2021年8月8日(日)礼拝説教 マタイの福音書7章1-5節 「行いを吟味する」

<子どもたちへ>赤松由里子師

 東京オリンピックが閉会しますね。色々な競技で選手たちが競い合いました。私はリアルタイムであまり見ませんでしたが、ダイジェストはいくらか見ました。メダルを取れた選手には「おめでとう!」とか「感動をありがとう!」と喜びのメッセージが寄せられます。その一方で期待に応えられずに予選敗退してしまった選手には、厳しいことばや中傷ともいえるメッセージが届いたりしたそうです。それも、その人の人格まで否定するような悪質なものもあるそうです。こんな時に言わなくてもいいのに、選手の悪い所や気に入らないところを思い切り叩いてやろう、という人もいるのです。今の時代の闇の部分だなあと思いますし、人間の心の闇だとも思います。

 イエス様は私たちの人間関係についても教えて下さいました。それが今日のみことばです。マタイの福音書7章1節を一緒に読んでみましょう。「さばいてはいけません。さばかれないためです。」さばくとは、「あの人のこういうところが良くない」と批判することです。人のあら探しをしたり、けなしたりしてはいけません、というのがこのみことばの意味です。なぜイエス様は「さばいてはいけない」とおっしゃるのでしょうか?
 イエス様はこう言われました。「あなたたちが人をさばくのは、『目に小さなちりが入っているから取ってあげますよ』というようなものです。でもあなたの目には梁があるのに、それに気付かないのだからおかしなことです」。ちりはほこりや小さなゴミのことですが、梁ってなんでしょう?これが梁の写真です。家の天上近くで横に渡されて、建物の構造を支えるものです。とっても太くて丈夫なものです。イエス様は目に小さなちりが入って困っている人を、目に太くて大きな梁が刺さった人が助けようとするなんておかしいと、教えて下さったのです。 

 そのおかしい様子を表したのがこの絵です。こんな状態では、人を構うのではなく、自分の問題を解決する方が先ですよね。でも私たちは、なかなか自分の姿が見えないものです。本当は私たちには、周りの人をさばく資格などありません。自分にも欠点や弱さがあるからです。でもそこから逃げずに自分を見つめて「神様助けてください」と祈りましょう。目の中の梁がなくなるなら、ちりが目に入っている人を助けることが出来ます。順番は、まず自分を見つめるのが先なのです。

 一方で、良くないことは良くない、と言うのもダメなの?と疑問に思うこともあるでしょう。聖書では「柔和な(にゅうわ=やさしい)心で正してあげなさい。」と言われています。私たちが失敗したとしても、イエス様は「ダメなやつだ!用なしだ!」なんておっしゃいません。かえって「これからは罪を犯してはいけません」とやさしく言われるでしょう。そのようにやさしい言葉で周りの人に話していきましょう。完全な人はどこにもいません。ですからお互いに助け合って、歩んでいきましょう。

  <祈り>
 神様。私は自分の欠点や良くない所は見ない、見たくないと思いがちです。人のあらばかりを見つけて不満を持ち、裁きやすいことをお赦し下さい。まず自分の目の梁をしっかり取り除きたいと願います。周りの人に優しく接し、助け合って生活することが出来ますように、助けて下さい。御名によってお祈りします。

「兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。
見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。」
マタイの福音書7章4節

<適用>赤松勇二師

 私の友だちで、コーヒー店を経営している人がいます。彼は、自分でコーヒー豆を取り寄せ、焙煎しています。取り寄せる豆を厳選し、焙煎の仕方も変えながら、豆本来の味が出るように調整をしているようです。一度彼のお店を訪ねたことがあり、いろいろと話を聞きましたが、表面的な事しか分かりませんでした。彼は、豆の産地を吟味、豆を吟味し、焙煎の仕方を吟味しています。そうやって吟味されたコーヒーは、美味しかったです。
 イエス様は、私たちに、行いを吟味するようにと促しています。それは、私たち自身の心の吟味にもつながります。そのことで私たちの人生はどうなっていくのでしょうか。

