<子どもたちへ>赤松由里子師
先週は少年ダビデがイスラエル2番目の王様として選ばれたことを学びましたね。でもダビデが王になるのはまだまだ先の話です。今日は、このダビデが勇気をもって立ち向っていった戦いの話をします。
ある日のことです。ダビデが出かけていきます。「お父さん、行ってきます」「うむ、しっかり頼むぞ。」一体どこへ行くのでしょう。ダビデはお父さんに頼まれて、上の3人の兄さんたちの所に行くのです。お兄さんたちはサウル王様と一緒に、ペリシテ人との戦いに行っていました。家族が無事か確かめるために、パンやチーズなどを届けるという名目で、訪ねていったのでした。
ダビデが兄さんたちに合流して無事を喜んでいると…「うおーっ!」とすごい声がします。見ると、ペリシテ人の大男が大声でしゃべっているではありませんか。「腰抜けのイスラエル人どもめ!一人を選んで俺と戦わせろ。俺に勝ったら俺たちはお前らの奴隷となる。俺が勝ったらお前たちはみな奴隷にしてやるぞ、わっはっは!」この男の名前はゴリヤテ。背の高さは3m近くありました。バスケットボール選手もびっくりですね。この男は40日間毎日同じことをわめいていましたが、残念なことにイスラエル軍は怖気づいて、いつも逃げ隠れしていました。サウル王様も困っていたのでした。
これを聞いたダビデは怒りに燃えて立ち上がり、サウル王様の所に行って言いました。「王様、私をゴリヤテと戦わせて下さい。神様の選んだイスラエル人を馬鹿にするなんて、このままにはしておけません!」サウル王様は一度はダビデを止めましたが、ダビデが固く決心しているのを見て、「行きなさい」と言いました。そして王様用のよろいとかぶとを着せてくれました。でもダビデは着慣れないよろいかぶとを断りました。「ぼくには必要ありません。石投げ袋と石ころ、そして杖で十分です」。これは羊飼いの装備です。羊を熊やライオンから守るときの道具でダビデは戦おうとしたのです。
こうしてゴリヤテと向かいあったダビデを見て、ゴリヤテはびっくりして馬鹿にしました。「おうおう、誰かと思えばほっぺたの赤い坊やじゃないか。犬でも追い払う気か?杖を持っているが。」
しかしダビデは言いました。「お前は剣や投げやりなどで向かってくるが、私は神様の力によって立ち向うのだ。神様は道具によらず、その力でお前をわれわれの手に渡して下さるのだ!」こうしてゴリヤテはダビデに近づいてきましたが、ダビデは素早く石を取り石投げでそれを放ちました。シューっ、どかっ!!石はゴリヤテの額に命中し、ゴリヤテはうつぶせに倒れました。ダビデはゴリヤテの剣を抜いてとどめを刺しました。ペリシテ人たちは逃げ出し、イスラエルが戦いに勝利しました。
ダビデはこの後、軍人としてサウル王の下で活躍することになり、大評判を得ていきます。神様の選びの通りの道筋です。けれどこれはダビデが、運がよかったからの話ではありません。特別強かったからでもありません。神様に信頼し、すべてを支配するのは神様だと固く信じて立ち向う信仰が喜ばれたのですね。自分より強い存在に立ち向わなくてはいけない時が、私たちにも時にやって来ます。その時に、神様に信頼したダビデを神様が助けだしてくださったことを思い出しましょう。人を恐れるのでなく神様に信頼して正しいことを選んでいきましょう。
<祈り>
「神様、ダビデが相手の強さにひるまず神様に信頼して戦った様子を学ばせていただきました。すべてのことを支配しておられるのは神様です。私たちも人を恐れないで、立ち向うべき事柄に正しく向かっていけるようにお導きください。御名によってお祈りします。アーメン」
「そして、ダビデは言った。『獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった主は、
このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。』」 サムエル記第一 17章37節
「神に信頼し 私は何を恐れません。人が私に何をなし得るでしょう。」 詩篇56篇11節
<適用>赤松勇二師
「昔取った杵柄」ということわざがあります。以前に鍛えた腕前が後になって役に立つというものです。皆さんも経験があるでしょうか。ある人は、牧師になる前に電気関係の仕事をしていたそうです。教会で電気製品が故障をするとその牧師先生は、自分である程度修理をしているのだそうです。だいぶ教会は助かっているようです。昔の仕事や経験が、今に役立っているということです。
