2021年11月7日(日)礼拝説教 サムエル記第一 18章1-11節 「愛の実を結ぶ」 説教:赤松勇二師

<子どもたちへ>

 皆は、すぐに友だちが出来るタイプですか?それとも時間をかけて友だちになるタイプでしょうか?僕たちは、人それぞれに友だちの作り方がありますね。
 さて、イスラエルの初代の王様であるサウル王には、ヨナタンという息子がいました。ヨナタンは、ダビデが大男のゴリヤテと戦い、大勝利をおさめたことを見ていました。そしてヨナタンは、すぐにダビデの所に走って行って「あのゴリヤテを倒してしまうなんて、すごいよね。」と話しかけました。ダビデは、「神様が共にいてくださって、力を与えてくださったからです。」と答えます。なんとその日のうちにヨナタンとダビデは、仲良しになり大親友となって行きます。そしてヨナタンは、自分の鎧や剣などの武具を全てダビデに与えてしまったのです。これは、ヨナタンが、ダビデをとっても大切な友として尊敬していた証拠です。ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛し、大切に思っていたのです。

 しかし、そのように思っていない人がいました。その人とは、なんとサウル王様です。サウル王は、ダビデがゴリヤテを倒した時、とっても喜んでいました。けれどもイスラエルの女の人たちが「サウルは千を打ち、ダビデは万を討った。」と喜んだのです。人々の言葉の意味は、「サウル王よりもダビデのほうが偉大で、素晴らしい戦士だ。」という事でした。これを聞いてサウル王は、ダビデに対して妬みの心を持ちました。そしてサウル王は、ダビデが自分の王位を奪い取るのではないかと考えるようになってしまったのです。その結果、サウル王は、ダビデを殺そうと考えました。
 それを知ったヨナタンは、「どうしてダビデを殺そうとするのですか?ダビデはゴリヤテを倒し、イスラエルをペリシテ人から救ってくれたではありませんか。」と訴えました。ヨナタンは、大親友のダビデを救うために懸命でした。サウル王は、ヨナタンに言われて我に返り、「それもそうだな。ダビデを殺すなんてことは考えないことにしよう」と答えました。けれどもその後、ペリシテ人との戦いがあり、ダビデが大勝利をすると、サウル王は途端に不安になりました。そんな恐れと不安によってサウル王の心が乱れた時、ダビデは竪琴を弾いて気持ちを静める役目を与えられていたのです。しかしサウル王は、ダビデの演奏では心が静まりませんでした。それどころかサウル王は、ダビデを槍で突き刺してやろうと、槍を投げつけるのです。ダビデは、身をかわして難を逃れます。

 サウル王がダビデを殺そうとしていることがはっきりとしました。ヨナタンもある時、父サウル王の決意が固いこと、サウル王がダビデを軽蔑していることを知ったのです。そこでヨナタンは、ダビデを逃亡させることにしました。王子のヨナタンが、ダビデを逃がしたことが分かれば、ヨナタンが罰せられることとなります。しかしヨナタンは、そんなことは気にしません。大親友を守れるのは、王子のヨナタンだけだからです。こうしてヨナタンは、ダビデの命を救います。二人は、お互いを大切に思う事を約束し、別れました。この二人の思いは、いつまでも変わることがありませんでした。
 ヨナタンは、ダビデを自分と同じように愛し、ダビデもヨナタンを一生の友として大切にしました。二人は、神様を信じ、お互いの事を大切にしていました。サウル王は、ダビデを喜ぶ事が出来ませんでしたが、ヨナタンは、ダビデのことをいつも喜んで受入れていたのです。人とのかかわりで大切な事は、人を受け入れるという事です。神様が、僕たちを受け入れ愛してくださっているように、僕たちもお互いの事を大切に思い、受入れて行く時、そこに素晴らしい愛と喜びの関係が出来て行きます。皆が、愛の人となり、神様によって愛の実を結ぶ事が出来るようにと祈ります。

祈り
「愛する天の父なる神様、聖なる御名を賛美します。ヨナタンとダビデは、お互いに愛し合い、素晴らしい友情を持つことが出来ました。僕たちも神様の愛に導かれて、友だちと素晴らしい関係を持つことが出来るように助け導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心と結びついた。ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛した。」
                                         サムエル記第一 18章1節

<適用>

 「食欲の秋」と言われますが、お芋やみかんやリンゴなどが美味しい季節となりました。リンゴの木は、季節になると花を咲かせ、リンゴ農家が受粉作業をして、そして秋になると実をならせます。どうしてでしょうか。それは、その木がリンゴの木だからです。みかんの木にはみかんが実ります。では私たちは、どのようにしたら「愛の実を結ぶ」ことが出来るのでしょうか。そして私たちが結ぶ「愛の実」は、どのようなものなのでしょうか。

