<子どもたちへ>
皆は、学校の授業で宿題(課題)が出されるでしょう。その宿題を忘れたら先生から注意されるでしょうか。親との約束(例えば、部屋の掃除をする、お手伝いなど)を守らなかったらやはり注意されるでしょう。時には𠮟られるかもしれませんね。イスラエルの最初の王様となったサウルは、神様の言葉に従わないという失敗をしてしまいました。
サウルと王様となってからしばらくして、ペリシテ人との戦いが起りました。この時サウルは、大変困ったことになったのです。
ちょっとサウルの気持ちを想像してみましょう。
「困ったことになったなぁ。相手のペリシテ人の軍勢は多すぎるよ。この勝ち目がない状況で、皆、戦う前から危険を感じて、洞穴や地下室などに身を隠しちゃうし。どうしよう。」
「預言者サムエル先生が来て、いけにえを捧げて神様に祈ってくれればみんな安心して戦うことが出来るのに。サムエル先生は、まだかな。約束の7日が過ぎようとしているのに、まだ来ない、遅いな。何をしてるのだろう。」
サウルは、「ようしこうなったら、自分でいけにえを捧げてしまおう。」と決めてしまいました。そして「全焼のいけにえと交わりのいけにえを持って来い!」と部下に命じたのです。こうしてサウルは、祭司しか捧げてはいけないと神様によって命じられていた教えを破ってしまったのです。サウルが、いけにえを捧げ終わったところに預言者サムエルが到着しました。サムエル先生は、神様の教えを守らず、自分勝手なサウルを叱りました。
また別の時、神様は、イスラエルを苦しめたアマレク人を全部滅ぼしてしまいなさいと命じました。サウルは、神様の命令に従ってアマレク人を打ちました。けれども、サウルは、とてもよく育った羊や牛を見た時に考えを変えてしまいました。「良く育った羊や牛を殺してしまうのはもったいないな。そうだこれを自分たちのためにとっておいて、どうでもいいものを滅ぼそう!」
神様は、すべてを神様のものとして捧げるようにと言っておられたのです。しかしサウルは、神様のものとしないで、自分たちのものとしてしまったのです。
全てをご存じの神様は、預言者サムエルを通して「どうしてそんなことをしたのか」と間違いを正しました。するとサウル王は、謝るどころか、「いや~実は、兵士たちが神様に捧げるために取っておきたいと言い出しのですよ」と言い訳をしたのです。そこでサムエルは、神様に聞き従うことは、どんないけにえよりも大切なことだと教えました。それでもサウル王は、心からの悔い改めをすることはありませんでした。
サウル王の間違っていた所は、なんだと思いますか?
サウル王の間違いは、神様の御言葉よりも自分の考えを優先させ、神様を心から礼拝しなかったところです。またサウル王は、神様の喜ばれる事よりも、自分が喜ぶことや自分の思いを満足させることを大切な事としました。この自己中心が間違いの原因です。
僕たちは、罪があると分かったらすぐに悔い改めて心から神様を礼拝しましょう。そして自分中心の考えではなく、神様の喜ばれることは何かをよく考えていきましょう。
祈り
「神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様の御声に聞き従い、心から礼拝して歩みます。神様の御前に罪が分かったら素直に悔い改めることが出来るように導き、神様に喜ばれることが何であるのかを教え導いてください。この祈りを救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」
「サムエルは言った。『主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御前に聞き従うほどに喜ばれるだろうか。
見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。』」
サムエル記第一 15章22節
<適用>
子どものころ、友だちと喧嘩をして先生に注意された時、「だって、誰々君が悪いんだもん。」と言い訳をしたことがあるでしょうか。私は、兄弟げんかをしていて親に注意されても、大体妹や弟のせいにしていました。学校で友達との喧嘩を注意されても、「だって・・・。」と自分の責任は無視して相手の責任にしていたものです。自分が悪いと分かっていても、自分よりも相手を悪く言いたくなるのです。先生に、「反省の色が見えない」と言われると、「反省の色は何色だろう?」と考えてしまい、更に注意されることがありました。担任の先生には、申し訳ない態度だったと反省しております。
私たちは、神様の御前にどのように歩むのでしょうか。神様を信じて歩むという事は、どのようなことに目を向けることとなるのでしょうか。サウル王の姿を通して大切な事を学びましょう。
Ⅰ;御声に聞き従うこと(Ⅰサムエル13章)(聞き従わなかったサウル)
