<子どもたちへ>
皆は、普段の生活の中で誰の声を聞いていますか?多くの場合、親の声を聞き、学校の先生の声を聞いているかもしれません。時には、聞いていても耳に入って来なくて、返事をしないという事もあるかも知れませんね。僕たちにとって、周りの人の声を聞くという事はとても大切な事です。そしてそれ以上に神様の声を聞くことが大切です。今日は、神様の声を聞くこと、聖書の御言葉から教えられるという事について見て行きましょう。
イスラエルにまだ王様がいない時代で、シロという場所がイスラエルの中心地であり、そこに祭司エリがいた時のことです。一人の少年サムエルが、祭司エリのもとで神様に仕えていました。サムエルのお母さんは、ハンナと言って、なかなか子どもが与えられなかったのです。そこでハンナは、子どもが与えられるように涙を流して神様にお祈りをしたのです。その詳しい事は省略しますが、神様は、ハンナの祈りを聞いてくださって、サムエルが生まれたのです。
サムエルが乳離れした時(恐らく3-4歳くらいだったと思われます)、ハンナは自分の誓願の通り、サムエルを祭司エリのもとに預けました。こうしてサムエルは、祭司エリのもとで神様の御前に仕える事となったのです。その後、何年か経ってからでしょうか、サムエルの人生を変える出来事がありました。
ある時、神様が「サムエル、サムエル」とサムエルを呼ばれたのです。しかし最初サムエルは、神様の声だとわからず、エリに呼ばれたと思いエリの寝室に急ぎます。この時の時間帯は、明け方前です。サムエルはぐっすり眠っている時間です。
皆が、熟睡している時にお父さん、お母さんに呼ばれたらどうしますか?「うん、なあに?眠いんだけど」と言いながらしぶしぶ起きて行くでしょうか。それとも「もう、うるさいな。」の一言で起きる事はないでしょうか。
サムエルは、すぐに起きて、祭司エリのもとに行き「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言うのです。エリは、呼び付けていないから、「呼んでいないよ。布団に戻って寝なさい」と言いました。そんなことが3回繰り返されました。僕だったら3回も続いたら「もう、なんだよ~。」と言ってしまうか、布団の中から「はーい。なんでしょうか」と大声で返事をしてしまう所ですが、サムエル少年は違いました。サムエルは、3回ともエリのもとに行き「はい、ここにおります」と答えるのです。サムエルの忠実さと言うか、素直さを垣間見ることが出来ますね。
エリは、3度目の時に、主がサムエルを呼んでおられることに気付きました。そしてエリは、今度呼ばれたらこのように答えなさいとサムエルに教えました。4度目に神様がサムエルを呼ばれた時、サムエルは言われた通りに「お話ください。しもべは聞いております。」と答えて、神様の言葉を聞きました。それは、祭司エリの家に対する神様の裁きの言葉でした。
この時のサムエルの姿勢は、私たちに大切な事を教えています。サムエルは、「お話ください。しもべは聞いております」と祈り心を持って神様の声に耳を傾けたのです。
今神様は、聖書の言葉を通して僕たちに語りかけてくださいます。ですから聖書を読む時、「主よ。お話しください。しもべは聞いております」と祈りながら、聖書を開くことが大切です。皆は、毎日聖書を少しずつ読み進める「通読」をしていますか。聖書の通読(出来れば1章ずつ)のチャレンジをしていきましょう。神様は、聖書の言葉を通して、僕たちの心に御声をかけてくださいます。聖書に書かれている事は、難しいと思うかもしれませんね。確かにそうかも知れません。だからこそサムエルのように「主よ、お話しください(教えてください)」と祈りながら読むのです。神様は、聖書の御言葉によって僕たちを教え、励まし、力を与えてくださいます。
祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様が聖書の御言葉を通して僕たちを教え、導いてくださることを感謝いたします。神様、僕たちが『主よ、お話しください。』と祈りつつ聖書を開き、神様の言葉を心に蓄えることが出来るように導いてください。この祈りを救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」
「主が来て、そばに立ち、これまでと同じように、『サムエル、サムエル』と呼ばれた。サムエルは『お話ください。しもべは聞いております』と言った。」
サムエル記第一 3章10節
<適用>
私は、小学生の時から聖書通読を始めました。最初の頃は、この通読と言うのが長続きしなかったのです。もともと本を読むことが苦手だったという事もありますが、新約聖書のマタイの福音書から読み始めたことも原因だったかもしれません。マタイの1章は、カタカナの前が続きます。私は、この段階でつまずいてしまい、すぐに断念してしまったのです。マタイ1章を乗り越えても、聖書を読むことは長続きしませんでした。今思い返せば、私は、聖書を読むことをそれほど大切な事だと考えていなかったです。しかし、聖書の御言葉から教えられ、励ましが与えられ、多くの気づきがあったことで、聖書を読むことが苦ではなくなりました。そのような事のなかで私は、聖書を読む時に「主よ、お話しください」というサムエルの言葉を祈ってから聖書を開くようにしています。
