2021年9月12日(日)礼拝説教 士師記13章1-14節 「主を呼び求める」

<子どもたちへ>赤松由里子師

 神様を忘れて罪を犯していたイスラエル人は、繰り返し外国から苦しめられていました。ギデオンの時はミデヤン人でしたが、サムソンの時はペリシテ人に支配され苦しめられていました。
 そんな中でのことです。イスラエルにある夫婦がいました。子どもがいませんでしたが、ある日御使いが現れて奥さんにこう言いました。「あなたは男の子を産みます。その子は、おなかの中にいる時から神様に捧げられた子です。決してその子の髪を切ってはいけません。イスラエルをペリシテ人から助ける人になります。」こうして元気な男の子が生まれて「サムソン」と名付けられました。
 神様の祝福を受けてすくすく育ちました。ムキムキですね!信じられないほどの怪力の持ち主でした。どれくらいかというと、町の門を引っこ抜き、山の上まで軽々と運ぶほどでした。ろばのあご骨を振り回してペシリテ人1000人をやっつけたこともありました。ですからペリシテ人は、サムソンをやっつけてやりたいと思っていました。

 怪力では無敵のサムソンでしたが、弱点がありました。大好きな女の人に頼まれると、嫌と言えない人だったのです。その頃サムソンは、デリラという女の人を好きになりました。ペリシテ人たちは「これはチャンス!」とデリラのところに来て言いました。「サムソンの力の秘密を探っておくれ。うまく行ったら大金を払うよ」。
 そこでデリラはお金欲しさにサムソンに言いました。「ねえサムソン。どうしてそんなに力持ちなの?どうしたらあなたは弱くなるの?教えてちょうだい。」最初のうちサムソンは適当に答えていました。「新しい弓のつるで縛ってごらん」とか「新しい縄で縛ればいいのさ」とか。でも言われた通りにしても、あっという間にそれを引きちぎってしまいました。
 デリラは怒ってサムソンを責めました。「まあ、あなたは私をだましたのね。今度こそ本当のことを教えてちょうだい!」毎日デリラに責められて、サムソンは死ぬほど辛かったと聖書に書いてあります。あんなに強いのに、女の人に怒られるのが辛いなんて、サムソンの性格が分かりますね。とうとう本当のことを言ってしまいました。「私は神様の命令で、一度も髪の毛をそったことがない。髪の毛をそられたら、私は力を無くしてしまうのだ」。
 デリラはサムソンが眠った隙にペリシテ人を呼んで、髪の毛をそり落とさせました。その時、神様の力はサムソンから取り去られました。デリラは大声で言いました。「サムソン!ペリシテ人があなたを襲ってきます!」。サムソンは起きて、「なんだと?いつものように怪力でからだをひとゆすりしてやろう。」と思いました。ところが…力が出ません。サムソンは、ペリシテ人に捕まってしまいました。両目はつぶされ、足かせがはめられました。牢屋に入れられ、そこで石臼を引かされるようになりました。これはデリラに秘密を話してしまい、神様のご命令を破った結果でした。しかし、サムソンの髪の毛はまた伸び始めていました。

 そんなある日、ペリシテの神でダゴンのお祭りが神殿で行われました。大勢の人が集まり、サムソンのみじめな姿を見せ物にすることになりました。連れて来られたサムソンは、「目が見えないのでそこの柱に寄りかからせて下さい。」と係の人に頼みました。柱に手をかけると、サムソンはお祈りしました。「神様。どうかもう一度私を強めて下さい。ペリシテ人をやっつけたいのです。」そして力をこめて柱を押しました。すると柱が折れて、ガラガラガラ!とダゴンの神殿が音を立てて崩れ落ちました。サムソンも沢山のペリシテ人も、みな亡くなりました。自分勝手なこともたくさんしたサムソンでしたが、神様の憐れみによって、イスラエルをペリシテ人から救うという働きを最後にさせていただいたのでした。
 力の本当の源は神様にあることを忘れてしまうと、私たちは大きな失敗をしてしまいます。しかし今日のお話から分かるのは、神様は悔い改める人を見捨てないお方だということです。神様を忘れたりしないよう、よく注意して歩んでいきましょう。もし失敗したとしても、悔い改めて神様に立ち返っていきましょう。神様は見捨てないお方だからです。