「神に喜ばれること」の一つ目は、「御声に聞き従うこと」です。
サウル王は、主の御声に聞き従うことで失敗した人です。サウルは、ある年齢に達した時、イスラエルの王となりました。これまでは、「30歳で王となり」と訳されていましたが、ヘブル語では正確な年齢が書かれていないのです。王として選ばれたサウルは、最初は、大いに張り切りイスラエルを導くことが出来たのです。しかしそれは、長く続くことはありませんでした。サウルは、王としての最初の段階で幾つかの失敗をしてしまいます。最初の失敗は、隣国のペリシテ人との戦いが起った時のことです(13章)。戦いと言ってもイスラエルの国で軍備がすぐ整うわけではありませんでした。当時イスラエルには武器を造る鍛冶屋がいなくて(Ⅰサムエル13:19‐22)、戦いのための武器を持っていたのはサウル王とその子ヨナタンだけでした。他のイスラエルの人たちは、戦いの武器を持っていなかったのです。ですからイスラエルの民は、ペリシテの大軍勢を目の前にして、戦う前から負けを覚悟して、震えながらサウルに従っていたのです(13:6-7)。そして彼らは、それぞれ洞穴などに身を隠してしまったのです。もしかしたらサウル自身も不安だったのかもしれません。
この状況が、サウルを神様から引き離すことになってしまいました。預言者サムエルは、サウルに対して予め、ギルガルで7日間待ちなさいと言っていたのです。でもサウルは、民が逃げていきそうな様子や状況が好転しないのを見て、サムエルを待つことをやめ自分の思いを優先させて、いけにえを捧げてしまったのです。これは、祭司だけがすることでした。サウル王は、主に祈る事も出来たでしょう。神様は、サウルの祈りに答えてみわざを行うことが出来たのです。けれどもサウルは、個人的に神様を求めて祈ることをしませんでした。サムエルを待てなかったサウル王は、突き詰めて考えると神様の導きを求めず、自分の思いや力に頼ってしまったと言うことが出来るでしょう。またサウル王は、いけにえを捧げさえすれば大丈夫と考えたのかもしれません。このサウル王の姿は、神様への信仰を無視した行いとなります。
私たちは、普段の生活の中でどのような問題に直面するでしょうか。
その直面する事柄に対して私たちは、どのような反応をするでしょうか。私たちは、自分の安心のために、あれこれと色々な事を考えます。でも時として、何かをする事だけに意識が集中しすぎて、祈ることを忘れてしまうことはないでしょうか。私たちが、祈ることを忘れるという事は、私たちの心から神様の御心を求める思いがなくなってしまう事を意味しています。私たちは、どんなことでも神様に祈りましょう。そして神様の御心を求め、神様の御声に聞き従い歩んでいきましょう。
Ⅱ;心から主を礼拝すること(Ⅰサムエル15章)(礼拝を大切にしなかったサウル)
「神に喜ばれること」の二つ目は、「心から主を礼拝すること」です。サウル王の失敗の二つ目は、15章の出来事です。この事がサウルに取って決定的な出来事となり、神様はサウルに代わって別の王と立てることを決めるのです。
神様は、サムエルを通してアマレク人を聖絶するようにと命令を出します。アマレク人は、イスラエルの民がエジプトを脱出した時に敵対した民族でした(出エジ17:8-16)。その時イスラエルの民は、かろうじて勝利しますが、神様はアマレクを根絶やしにすると言われました。そしてその役目を主は、サウルに与えるのです。
「聖絶」というのは、神様のためにすべてを滅ぼすことです。私たちにとっては、理解しがたいことのように思います。「聖絶」を理解するためには、旧約聖書の時代背景について知る必要があります。古代中近東では、戦争は単に人と人、国と国との戦いではなく、神々との戦いであるという宗教的な意味を持ちました。ですから全てを絶ち滅ぼし、勝利する国の神が威力を持つと言う理解がありました。聖書の「聖絶」は、現代行われているような聖戦や争いをとは違います。神様は、旧約のイスラエルの民に、「聖絶」という命令を与え、他の神々と言われる偶像よりも偉大な神であることを示し、ご自身の聖さと正しさと栄光を表しておられるのです。そしてこの聖絶は、イスラエルの民を他の異教の神々から守るという意味があり、さらには、他の国々も主なる神様の御力を知り、信じることが求められていたのです。しかし新約の今では、神様は、イエス様の贖いによる救いを通してご自身の聖さと栄光を表し、またクリスチャンの生き方を通しても、神様の恵みは証しされるのです。
さて、サウル王は、アマレクを人や家畜に至るまですべて聖絶せよという命令を守らず、アガグを生け捕りにし、家畜を戦利品として取っておきました。神様の命令は、すべてを神様のものとして、神様にささげる(聖絶する)ということでした。けれどもサウルは、それを自分たちの所有としたのです。こうしてサウルは、王として決定的な失格者となりました。