実は、ダビデは、ゴリヤテと戦う時その時の仕事での経験が大きな意味を持ちました。
Ⅰ;大きな問題
私たちの人生には、主が救いを与えてくださいます。それはどんな時でも、どんなに大きな問題の中でもです。
イスラエルの人たちは、ペリシテ人との戦いの中で国の存亡が脅かされる大きな問題に直面しました。普通なら、合図とともにお互い攻め込み戦いが始まるのですが、この時の戦いは、一風変わったものとなりました。ペリシテ人から代表戦士が出てきて、一対一の戦いをして勝った方が勝者となるというのです。ゴリヤテは、相当腕に自信がありました。彼は、身長が約2.8m、つけている鎧の重さは約57kg、槍の穂先は約6kgです。大きな、大きなゴリヤテは、自信満々に出て来て、イスラエルを馬鹿にし、イスラエルの神様を侮辱する言葉を浴びせます。ゴリヤテは、40日間毎日毎日同じことを繰り返しました。ゴリヤテの登場でイスラエルの人々は「気をくじかれて非常に恐れて(11)」、戦う前から敗北を覚悟するのです。サウル王は、人よりも背が高かったのですが、そのサウル王もひるんでしまうほどの相手なのです。もうイスラエルの中には、誰一人として、ゴリヤテに立ち向かう人はいないのです。サウル王は、敵を前にしてどんな作戦を立てたら良いのか分からず、途方にくれる毎日だったのです。何をどうしたら良いのでしょうか。信仰はどこにいってしまったのでしょうか。
私たちも経験したことのない問題に直面する事があります。意気消沈してしまうような状況に途方にくれ、何をどのようにしたら良いのか検討もつかないことがあります。それまでは神様の祝福を感謝して歩んでいたのに、とたんに神様がいなくなってしまったかのように孤独を感じることがあるでしょうか。新しいことに挑戦する時も、それをどのように進めるべきなのか思い悩むことがあります。そのような大きな問題の中にあっても神様は、私たちに救いを与え、助け導くことが出来るのです。私たちは、その事を忘れず、神様を信頼し続けることが大切です。詩篇56篇11節にあるように、私たちは、神様を信頼し恐れず進むことが出来るのです。
ペリシテ人との戦いの中で神様が備えてくださった救いは、ダビデと言う一人の少年でした。
Ⅱ;神様を見上げる
私たちの人生には、主が救いを与えてくださいます。だから私たちは、いつでも神様を信頼し、神様を見上げて歩むのです。私たちは、イスラエルやダビデのように、どうしようもなく大きな問題に直面することがあります。それをどのように見るのか(受け止めるのか)によって、その対応は大きく変わります。
サウルを始めイスラエルの人々は、「もうだめだ。勝ち目はない」という目でゴリヤテを見ていました。けれどもダビデは、神様を信じ、神様に信頼するという信仰の目をもって全ての物事を見る事が出来たのです。ダビデが、神様を信頼して物事を見ている姿は、ゴリヤテの罵声を聞いた時のダビデの言葉に表されています(Ⅰサムエル17:26)。サウル王は、ゴリヤテを倒す者には3つの報酬(富と王子となること、そして義務がなくなること)を約束していました。それほどイスラエル軍は、切羽詰っていたのです。けれどもダビデに取っては王の報酬よりも、生ける神をそしる」ゴリヤテが赦せなかったのです。
ダビデの言葉は、イスラエルの兵士からすれば、戦いのことを何も知らない素人の無謀な言葉と受け止められたことでしょう。けれどもダビデは、しっかりとした根拠をもって勝利を確信していたのです。ダビデは、羊飼いとしての経験を通して、神様が常に共にいてあらゆる危険から自分を守ってくださることを知っていたのです。毎日の小さな積み重ねが、ダビデの信仰を強め、神様への信頼を生み出すこととなったのです。ダビデは、神様が羊を守るために獣から自分を救い出し守ってくださったことを知っていました。ならばな、神様を馬鹿にするこのペリシテ人には、なおのこと勝利を与えてくださると確信していたのです。
実は、私たちも同じように、すべての経験を通して神様によって整えられているのです。多くの人との出会いは、多くのことを私たちに教えます。そして出会いの中で学んだことが役に立つ時がやってきます。