 <祈り>
 神様。私たちの力の源はあなたにあることを学びました。どうぞ神様を忘れたりしないように、お守りください。もし失敗することがあったら、悔い改めていきます。どうぞお守りください。御名によってお祈りします。

「主を呼び求める者すべて まことをもって主を呼び求める者すべてに 【主】は近くあられます。」  詩篇145篇18節

<適用>赤松勇二師

 私は、子どもの頃よく絵を描いていました。小学生の時は、交通安全ポースターなど様々なコンクールに絵を出し賞をもらっていました。朝の全校集会で、授賞式があると名前を呼ばれることが多かったのですが、呼ばれない時もありました。すると友だちに「あれ、赤松、今日は呼ばれないんだ」と言われる時もありました。私は、小学生の時は「自分は絵がうまい」と思っていましたが、そのようにちょっとでも高慢になるとすぐに下手になるのです。私の絵は、父や兄の協力があって完成することが多かったのです。私が、下書きで苦労していると父が助言をしてくれて、色塗りで悩んでいると兄や父が手伝ってくれました。ですから私の小学生の時の受賞の何パーセントかは、兄や父が受けたことになります。
 私たちの人生は、一人で生きているのではなく、周囲の助けがあって成立っています。そして私たちの人生の全ての事柄に主なる神様の御手がある事を知ることはとても重要だと思います。ですから私たちの毎日が、「主を呼び求める」日々となるようにしていきましょう。

Ⅰ;サムソンの母(士師記13章)

 まず主を呼び求めたのは、サムソンの母です。サムソンが登場する時代背景は、やはりイスラエルの苦境という事がありました。神様は、罪を犯して神様から離れたイスラエルへの裁きとして隣国ペリシテ人によってイスラエルを苦しめるのです。イスラエルは、40年間ペリシテの支配を受ける事となりました。しかしこの時、イスラエルの民が「主に叫び求めた」とは書かれていません。イスラエルの民は、神様を呼び求める事すら忘れてしまうほど霊的に堕落していたという事ではないでしょうか。そのような状態でしたが、神様はイスラエルを憐れんでくださり、神様ご自身から動いて士師を立ててくださるのです。そのために神様は、イスラエルのダン族のツォルア出身マノアの妻を選ばれました。彼女には、子どもが生まれませんでした。ある時、主の使いがマノアの妻に現れて、「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げました。しかも生れて来る男の子は、母の胎内にいる時から「ナジル人」とされているのです。
 「ナジル人」というのは、「主のものとして聖別された者」という意味があります。神様は、モーセを通して、人が神様に誓願を立てて自分自身を聖別して「ナジル人」の誓願を立てることを定めています(民数記6章)。ナジル人として特別な誓願をする人は、聖別される一定期間をナジル人としての規定を守って過ごす必要がありました。けれどもサムソンは、生まれた時から一生涯を主に聖別されたナジル人として過ごすのです。ですから男の子を宿す母もナジル人としての規定を守る必要がありました。

 彼女は、主の使いの言葉を聞いて、それを夫のマノアに伝えました。彼女は、主の使いが言ったことを理解できました。そしてそれが実現すると信じたのです。多くのイスラエルの民が神様から離れている時代にあって、マノアの妻は忠実な信仰を持っていたのです。けれども彼女は、具体的にどのように子どもを育てる必要があるのかを確認しませんでした。そこで彼女は、もう一度主の使いを送ってもらいたいと祈り願うのです。それは、夫のマノアも神様の御声を聞くためでした。神様は、この求めに答えて下さり、ご自身を表わされました。士師記13章の後半では、その様子が書かれてあります。神様は、マノアたちが聞いた事をしっかりと守り、ナジル人として歩むことを求められました。それは、産まれて来るサムソンも同じ事でした。こうしてマノアの妻は、男の子(サムソン)を出産しました。

 サムソンの母は、神様の言葉を聞き、更にそれを確認するために主を呼び求めました。神様は、この信仰から来る祈りに答えて下さり、神様ご自身の御心を明らかにしてくださいました。私たちは、聖書を通して神様の語り掛けを聞きます。けれども私たちは、聖書を読んでいてもすぐに理解できるものではありません。私たちは、聖書を読みながら「神様は、何を語ろうとしているのだろうか?」と考え込んでしまうものです。その時、私たちは、サムソンの母のように「神様、教えてください」と主を呼び求めましょう。すると神様は、私たちの求めに答えて下さり、御言葉の意味を教えてくださるのです。主を呼び求めましょう。