サムエルは、どのような心で、主の御声を聞いたのでしょうか。
Ⅰ;従順な心を持っていた
私たちは、「従順な心を持って」主の御声を聞きましょう。サムエルは、従順な心を持って「しもべは聞いております」と言ったのです。
3章1節には、「主のことばはまれにしかなく、幻も示されていなかった」とあります。ですから当然、サムエルはまだ、主からのことばや幻を受けることはありませんでした。ただ、祭司エリのもとで忠実に主の宮で仕えていたのです。しかし、サムエルに転機が訪れました。
ある晩サムエルが寝ている時、彼は自分の名前を呼ぶ声を聞きました。神様に呼ばれるという経験は知らないので、当然エリが呼んでいると思い、起きてエリの所に走っていきます。この時の時間は「神のともしびは、まだ消えていず」とあるように、明け方だったと思われます。一番起きられない時間帯です。それにもかかわらず、サムエルは、自分の名前を呼ぶ声に反応して目を覚まし、エリのもとに走っていくのです。エリは呼んでいないことを告げ、サムエルは床について寝ます。そのようなことが3度もありましたが、サムエルは3度ともエリのもとに走ります。いつでも呼ばれたら走っていく、サムエルの忠実さを垣間見ることが出来ます。
なぜ、サムエルは従順さを身に付けることが出来たのでしょうか。それは、母親のハンナの影響によることだと思います。ハンナが、サムエルが生まれるためにどのような祈りをしたのかは、Ⅰサムエル記1章を読んでいただきたいと思います。ハンナは、悲しみと苦しみの中で切実な思いを抱き、主の前に祈りました。ハンナは、祈りの中で、生まれる子どもを主にささげ、その子が神様に仕えるようにすると誓うのです。ハンナは、その祈りの言葉の通りに、サムエルを祭司エリに預けるのです。まずここに、ハンナの忠実さ、従順さを見る事が出来ます。さらに、ハンナは、サムエルをエリに預けてもなお母親としての役割を果たします。2章18-19節。ハンナは、サムエルのためにいつも祈り、その成長を思い巡らしながら上着を作ります。ハンナは、わが子サムエルの成長を想像しながら、体の大きさに合わせて上着を作り毎年シロに持っていくのです。このような親の愛を受けてサムエルは多くを学びました。
また、サムエルは、毎年主の宮での礼拝に来る親の姿を見て、主を恐れ礼拝することの大切さを学んだのではないでしょうか。サムエルは、親の愛と信仰の姿を見て従順を学び、主を恐れ礼拝する信仰を養うことが出来ました。その結果、サムエルは、祭司エリに従順に仕え、神様に対しても従順な心を持って従うのです。
私たちは、普段の心の在り方が、神様に対しても出てしまうことを覚えていましょう。特に身近にいる家族や兄弟への態度は、そのまま神様に対する態度となって表れることがあるのです。ヨハネは、「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することは出来ません。(Ⅰヨハネ4:20)」と指摘しています。人に対して反抗し、高慢になる人は、神様の前にへりくだり従順になることは難しくなります。
私たちは、「従順に神様の御声を聞いているのかどうか」自分自身の心を点検しましょう。
Ⅱ;聞く耳を持っていた
私たちは、「聞く耳を持って」主の御声を聞いて行きましょう。サムエルは、「聞く耳を持って」祈りました。
サムエルは、主に呼ばれるという経験がなかったので、エリに呼ばれていると思いエリの所に走ります。3度も同じ事が繰り返されてもサムエルは、エリの所に向かいました。
サムエルの姿は、本当にすごいなと思います。私は、新聞配達をしながら予備校や専門学校に通っていました。でも実は、私は朝が弱くて起きられなかったのです。どうして新聞配達を選んだのか、不思議なくらい起きられなかったのです。ですから毎朝「赤松君、そろそろ起きてね。配達の時間だよ」と所長からの電話で起こされていました。それで起きる事もあれば、2回目の電話をもらう事もありました。少年サムエルの姿を読むと、自分自身の懐かしい思い出がよみがえってきます。サムエルの責任感と従順さと誠実さに多くのことを教えられますね。
