2021年9月19日(日)礼拝説教 ルツ記1章6-18節「ルツの信仰告白」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>

 皆さん、明日は何の日が知っていますか?明日は「敬老の日」です。教会でも今日は、「敬老礼拝」としています。主に感謝をささげ、高齢の方々の祝福をお祈りしましょう。先週までの3回の礼拝でギデオンとサムソンを学びました。今日は、士師記と同じ時代の出来事を学びます。

 イスラエルのベツレヘムという町にエリメレクの家族が住んでいました。奥さんがナオミ、二人の息子(マフロンとキルヨン)の4人家族です。ある時、イスラエルに飢饉が起きました。飢饉というのは、作物が全く取れず、食べるものがなくなってしまう状態のことです。その状態が続くと困ってしまいますね。ベツレヘムに住んでいたエリメレク一家は、そのために一時的にイスラエルのベツレヘムか隣国のモアブの野に避難しました。彼らは、一時的な滞在と思っていたと思いますが、モアブの野にいる間に、夫のエリメレクが亡くなってしまいました。異国の地でお母さんと子供二人の生活となってしまいました。
 何年かたって、二人の子どもたち(マフロンとキルヨン)は、奥さんを迎える事となり、モアブの女性(オルパとルツ)と結婚しました。10年後今度は、二人の息子が亡くなってしまいました。何が原因かは分かりませんが、母のナオミは、夫と二人の息子を外国の地で天に送ることになってしまったのです。そうこうしているうちに、イスラエルの地域でまた、作物が取れるようになり、飢饉が終ったというニュースが聞こえてきました。そこで、ナオミは自分の町であるユダのベツレヘムに帰ることにしたのです。

 この時、二人のお嫁さん(ルツとオルパ)がついて行きました。お母さんのナオミは、最初二人が一緒にいてくれることが嬉しかったと思うのですが、途中で考えを変えました。モアブの女性がイスラエルに移り住むのは大変なことなので、ナオミは、お嫁さんのルツとオルパに「自分の家に帰りなさい。神様がたくさんの良いことを与えてくださるように」と言いました。二人のお嫁さんは、「そんなことを言わないでください。一緒に行きます」と答えました。けれどもナオミお母さんは、「それは大変な事だし、モアブにいれば再婚して家庭を持つ事も出来るのではないか」と二人を説得しました。
 オルパは、泣く泣く別れを告げて自分の家に帰って行きました。ルツは、そのまま残りました。ナオミお母さんは、「オルパは、自分の民の所に帰り、自分が拝む神々の所に帰って行きましたよ。あなたもそうした方が良いのではないか」と促しました。するとルツは、「お母さんにどこまでもついて行きます。お母さんの民は私の民です。お母さんの信じる神様が私の信じる神様です。」と答えるのです。ルツは、ナオミお母さんの生き方を見ていて、ナオミお母さんの信じる神様が本当の神様だと分かって信じたのです。こうして二人は、無事ベツレヘムに到着しました。

 ナオミの信じていた神様、そしてルツが信じた神様は、この世界を造り、人間を造り一人一人を愛し、導いてくださる本当の神様です。ナオミお母さんは、大変な苦しみを経験しました。けれども神様を信じる事を止めませんでした。ルツは、ナオミお母さんの苦しみを見ていたし、知っていました。その苦しみの中でも主なる神様が生きておられ、導いてくださることも知ったのです。
 僕たちの周りには、良い事だけがあるわけではありません。つらいことも大変な事もあります。でも忘れないでください。神様は、いつも僕たちのことを見ていてくれて、知っていてくれて、助け導いてくださいます。主なる神様だけが、僕たちの心を満たすことが出来ます。今週の御言葉を読みましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様だけが、僕たちの心を満たし守り、助け、導いてくださるお方だと信じます。ルツのように「僕の(わたしの)神様」と信じて告白して歩めますように。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」

「私は主に申し上げます。『あなたこそ 私の主 私の幸いは あなたのほかにはありません。』」 詩篇16篇2節

<適用>

 私たちの人生には、「どうしてこんなことが起るのか」と困惑するような出来事が起こります。問題の渦中にいる時には、その理由が分からないものですが、「あの経験はこの時のためだったのかもしれない」と経験したことが無駄ではなかったと分かる時がやって来ます。
 私は、高校3年生の時に受験した大学に全て不合格になる経験をしました。そのために私は、一年予備校に通い受験に備えましたが、次の年も落ちてしまい、私は大学ではなく専門学校に通う決断をすることとなりました。私は、それなりに勉強して大学受験に備えていました。でも結果は、私の考えていた道とはだいぶ違う方向となりました。私は、その理由とか目的を考えましたが、まったく分かりません。けれども、この時のためだったのかもしれないと思う時期がありました。私は、一浪しなければ出会えない人がいたし、その人と出会う事で、その人を教会に連れて行くことが出来たのです。全てのことに神様の御手がある事を知った出来事でもありました。
 ナオミもルツも、人生の土台に全能の主なる神様の御手がある事を知り、その必要を感じていた人です。