Ⅱ;主を求めないサムソン(士師記14‐15章)

 このような信仰深い両親のもとに生れたサムソンでしたが、彼は、主を求めることがない日々を過ごします。
 神様は、サムソンを大いに祝福され、誰もサムソンに歯向かえない程の「怪力」をお与えになりました。ある時、獅子が吠えたけりながらサムソンに向かってきた時、サムソンは主の霊に動かされ子やぎを引き裂くように簡単に獅子を引き裂き打ちのめしてしまったのです(士師記14:5-6)。またある時には、ペリシテ人1,000人がサムソンに向かって襲い掛かりました。サムソンは、ロバの顎骨で立ち向かってその1,000人を打ち負かしてしまったのです(士師記14:14-20)。別の時には、やはりペリシテ人がサムソンを狙っていた時、サムソンは、その町の城門を扉と門柱ごと引き抜いて担いで山の上に運んだのです(士師記15:1-3)。サムソンの怪力の前に、誰一人として対抗することが出来ませんでした。
 こうしてサムソンは、神様に立てられたナジル人としてイスラエルを20年間さばくのですが、決して模範的なリーダーではありませんでした。彼は、イスラエルの指導者としては、ふさわしくない行動ばかりをしています。先週学んだギデオンは、最初勇士ではなく、とても弱い人でした。しかしギデオンは、神様によって強くされ、奮い立ってイスラエルを救いました。サムソンは、最初から勇士でした。けれども彼は、多くの欠点、しかも神様への背信につながる欠点を持っていたのです。

 神様は、民数記6:1-21でナジル人として誓願を立てる事について定めておられます。ナジル人は、強い酒を飲まず、頭にかみそりをあててはいけないのです。死体に近づいてはいけないし、あらゆる汚れから離れて聖くなくてはいけないのです。その事は、両親に告げられていましたので、サムソンは当然それを聞かされていたはずなのです。しかし実際のサムソンの生活は、異邦人のペリシテ人の女性を妻とするのです。これは、明かに神様の御心に反しています。またサムソンは、自分が倒したライオンの死体を見に行き、そこにあった蜜を食べることさえするのです。これは、死体に近づいてはいけないという定めを破ったことになります。さらには、サムソンは、自分の思い通りにならないと力任せに行動することがありました。そしてサムソンは、強い酒を飲んではいけないという規定も破っていたのではないかと思われます。
 神様は、このようなサムソンの罪を見過ごしたり、彼の弱さをそれで良いとしたわけではありません。ただ、神様は、そのようなサムソンをお用いになり、イスラエルをペリシテ人から救い出すのです。サムソンの問題は、欲望に弱く、性の誘惑に弱かったと言う点にあります。またサムソンは、自分の力を過信し、その怪力が神様から与えられたものでることを忘れていたのです。サムソンは、神様から与えられた力を用いて、主に仕えるという自覚が足りなかったと言えるでしょう。けれども神様はなんと憐れみ深いお方でしょうか。主は、自由奔放なサムソンを用いてくださったのです。彼は、勝手な行動をして回りを困らせていますが、神様は、そのことを通してペリシテ人と争いを起こし、ペリシテ人を打ち破るという勝利を与えてくださったのです。

 その事を経験するたびにサムソンは、謙遜になる必要があったのですが、サムソンは、かえって高慢になり、自分の力を誇示するようになるのです。主に感謝する姿など見当たらないのです。このようなサムソンの姿は、反面教師として私たちに教えているように思います。けれども私たちは、サムソンを批判ばかりしていられないと思います。私たちは、何かに成功した時、何か人よりも優れていると評価をされた時、どのような態度を取るでしょうか。それを当然と受け止めるか、それとも神様からの恵みとして感謝するかどちらでしょうか。私たちは、口では謙遜を装うことは出来ますが、心の内側ではどんな思いを抱いているのでしょうか。冷静に自分自身を見つめることが必要です。人は、神様への感謝がなくなった時、高慢になります。神様の御言葉を心に留めなくなった時、人は、信仰の道から外れてしまいます。私たちは、気をつけて御言葉から教えられて歩みましょう。

Ⅲ;主を求めたサムソン(士師記16章)

 サムソンは、人生の最後の最後に「主を呼び求める」信仰者と変えられました。サムソンは、ナジル人としての自覚がないこと、性的な誘惑に弱いという欠点がありました。そのことのためにサムソンは、大失敗をすることとなりました。サムソンは、デリラという女性と出会います。デリラは、ペリシテの領主たちかの報酬を受けるためにサムソンから「怪力」の理由を聞き出そうとします。最初サムソンは、ごまかしていましたが、愛するデリラの再三にわたる問いかけに、とうとう自分がナジル人であり、髪の毛にかみそりをあててはいけないことを打ち明けてしまいます(士師記16:17)。サムソンは、髪の毛に怪力の秘訣があると思っていいました。けれども彼の怪力は、髪の毛ではなく、神様からの賜物として与えられていたのです。サムソンは、それを理解していませんでした。こうして主の霊は、サムソンを離れました。彼は、自分の力を過信し、主への信仰を失い、自分の力に頼ろうとした時、その力を失いました。そして決定的な敗北と屈辱を受けることとなりました(士師記16:18-22)。

 サムソンは、ペリシテ人に捕まり、目をえぐり出され牢に入れられ臼を引く屈辱を受けます。しかし剃られた髪の毛はまた伸び初めてきました。髪の毛が伸び始めたという事は、彼の悔い改めを表現しています。サムソンは、大失敗をして自分がどれほど的外れなことをして、神様を悲しませていたのかを思い知らされました。サムソンは、臼を引きながら主の前に悔い改めたのではないでしょうか。彼は、自分の髪の毛に力の源があったのではなく、主からの賜物であり、主の霊に満たされた結果の怪力であったことを知ったのです。そして間違った使い方をしていたことを悔い改めたのです。
 ペリシテ人の祭の時、サムソンは見せ物となるために大勢の人々の前に呼ばれました。その時の彼の言葉は真実です。「神、主よ。どうか私を心に留めてください。ああ神よ、どうか、もう一度だけ私を強めてください。(28節)」サムソンは、今こそ主によって力が与えられ、主の霊に満たされることの道を発見したのです。それは信仰の回復となりました。そして今自分が何をしなければいけないのか、主の御心をはっきりと知ることが出来たのです。主は、彼の願いを受け入れ、再び怪力を与えてくださり、人生の最後に大きな働きをすることが出来ました(士師記16:23-30)。

 私たちは、サムソンのことから何を学ぶでしょうか。サムソンは、その生涯でナジル人としての歩みではなく、言ってみれば神様の教えを無視した生き方をしてきた人です。彼は、怪力を与えてくださる神様に心を傾けることがありませんでした。しかし最後の時に彼は、悔い改めて罪赦され、神様の憐れみを受けることが出来ました。サムソンは、怪力が神様から与えられ、自分の人生が神様の祝福によって支えられている事を知ったのです。私たちは、自分の人生をどのように歩みますか。私たちは、人生の土台をどこに求めるでしょうか。信仰の土台を何に定めているでしょうか。私たちは、心のどこかで「自分の人生は自分で何とか出来る。どんなことでも自力で切り抜けることが出来る」と思っていないでしょうか。私たちは、自分で何とか出来ることもあるでしょう。けれども実は、全てのことが神様の憐れみであり、祝福であることを忘れないようにしましょう。神様は、私たちの祈りを聞き、私たちの罪を赦し、憐れみを注いでくださいます。神様は、私たちが自分の力に頼るのではなく、神様に頼る時必要な力を与えてくださいます。私たちが神様を呼び求める時、神様は私たちのすぐ近くにいて守り、導き、支えてくださいます。私たちは、いつも心から信仰をもって「主を呼び求めて」歩みましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちの日々の歩みが神様によって守られ支えられている恵みを感謝致します。御言葉を通して教えて下さり感謝致します。
 神様、私たちは、サムソンの母のように御言葉の真理を知るために主を呼び求めます。どうぞ神様の御心を教えてください。神様、私たちの心が高慢になり、神様を忘れることがないように助け導いてください。私たちは、自分の力に頼ることなく、神様を呼び求めて歩みます。神様、御言葉の約束のように私たちの近くにいてくださり、祝福で満たしてください。
 新型コロナウイルスの感染が一日も早く収束しますように。医療従事者が守られ、感染している方々速やかに癒されますように、神様の御手によって導いてください。神様、私たち一人一人の生活と健康と仕事をお守りください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」