前にも言いましたが私は、人生はらせん階段のようなものだと思うのです。らせん階段は、同じ所で回りながら上に登ります。自分のいる場所は変わりませんが、確実に1階から2階へ、2階から3階へと登ることが出来るのが、らせん階段です。この階段を上がっていくと、同じ風景を何度も見ますが、徐々に遠くの方まで見ることが出来ます。私たちも、人生と言うらせん階段を上っていますから、同じような状況が繰り返しやって来ることがあります。しかし、以前と違うことがあります。それは、同じような状況を見る高さが違うのです。同じような物事でも以前の経験を通して見る事が出来るのです。私たちは、神様によって導かれて歩めますから、私たちは神様の導きと守りという経験を通して全ての物事を見る事が出来るのです。
パウロは言います。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えてくださいます。(Ⅰコリント10:13)」。私たちが、何か思いがけない出来事、今まで経験したこのない問題、挑戦するべきことに直面する時、大切な事は神様が、いつも共にいて助け、脱出の道を与えて、救いを与えて下ったことを思い起こすことなのです。神様は、私たちの人生に確実に御手を指し伸ばし、どんな時でも私たちを導いてくださいます。私たちは、いつでもどんな時も、神様の救いのみわざを信じて、神様を見上げて歩みましょう。
Ⅲ;罪からの救い
神様は、私たちの罪に対して救いを与えてくださいます。今日は、「宗教改革記念日」です。世界史でも学ぶ「宗教改革」です。ローマ・カトリックの司祭だったマルチン・ルターが、95か条の質問状を張り出して、改革が始まりました。その質問状の中でルターは、人の罪が赦されるためには何が必要かという事を問い正したのです。その当時ローマ・カトリックは、免罪符を購入すれば罪が赦されると教え、免罪符を販売していました。そこでルターは、本当に免罪符によって人の罪が赦されるのだろうかという疑問を持ち、ルターは、聖書を綿密に調べました。聖書を調べるうちにルターは、罪が赦され永遠の命が与えられるための真理を見つけたのです。それが、イエス様を信じる信仰による救いです。
聖書は、私たちが罪人だと教えます。聖書は、私たちが天地を造られた神様を無視し、神様に背を向けることを罪だと教えています。神様は、この罪に対して裁きを定めておられます。人は、この神様の審きから救われる方法を持っていません。どれだけ正しく生きようとしても神様の正しさには到達出来ないのです。当然、お金でも罪からの救いは買えないし、人の知恵でも救いの道を見出すことが出来ません。「罪の報酬は死です(ローマ6:23)」と言われているように、私たちは罪の結果である裁きを受けるしかないのです。けれども神様は、私たちを愛するゆえに、私たちを裁くのではなく、イエス様を身代わりに裁いてくださったのです。イエス様は、罪がなく完全に正しく裁かれる必要のないお方でした。罪のないイエス様が、私たちの罪を全て背負って、私たちの身代わりに神様の罰を受けてくださったのです。それが、イエス様の十字架です。このイエス様の十字架の救いを信じる信仰によって私たちは罪赦され、天の御国への約束が与えられるのです。ここに救いがあります。イエス様は、全ての人が抱える罪の赦しに対して、救いの道を備えてくださったのです。
神様は、私たちの人生の様々な場面で救いを与えてくださいます。そして神様は、私たちを罪から救い出してくださいます。私たちは、神様を見上げ、神様を信じて信頼して歩みましょう。
祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様が、私たちの人生にかかわってくださり、救いを与えて導いてくださることを感謝致します。またイエス様が、私たちの罪の身代わりに十字架にかかってくださったことを感謝致します。
私たちは、どんな時でも神様によって守られ救いが与えられることを信じます。イエス様の十字架によって罪赦されることを信じます。どうか神様私たちの信仰を強めてくださり、いつでも神様を見上げて歩めるように導いてください。
神様、一人一人の心を守り、健康と生活と仕事を支えてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈りします。アーメン。」