求めましょう。イエス様は、「そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」と約束してくださいました。その理由は、神様が、私たちを養ってくださるからです。イエス様は、「心配したりするのはやめなさい」と言われました。イエス様は、何について心配しないようにと言われたのでしょうか。イエス様は、「何を食べ、何を飲みと命のことで心配したり、何を着ようかと体のことで心配するのはやめなさい」と言われました。このことは、食べたり飲んだりすることを止めなさいという事ではありません。極端な考え方をすると、「食べたり飲んだりすることを考えない」とか「洋服に気を使わなくてもよい」、「命の維持について考えなくてもよい」となるでしょう。これは極端な受け止め方です。イエス様は、「何も考えなくてよい」と言っているのではありません。私たちは、自分たちの生活に必要な事は、考えるし、気にかけるし、そのために一生懸命になるのです。イエス様は、それを否定しているわけではありません。ここでイエス様が言っている事は、日常の生活の中での必要なことについて、ことさら心配しすぎる事、終始不安に思う事を注意しているのです。

 「心配」という言葉を「広辞苑」で調べてみると、「心を配って世話すること。心づかい。心にかけて思い煩うこと。不安に思うこと。気がかり、うれえ」とありました。「心を配って世話をする」とか「心遣い」のような心配の仕方なら問題ないと思います。しかし私たちの心配事は、それだけではなく、心配しすぎて思い煩いとなり、思い煩いが「不安」になって心を覆いつくしてしまいます。そのうちに私たちの心の中でそれらのことが、「憂い」となってしまうのです。そうなると私たちは、神様に心が向かなくなります。なぜなら、私たちの心が「心配事」で満たされ、それだけを見つめてしまうことになるからです。私たちが様々な事について必要以上の心配をする時、それは、神様への信頼がなくなり、信仰が薄くなっていくことと直結して行きます。ですからイエス様は、30節で「信仰の薄い人たちよ。」と言っておられるのです。という事は、神様への信頼度が低いと私たちは、様々な事柄の中で必要以上に心配することになるのではいないでしょうか。その結果、私たちの心は、思い煩いや不安。憂いに支配されることになってしまします。そうなると私たちは、神様を見上げることも、信頼することも、御言葉を聞くことも出来なくなってしまいます。だからイエス様は、25節で、必要以上に心配することはやめないと言っておられるのです。

 イエス様は、私たちが心配しないでいられる理由を説明してくださいました。イエス様は、「空の鳥を見なさい」と、空の鳥をじっくり見て、そこから学ぶようにと私たちに勧めるのです。空の鳥は自分のいのちのために種まきをせず、刈り入れもしません。けれども鳥は、何もしていないのではありません。鳥たちは、自分たちの必要のために餌を探します。しかし心配はしていないでしょう。鳥たちは、どこに何があるかを知っていて、必要な食料を得ることが出来るからです。なぜでしょうか。それは、その鳥一羽一羽を神様がきちんと養っていて下さるからです。私たちは、鳥よりもすぐれた者で、神様の養いの中にあるのです。私たちは、鳥よりもすぐれた者どころか、私たちは神様にとってとても特別な存在なのです。しばらく前に開いた聖書箇所イザヤ書43章4節の御言葉を覚えていますか。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」一羽の鳥が神様の御手の中にあるのと同じように、私たちの命、人生が神様の御手の中にあるのです。神様は私たち一人一人を確実に養ってくださるのです。
 皆さん、「空の鳥を見る」ためには、どんな行動をとりますか。下を見たままでは空の鳥を見る事は出来ません。顔を上に上げ、空を見上げる事が必要となります。これは、顔を上げて主なる神様を見上げるという励ましでもあるように思います。私たちは、様々な事について心配し、時にうなだれ下を向くことがあるでしょう。しかしイエス様は、心配する事はない主なる神様が私たちを養ってくださると約束してくださいました。私たちは、顔を上げ、主なる神様を見上げて歩みましょう。

Ⅱ;神様がよくしてくださる

 私たちは、「神の国と神の義」を求めましょう。イエス様は、「そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」と約束してくださいました。私たちに必要な事は、神様が与えてくださいます。神様が、私たちに良くしてくださるのです。
 私たちは心配したからといって、寿命を延ばすことは出来ません。いのちを延ばす事は、私たちの手に負えないことなのです。私たちは、自分で何とかできる事柄については、苦労をしないし、心配もしません。多くの場合、自分にはどうしていいか分からない事柄や、自分の手に負えないものに関して心配します。また、心配事を探してしまい、本来なら心配しなくてもよいことを心配し、不安になっている場合もあります。その結果私たちは、ストレスを感じ、身も心も疲れ果ててしまうのです。

 イエス様は、「野の花がどうして育つのか、よく考えなさい」と言われました。野の花は、働きもせず紡ぎもしません。野の花は、自分が咲くために何も労することがないのです。きれいに咲こうなどと考えてもいないのです。けれども見事にきれいに咲き誇ります。この自然の美しさには何ものも勝つことは出来ません。イエス様は、野の花と比較するのにソロモンを例にしています。ソロモンは、ダビデの次にイスラエルの王となった人物です。このソロモン王の時にエルサレム神殿が建てられました。その神殿は、大量の金、銀、青銅、杉材、宝石などが使用されました。その荘厳さは、エルサレムを訪れた周辺諸国の使者が言葉を失うほどのものでした(Ⅱ歴代9章等)。「豪華絢爛」という言葉は、ソロモンのためにあるのではないかと思おう程だという事ができるでしょうか。しかしイエス様は、「ソロモンは野の花ほども着飾ってはいなかった」と言います。神様は、一瞬の短い美しさである野の花々を美しく、色とりどりに装ってくださるのです。そんな自然の小さなことに目を留めて下さる神様が、人間のことを忘れるでしょうか。