Ⅰ;ナオミの信仰

 ルツの信仰を見るためには、まず、ナオミの信仰を確認する必要があります。ナオミは、いつも主なる神様の存在を意識していた人という事が出来るでしょう。
 ルツ記の時代的背景は、「さばきつかさ」が治めていたころですから、士師記からサムエルが登場するまでの時代です。そのような時代のある時、イスラエルの地で飢饉がありました。ユダのベツレヘム出身のエリメレクとその妻ナオミと二人の息子は、飢饉から逃れるためにモアブの野に移り住みました。今でも異国の地で生活するのは大変ですから、ルツ記の時代彼らが異国の地で暮らすのは大変な苦労があったと思います。さらにその地で夫エリメレクは死んでしまいました。ナオミは、異邦人の地で未亡人となってしまいました。二人の息子がそれぞれモアブの女性のルツとオルパと結婚することになって、ナオミは少し安心したのではないでしょうか。けれども10年後、再び思いもよらないことが起ります。二人の息子も死んでしまい、未亡人3人が残されることとなってしまいました。この時、ナオミは、神様がイスラエルを顧みて豊かな実りを与えてくださったという噂を聞きつけてベツレヘムに帰る決心をするのです。

 ここでナオミの信仰がどこに表れているのかを確認しましょう。まず一つは、6節の「主がご自分の民を顧みて・・・」と言う表現です。この「顧みて」と言う言葉には、「訪れる、来る」という意味を持っています。この部分は、「神様がイスラエルを訪れてくださり、その状況をご覧になり祝福を与えてくださった。」と言い換えることが出来ます。ナオミは、全能の神様が自分の現状も顧みてくださっているという確信を持ったに違いありません。だからこそ、彼女はベツレヘムに帰ろうと決心したのです。
 さらには、ナオミの言葉にも彼女の信仰を見る事が出来るのです。ナオミは、「【主】」と言う言葉を使っています。ヘブル語の聖書では、「ヤハウェ」という語が使われていて、日本語の聖書では太字で表現しています。この言葉は、イスラエルの民にとって、聖なる神の名であり、気軽に口に出来ない言葉となっていました。ですからイスラエルの民は、「ヤハウェ」と言わずに「アドナイ」と言い換えているのです。ナオミがこの言葉を使うという事は、天地を造られ、全てを支配して導いておられる主なる神様を畏れ敬うナオミの信仰の現れなのです。だからナオミは、二人の嫁をモアブに返す時に「【主】があなたたちに恵みを施し・・(8)」と主なる神様が恵みを与えてくださるようにと祈るのです。ナオミは、イスラエルの地での飢饉と異国で夫と二人の息子を失うという苦しみと深い悲しみを経験しています。けれどもナオミの心は、主なる神様に向いていました。彼女は、「【主】の御手が私に下った(13)」、「【主】が私を素手で帰されました。・・・。【主】が私を卑しくし、全能者が私を辛い目に合わせられた(21)」と言っています。ナオミは、人生で起こる全ての事の背後に神様がいて、主なる神様の許しの中で一つ一つのことが起きていると受け止めていたのではないでしょうか。だから21節の言葉は、諦めとか愚痴ではなく、ナオミが全ての事柄の中心に主なる神様を認めていたということだと思うのです。その信仰があったからナオミは、諦めず投げやりにならず、主なる神様を見上げ続けることが出来たのです。

 私たちは、生きている中で様々な事を経験します。それは、決して良い事だけではありません。自分には理解できない事が起きたり、マイナスだと思えることもあります。良い事よりも、辛い事や悲しい事等のほうが多いかもしれません。そういう中で私たちは、悩み、苦しみ、多くの葛藤を覚えるのです。では、私たちが経験するマイナスと思える事は、神様の導きとは関係がないのでしょうか。中には、私たちの罪や自分の失敗でつらい経験をすることもあるでしょう。しかし私は、マイナスだと思える様な事の中にも神様はいてくださり、神様の御手は必ずあるのだと信じます。主なる神様は、その事を通して私たちを教え、導き、祝福を与えようとしておられるのではないでしょうか。