Ⅰ;裁いてはいけない

 私たちは、自分自身の行いを吟味していきましょう。イエス様は、「さばいてはいけません」と言われました。この言葉は、私たちが心がけるべき言葉だと思います。ここでイエス様が「さばくな」と言っている言葉には、「分ける、判断する、見なす、決定する、裁く」と言う意味があります。「さばいてはいけない」と言われると、そんなことはしていないと思うかもしれません。けれども私たちは、多少の違いでも「あの人は違う」とか「それは違う、間違っている」とかすぐに言ってしまうのではないでしょうか。また、自分と違うことで相手を非難してしまうことがあるかもしれません。イエス様の言葉には、日常的にそして習慣的に人を批判し、非難し続けることへの注意が含まれているように思います。
 今、東京オリンピックが開催されていますが、ネット上では選手への誹謗中傷が絶えないようです。ネット上では、発言者の顔が見えませんから言いたい放題かもしれません。オリンピック委員会が、警告する程までになっています。私たちの生活は、インターネットの利用を止めることが出来ない状況にあります。SNSと言われるもので手軽に連絡を取り合う事が出来る便利な時代となりました。けれども、SNSを利用してありもしない事で誰かを傷つけることがあります。それが、自分勝手な裁きとなり、非難となり、誹謗中傷となるのです。私は、現代は「言葉」が軽く扱われているようにも感じています。ある人たちは、自分が使う言葉の意味を考えることなく口にしたり、SNSに書き込んだりしているのではないかと思うことがあります。また、ある人たちは、自分の言葉が相手にどのように受け取られるのかという事を想像できないのではないでしょうか。この想像力の欠如は、怖い現象です。

 自分は日常的にそんなことはしていないと思うかもしれません。イエス様は、私たちに「本当に裁いていませんか。本当に批判していませんか。愚痴や不平を言っていませんか」と冷静に自分を見つめるように言っておられるのです。しかしなにもイエス様は、無批判でいなさいとか、罪を見過ごしにしなさいと言っているのではありません。同じマタイの福音書7章15節では、「偽善者たちに用心しなさい」と教えています。ですから、私たちは、様々な判断をして物事を見極めることが必要となります。がしかしイエス様は、自分の判断基準で人をさばいてはいけないと言っておられるのです。それは、自分自身も同じ基準で判断され、裁かれるからです。私たちは、人を批判したと同じ基準で人からの批判を受けます。そしてイエス様は、単純に自分が同じように判断されるから裁いてはいけないと言っているのではありません。イエス様の言葉は、最終的に裁きを行うのは、神様ご自身であることを忘れてはいけないという忠告でもあるのです。マタイの福音書7章1節後半の「自分がさばかれないためです。」という言葉は、神様による裁きのことが意図されています。私たちは、自分自身が、神様の御前にいることを忘れてはいけないのです。神様は、完全に公平で正しい裁きをするお方です。

Ⅱ;自分をみつめる

 そこで大切になるのは、私たち自身が自分の行いを吟味する事です。イエス様は、私たちがまずどこに目を向けるべきかを教えてくださいました。私たちが、まずしっかりと見つめるべきなのは、自分自身です。
 良く聖書の読み方の説明で言われることがあります。それは、聖書で教えられている神様の御言葉を自分への勧めの言葉として受取るようにと言うものです。私たちは、自分自身が教えられている御言葉を、他の人に適用すべきではないのです。しかし私たちは、御言葉を自分よりも他の人に当てはめてしまうことがあります。例えば、「愛は寛容です」と言う御言葉を通して教えられる時、本当は、自分には愛があるだろうか、寛容な心を持っているだろうかと内省する必要があるのです。けれども、私たちは、いつの間にか「夫には寛容がない」「兄弟は愛に欠けている」「あの人は親切ではない」などと最終的に他の人へ御言葉を適用していることがあるのです。今日のイエス様の「さばいていはいけない」と言う言葉は、私たち一人一人に語られている言葉です。けれども私たちがもし、「イエス様はこう教えている。だからあなたは間違ている」と考えるとしたらそれは、間違った御言葉の受け取り方になります。私たちは、気をつけなければなりません。

 イエス様は、一つのたとえを通して、自分を見つめるようにと私たちに語っています(3-4)。「ちり」というのは、ほんの小さなごみ「木くず(おがくず)」のことです。「梁」とは、家の天井を支える太くて丈夫な木材のことです。「兄弟の目の中のちりに目をつける」という行為は、周囲の人のちょっとした失敗や欠点、罪をことさらに取り上げて、騒ぐことです。「自分の目の中の梁には気付かない」というのは、自分の心の中にある大きな罪や失敗や欠点を見向きもしない状態のことです。
 イエス様が、このように教えておられるのは、5-6章の流れから当然かもしれません。また5節に「偽善者よ」とありますから、イエス様はパリサイ人や律法学者を念頭にしていたのかもしれません。イエス様は、5章では律法で教えられている事柄を取り上げて教えました。6章では、パリサイ人や律法学者の祈りの姿勢と比較して祈りについて教えられています。イエス様の時代、ユダヤ人たちは、律法を守ることによって救われると教えられていました。だから人々は、神様の御心を求める事よりも、誰よりも律法に従い、誰よりも正しい生き方をすることが良いことだと思っていたのです。人々が律法を守るのは、神様に対してどのような生き方をするかではなく、人と比べてどれだけ優っているのかが大切となっていたのです。そのような状況では、「あの人は違う、その考え方、その行動は間違っている、あなたには罪がある」というものの見方しか生まれてこないのです。イエス様は、そのような考え方を改めるようにと勧めているのです。

 では私たちは、どうでしょうか。やはり私たちも、自分のことよりも他人の事の方が目につくものです。そして私たちは、自分の問題は棚に上げて、他人の問題ばかりを見ているということになってしまいます。私たちの社会には、このような人が結構いるものですが、私たち自身も例外ではないことを知っておく必要があります。
 私たちは、他の人の小さな欠点や失敗などが大きく見えてしまうのですが、本当は、もっと大きな欠点や失敗、罪を自分自身の心に抱え込んでいる状態なのです。ですから、イエス様は、「まず、自分の目から梁を取りのけなさい」と言われるのです。それは、自分を真摯に見つめることを意味しています。私たちは、他人の問題を取り上げる前に、自分自身が罪人であり、神様の救いを必要としているという心の問題を見つめ、悔い改める必要があるのです。
 私たちは、神様の御前で自分自身を見つめ、神様のお取り扱いを受け、神様との関係をしっかりと持つ必要があります。

Ⅲ;謙遜と柔和を

 では、イエス様は、人の欠点や罪を見ても見ぬ振りをするようにと言われたのでしょうか。決してそうではありません。イエス様は、私たちが自分自身を見つめ、神様の御前に悔い改める時、人の罪や欠点を冷静に見ることが出来、それを指摘することが出来ると言っておられます(5)。
 その時の注意点をパウロは、私たちに教えていますので、最後にガラテヤ6章1-5を読みましょう。

ガラテヤ人への手紙6章1-5節
兄弟たち。もし誰かが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分にだけは誇ることができても、ほかの人には誇ることができなくなるでしょう。人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。

 パウロは、もし私たちが何か他の人の罪や失敗を知ったのであれば、聖霊の導きを求め、柔和な心でそれを指摘することが大切だと教えています。その時もっと大切なことは、私たち自身も同じように誘惑を受ける者であり、失敗をする者であることを自覚するということです。私たちが、人を裁き批判しているような時、私たちの心には謙遜な信仰、柔和な心というものを失います。結果として、私たちの人間関係に亀裂が生じます。なぜならば多くの場合、裁きや批判には、愛が伴わないからです。愛のない心から出る言葉は、決して相手に届くことはなく、相手の心に響く言葉とはなりません。
 しかし愛のある心からの言葉、主にある柔和な心からの言葉は、相手に届きます。そのような者となる秘訣は、「自分の行いを吟味する」ことです。パウロは、自分自身の行いを冷静に吟味するならば、自分には誇りとすることがないことに気づくだろうと言います。とすればお互いを思いやり、お互いを支え合うことになるのです。

 イエス様は、「自分の目から梁を取り除きなさい」と言われました。まず、私自身の心を冷静に見つめ、罪を告白し、神様の赦しを求めましょう。そして私たちは、神様に愛の心、柔和な心、謙遜な心を与えていただきましょう。私たちは、神様に赦された者であり、神様の憐れみを必要としている者であることを忘れてはいけないのです。
 私たちは、自分の行いを吟味しましょう。私たちは、完全に正しく、公正な裁きをされる神様の御前を歩んでいます。私たちは、自分の行いを吟味しましょう。他人の問題をとやかく言う前に、自分自身が主なる神様の救いを必要としている事を認め、悔い改めて主に立ち返りましょう。私たちは、自分の行いを吟味しましょう。その時私たちは、愛も柔和も謙遜も足りない事実に気づくでしょう。神様から、愛と柔和と謙遜を与えていただきましょう。私たちの人生は、神様によってより豊かに、より祝福に満ちたものとなります。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様、私たちは、自分自身の心の内側を冷静に見つめることの苦手なものです。どうか、私たちに行いを吟味し、心の思いを吟味することのできる知恵を与えてください。そして神様らの御前に自分の罪を告白し、悔い改めて信仰をもって歩ませてください。そのようにして、神様によって豊かな祝福に満ちた歩みをすることが出来るように助けてください。
 神様、私たち一人一人を通して、神様の愛と救いを恵みが周りの人たちに広がっていくことが出来るように祝福を注いでください。一人一人の生活と健康と仕事が守られますようにとお願い致します。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」