 今年我が家の庭では、沢山の蝉が羽化しています。先日は、羽化している途中の蝉の様子を見る事が出来ました。蝉の地上での時間は、7日間程度長くて数週間と言われます。けれども蝉は、命の殆どを土の中で過ごすのだろうそうです。私たちがよく見かける蝉はアブラゼミ(クマゼミ)でしょうか。アブラゼミは、卵の状態で1年目を過ごし、ふ化して幼虫になったら土に潜り5年間かけてゆっくり成長するそうです。ようやく7年目に地上に出てきて羽化し成虫になります。産卵から成虫まで実に7年という長い年月がかかります。そのほとんどは、人の目につかない土の中となるのです。しかし羽化する季節が来ると、蝉はちゃんと地上に出て来て羽化して成虫となります。「17年ゼミ」というのもいて、17年間土の中で過ごし、地上に出てきて成虫となります。これも神様の御手の働きです。このように自然界を美しく装って下さる神様は、自然界の中に生きている私たちに良くしてくださらないわけがないのです。

 私たちは、日々の生活のためだけではなく、健康のことを心配します。実は、健康のことに関する心配が大きいかもしれません。今は、新型コロナウイルス感染の拡大が続き、対策をしていても収束のめどがつかない状況にあります。そこには、「不安」しかない状態かも知れません。私たちは、健康のために気を付けますが、どれだけ気を付けても体調を崩してしまいます。だから余計に心配してしまうのです。けれどもこのことに関しても私たちは、必要以上の心配をする事はないのです。主なる神様は、私たち以上に、私たちの事を気にかけ、何が必要であるのかを知っていてくださるのです。ですから私たちは、何でも知っている神様に信頼して歩むことが出来ます。思い煩いと心配は、私たちの心を弱くし、心を乱し、生きる力と希望を奪います。しかし、私たちを決して忘れず、良くしてくださる神様を信じ信頼するとき、思い煩いと心配はなくなり、平安と生きる力と希望を得ることが出来るのです。
 そのことを信じますか。神様は、私たちに良くしてくださると約束しておられます。

Ⅲ;神様を第一とする

 イエス様は、「神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」と約束してくださいました。その意味する事は、「神様を第一」にするという事です。私たちが、心配に心が支配され、思い煩いと不安の中を生きるのか、それとも「それに加えて与えられる」と平安でいられるのかは、私たちの心が何を見ているのかにかかっています。イエス様は、「まず」と言われました。これは、最優先に求めるべき事という事です。私たちが、もっとも優先して求める事、求め続けるべき事は、様々な事柄に対する心配ではなく、「神の国と神の義」です。神の国を求めるというのは、神様の御言葉に従い、神様の教えを守ることです。表現を変えると、私たちの心が神様に向けられることです。そして神様が、私たちの人生の全ての面で御手を差し伸べてくださり、守り支えてくださると信頼することです。神の義を求めるというのは、神様の喜ばれること望まれることを行うことです。そのように神様を信頼していく時に、私たちに必要なものを神様が与え、私たちを養い、私たちによくしてくださるのです。
 だから何を食べ、何を飲み、何を着るか、ことさらに心配し続けることを止めましょう。また様々な問題や悩みを神様が知っていてくださることを覚えましょう。そしてそれに対する解決も神様は知っておられます。ですから私たちがまず第一に、最優先で求める事は、神の国と神の義です。

 最後にもう一つ私たちは、明日のための心配は無用です。ここで言われている「明日」は、未来のことです。「明日」になったらまた「明日」がやってきます。常に「明日」は存在し続けるのです。こう考えると明日は、未来のことと言い換えることが出来るでしょう。未来のこと、将来のことについて、ことさらに心配し続け、思い煩うことは無用なのです。私たちの歩みはその日その日に十分なすべきことがあり、労苦はその日その日に十分あるのです。だから私たちは、与えられた一日一日を神の国と神の義を求め、神様を第一にして歩みましょう。そすれば、私たちに必要なことは、主なる神様が必ず与えてくださいます。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。今日も神様の恵みによって生かされ、歩めること、このように礼拝できることを感謝致します。イエス様は、心配する事はないと語りかけてくださり、主なる神様が良くしてくださり、必要をすべて与えてくださると約束をしてくださいました。神様が、私たちのことを全てご存じて、本当に私たちに必要な事をも知っていてくださることを感謝致します。神様に満たされて、歩ませてください。そのために私たちは、「神の国と神の義」を求め続けて歩みます。どうぞ私たちの日々の生活を神様の祝福で満たしてください。
 新型コロナウイルス感染が続いています。どうか感染拡大をとどめて下さり、収束へと向かわせてください。医療従事者を守り、感染している方々を癒してください。神様、私たち一人一人の健康と仕事を守り、祝福し、導いてくださいますようにとお願い致します。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメンン。」