Ⅱ;ルツの信仰告白

 ナオミの信仰の姿勢は、ルツの心に影響を与え、ルツの信仰告白へとつながって行きます。
 ナオミは、二人の嫁を伴ってベツレヘムへの帰途に着きました。けれどもナオミは、神様が真実を尽くして導いてくださるようにと祈りつつ、二人の嫁を実家に帰そうと説得を始めました。しかし、二人ともナオミの説得を受け入れず、ベツレヘムまで着いていくと主張します。それほどこの3人の絆が強く深いものとなっていたのです。しかし、モアブの女性が、イスラエル人の中で生きていくのは大変ことです。異国の地で生きて行く困難をナオミは既に経験していましたから、彼女は、二人にそんな苦労を負わせたくなかったのです。ナオミの説得は、続きます(11‐13)。ナオミは、もう息子を持つことが出来ず、もし息子を得たとしても成人するまで待たせることになる。若い娘を未亡人のままにしておくことは出来ないと考えます。

 弟嫁のオルパは、姑のナオミの勧めに従ってモアブの地へ帰っていきました。一方ルツは、最後まで姑のナオミにすがり付いていました。ルツは、長男の嫁としての責任上、ナオミから離れられないと考えていたわけではありません。ルツは、「嫁と姑」という絆以上のものを持っていたのです。ルツは、ナオミの再度の促しに対して「あなたの行かれる所へ行き、あなたの住まれる所に私も住みます(16)。」ときっぱり言い切りました。それだけではなく、ルツは、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です(16)。」と力強く告白するのです。ルツは、10年間のナオミとの生活の中でイスラエルの神様に対する信仰を持つようになったのです。それはモアブの地にあってナオミが、忠実に信仰を守り、神様の戒めを心に留めていたことを示しています。それだけではなく、ナオミは、息子だけではなくモアブ人の嫁に対しても神様の戒めを伝えていたことを物語っているのです。
 先ほど、ナオミが使う「【主】(ヤハウェ)」の言葉に注目しましたが、ナオミは、モアブという異教の地であっても主の御名だけをあがめ、主だけを証ししていたのです。だからこそルツは、この全能の主なる神様への信仰を持つようになったのではないでしょうか。もう一度今週の御言葉(詩篇16:2)を読みましょう。ルツは、ナオミの苦労を見て知っていました。ただそれだけではなく、ルツはどのような状況の中でも主なる神様だけを見上げ、信じ、信頼して歩んでいるナオミの信仰も知ったのです。だからルツは、自分も夫が亡くなるという悲しみを経験しても、主なる神様への信仰を失う事がなかったのです。ルツは、今日の御言葉にあるように、主なる神様こそ祝福を与えてくださるお方であり、幸いは主なる神様から来ることを信じたのです。ルツは、そのような信仰を告白し、主なる神様だけを礼拝すると告白するのです。

 私たちにとって「信仰告白(宣言)」はとても大切なことです。私たちが口に出す言葉は、私たち自身に影響を与えます。マイナスの言葉を使っていると心がマイナスのほうに向かっていきます。しかしプラスの言葉を口にすると私たちの心は前向きに、上向きになって行きます。ですから「あなたこそ私の主、私の幸いはあなた(主なる神様)のほかにはない」と宣言し告白することによって、私たちの心は神様によって満たされて行きます。神様は、私たちの告白を聞き、私たちに御手を差し伸べ、さらに多くの祝福を与えてくださるのです。
 皆さん、私たちはナオミのように、周囲の人たちに良い影響を与えるように信仰を表現しているでしょうか。また私たちは、ルツように主なる神様だけを礼拝し、主なる神様だけを信じ、主なる神様に幸いがあると信仰を告白することが出来るでしょうか。
 ルツは、ナオミの信じる神様を見上げ「あなたの神は私の神」と告白しました。それは、天地を造られた神様こそ、まことの神様であり、私の人生は主なる神様によって祝福されるという告白でもあります。
 ナオミは、どんな事柄の中にも主なる神様の御手を認めていました。そこに人生を歩む力の源があります。私たちもこのような信仰を持って主なる神様を見上げ続けて行きましょう。
 私たちは、どのような言葉で信仰告白をするでしょうか。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。今日の礼拝を感謝致します。神様、私たちは「ルツの信仰告白」を自分の信仰告白として歩みます。私たちの人生は、神様によって支えられ、守られています。全ての事柄の中に主の御手がある事を信じます。
また私たちは、「あなたこそ私の主です」と告白して歩みます。また「私の幸いは、主なる神様以外にない」と信じます。神様、一人一人の歩みを導き、祝福し、良いもので満たしてください。
 神様、新型コロナウイルスの感染拡大を収束へと導いてください。感染している方が癒され、医療従者を守り、必要な医療を行う事が出来るように助けてください。日本に世界に神様からの平安と慰めが溢れますようにとお願いします。御心が天で行われるように地でも行われ、主の栄光が現わされますようにと祈ります。私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」