言い換えるならサウル王は、心からの礼拝をしなかったという事です。サウルは、確かに神様の命令に従いました。しかし、完全に従うことは出来ませんでした。神様は、アマレクのすべてを主ご自身のものとして聖絶することを命じました。聖絶するものは、すでに神様のものなのです。けれどもサウルは、神様の所有から、一番よいものを自分たちのために取っておき、値打ちのないものを神様のもとして聖絶したのです。サウルは、その理由を、神様を礼拝するためだと言ってごまかすのです。これは、サウルが、神様への礼拝をそれほど真剣に考えていなかった証拠ではないでしょうか。「神のための聖絶」とは、すべてを神様のものとして捧げ、主を礼拝するということです。それを「値打ちのないもの」だけを聖絶し、捧げたと言い切る所にサウルの不信仰が現れています。
このサウルの姿は、私たちに「心からの礼拝を捧げているのか」と問いかけます。サムエルは、Ⅰサムエル15章22-23節で「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御前に聞き従うほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。」と最も大切な事を教えています。私たちは、礼拝を大切な事として守ります。それと同じように私たちは、神様の御言葉を心に留め、御言葉に聞き従うことを喜んでいるでしょうか。そして私たちは、「神様に喜ばれること」を本当に大切にしているでしょうか。
Ⅲ;悔い改めること(Ⅰサムエル15:24-31)(素直に悔い改めないサウル)
「神に喜ばれること」の三つ目は、心からの悔い改めです。サウルは、サムエルに罪を指摘された時、民に惑わされたと言い訳をし、素直に悔い改めることをしませんでした。サムエルの言葉にやっと自分の罪を認めたサウルですが、その悔い改めの言葉は、どこが他人事のような気がしてなりません(15:24)。サウルは、「自分が罪を犯したのは、民にそそのかされて、民を恐れたのでその声に従うしかなかった。だから自分はそれほど悪くはない」と言っているように思えます。サウルの言葉には、自分に不利なことはすべて誰かのせいにして、責任を逃れるという態度が見られます。さらにサウルの悔い改めが表面的で、形だけというのが分かるのが30節の言葉です。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私を立たせてください。どうか一緒に帰ってください。私はあなたの神、主を礼拝します。」
サウルは、ここに至っても神様の御心よりも、自分の立場、面目を気にするのです。そしてサウルは「私の神、主を礼拝する」と言わず、「あなたの神、主」と言うのです。これは、イスラエルを導き、サウルを王として立て、すべてを治める主なる神様を、自分の神と信じていない不信仰の姿です。結果として、サムエルはサウルと一緒に帰り礼拝しますが、もはやサウルはイスラエルの王としての地位を維持することは出来ず、新しい王が立てられることとなるのです。
サウルの姿は、悔い改めについて私たちに教訓となります。私たちは悔い改めが、表面的なその場を逃れるための形だけのものにならないようにするべきです。悔い改めというのは、心からされるべきですし、他人事ではなく、自分と神様という一対一の関係でされるべきことなのです。私たちの信仰は、自分と神様という一対一の関係となっているでしょうか。
ダビデも告白しています。「神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません(詩篇51篇17節)
私たちは、「神に喜ばれること」を追い求めましょう。それは、私たちが主の御声に聞き従い、主に祈ることでした。
私たちは、「神に喜ばれること」を追い求めましょう。それは、私たちが心から主を礼拝することでした。
私たちは、「神に喜ばれること」を追い求めましょう。それは、私たちが素直に悔い改めることでした。神様は、私たちがへりくだって心から悔い改めることを喜ばれます。
祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。今日も神様によって守られ、支えられ、恵みの中を歩めることを心から感謝致します。私たちは、神様に喜ばれることを追い求めます。私たちの信仰を強め、御言葉に従い、心から主を見上げ礼拝することが出来るように導いてください。また私たちは、罪が分かったらすぐに悔い改めます。私たちが、素直な心になって悔い改めて神様に立ち返ることが出来るように導いてください。神様、一人一人の生活と仕事、健康をお守りください。この祈りを救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」