サムエルが3度目に来た時エリは、主がサムエルを呼ばれていることに気づきました。そして9節のように教えます。4回目に神様がサムエルと呼ばれた時、サムエルはエリに教えられた通り、「お話ください。しもべは聞いております。」と主の御前に出るのです。そこで主は語られます。その内容は、エリの家が主に裁かれるという耳を疑いたくなるようなものでした。エリの息子は非常な罪人でした。神様にささげるべきいけにえを、いち早く取ってしまうという神様を冒涜するようなことをしていました。また姦淫の罪も犯していたのです。息子たちは、エリに注意されても悔い改めることはありませんでした。エリは、子どもが祭司としての役目を果たしていないことを知っても、厳格に戒めることはありませんでした(2:12-17、22-25)。そのために神様の怒りを受け、裁きが宣言されるのです。よくそのような状況の中でサムエルは、従順な信仰を養うことが出来たと思います。
ここで、大切なことは聞く耳を持つということです。神様への従順な信仰を持っていたサムエルは、神様の言葉を聞く準備が出来ていました。神様は聞く耳のある者に語りかけてくださるのです。
私たちは、聞く耳を持っているでしょうか。私たちは、御言葉を通して神様の御声を聞くということを、どれくらい優先的に考えているでしょうか。私たちは、神様の御声を聞くという意識を持って聖書を開いているでしょうか。積極的に聖書を読む時でも、なんとなく聖書を読む時でも、どのような場合でも私たちは「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」と祈りつつ聖書を開くことが大切です。今、神様は、聖書の御言葉を通して私たちの心に語りかけてくださいます。その主の御声を聞くために私たちは備える必要があります。それが「主よ。お話ください。しもべは聞いています」という、サムエルの祈りです。
この祈りをすることによって私たちは、神様の言葉を聞こう、神様の言葉を心に留めようという意識を持つようになり、神様に従う信仰が養われます。そのことが、私たちに「聞く耳」を与えます。主の言葉を待ち望む、主に聞くという習慣が身に付いてくるのです。このようにして、私たちは、神様との豊かな交わりを持つ事が出来るようになります。私たちは、聞く耳を持って聖書を開きましょう。
Ⅲ;開かれた心
私たちは、「開かれた心」で主の御声を聞いて行きましょう。サムエルは、聞く耳を持って主の御声を聞き、開かれた心で神様の言葉を受け止めました。サムエルは、主の言葉を聞いただけでは預言者となることが出来ませんでした。主から言葉を預かり、それを語り伝えることが求められたのです。でもこの夜サムエルに語られたことは、彼にとって実に恐ろしいことでした。サムエルは、何とか隠せないものかと思ったかもしれません。しかしエリは、主が語られたことは何かと問いただします。サムエルは隠すことなく神様の裁きの宣告を告げました。その内容を聞いたエリは、主がサムエルに現れ語られた事を知りました。これ以降サムエルは、預言者として主に仕えるようになりました。イスラエルの人々も主がサムエルとともにおられること、主がサムエルに語られた言葉が事実となるのを知って、サムエルを預言者として認めるのです(Ⅰサムエル3:19-20)。
私たちが、主の御声を聞くと言う時、実は、私たち自身の祈りの姿勢も問われることとなります。私たちは、サムエルのように「主よ、お話しください」と祈ります。けれども私たちは、主の声を聞く時間をしっかりと確保することが出来ているでしょうか。私たちの祈りは、一方通行になることが多いと思います。私たちは、「主よ、お話しください」と祈りつつ、それ以上に様々な願いを主に祈り、祈り終ってしまうことがありませんか。そして、「主に聞く」ことが後回しになってしまうのです。「開かれた心」で主の御声を聞くと言うのは、私たちが心を静めてじっくり神様の御言葉を思い巡らし、心を神様に向けて行くという事なのです。そのためにも、私たちは、「主よ、お話ください。しもべは聞いております」と常に祈る者となりましょう。
このように祈り続けることは、私たちの信仰の訓練にもなります。この祈りを通して、私たちは、「私は、主の御声を聞いているのだろうか」と問われることとなります。また、私たちは、「『主よ、お話しください』と祈るけれども、聞く耳を持っているのだろうか」と考える事となります。さらに私たちは、「開かれた心で神様の御前に出ているのだろうか」と、信仰の確認をすることとなるのです。
私たちは、「主よ。お話ください。しもべは聞いております」と祈りつつ主の御声を聞きましょう。神様は、必ず必要な御言葉で語ってくださいます。
祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、『主よ、お話しください。しもべは聞いています』と祈りつつ聖書を開きます。主なる神様ご自身が私たちに必要な御言葉を通して語ってくださいますように。私たちに、御言葉への従順な心、御言葉を聞く耳、御言葉に対する開かれた心を与えてください。
緊急事態宣言が解除されましたが、まだまだ新型コロナの感染が続いていて、心配な事があります。神様、どうか私たちの生活と健康と仕事をお守りください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」