Ⅰ;自分と同じように愛する

 サウルの息子ヨナタンは、心からの愛をもってダビデを愛しました。愛の実の一つは「自分と同じように愛する」ということです。言い換えると「受容する」という言葉にもなるでしょうか。
 ダビデがゴリヤテに勝利した時、ダビデの勇敢な姿に感動したヨナタンの心はダビデに結びつきました。ヨナタンは自分と同じほどにダビデを愛しました。そしてヨナタンは、ダビデとお互いを大切にするという契約を結びます。聖書を読んでいくとヨナタンが、ダビデと契約を結んだことを後悔したとは書かれていません。どのような状況にあってもヨナタンは心からダビデを愛し、尊敬していたのです。

 さて、ここで「自分自身のように愛する」とは、どういうことか考えてみましょう。自分と同じように愛することは、「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣く(ローマ12:15)」ということです。ダビデは、勇敢に戦う戦士となり、イスラエルを勝利に導きました。もともとダビデは、羊飼いです。その羊飼いの少年ダビデが、イスラエル中の人々から尊敬され、称讃されるのです。ヨナタンは、イスラエルの王子(皇太子)です。けれども人々は、王子のヨナタンではなくダビデを称賛するのです。なんとヨナタンは、そのことを自分のことのように喜んだのです。ヨナタンは、自分よりもダビデが用いられ、自分よりもダビデが国民に愛されることが心から嬉しかったのではないでしょうか。
 このヨナタンの姿は、愛から生み出された「受容」を示しています。しかし、ダビデを受け入れることが出来なかった人物がいます。それがサウル王です。サウル王は、ダビデが大勝利をし、称賛されるとダビデを恐れるようになりました。サウル王は、イスラエル中の誰もが、自分よりもダビデを称賛していることが嫌だったのです。このいやな気持が嫉妬心となってダビデへの殺意になってしまいました。この嫉妬心は、私たちの心にいつでも芽生えてしまうやっかいなものです。私たちは、他の人が自分よりも少しでも良い評価を受けると心がざわつくことはないでしょうか。そのざわつきは「自分のほうがもっとうまくやれる。自分のほうがもっと成果を出すことが出来る」等という思いです。私は、小学生の時にギターを弾き始めました。私の周りでもギターを趣味にしている人たちが大勢いました。中学、高校の時私は、他の人が「ギターが上手だ」と評価されると面白くない気持ちを持つことがありました。これが、嫉妬心なのです。今は、私よりも上手な人はたくさんいる事を知っていますから、そんなことはありません。嫉妬心が向上心へと向かえば良いのですが、嫉妬心が敵意になることもあります。サウル王の心は、嫉妬心によって支配され、その思いがダビデへの恐れとなり、ダビデへの殺意となってしまったのです。

 嫉妬心は、相手を受容することを妨げてしまいます。イエス様も「あなたの隣人をあなた自身のように愛(マタイ19:19)」するようにと教えられました。これはとても難しいことです。そのように実行しようと思ってもなかなか出来ることではありません。私たちは、家族に対して、友だち対して、そして会社の同僚に対して、また教会の中で、相手に対する自分の心がどのような状態にあるのかを冷静に見つめる必要があります。
 その時に必要なことは、心を開いて神様を見上げることであり、心を開いて相手を見ることです。私たちが、心を開いて神様を見上げてくと、神様が自分をどのように見ておられるのかを知ることが出来ます。神様は、私たちが正しいから愛するのではありません。神様は、私たちの状況に関係なく、私たちを愛する価値のある者として愛して下さるのです。この神様の愛を与えられて私たちは、相手を愛する価値のある者として愛することが出来るのです。
 ヨナタンもダビデも見事にこの「愛」を実践していました。だから二人は心からお互いを受け入れ、友情の絆を結ぶことが出来たのです。私たちは相手の何を見ていますか。相手が自分に何をしてくれるか、何をしてくれないかを見ていますか。それとも相手の存在そのものを喜んでいるでしょうか。「自分のことのように相手を愛する」愛の実を結ぶ者となりましょう。

Ⅱ;惜しみなく与える愛

 「愛の実」の二つ目は、「惜しみなく与える愛」です。ヨナタンは、ダビデを自分自身のように愛しました。それゆえに4節のように行動することが出来たのです。ヨナタンはサウルの息子、王子です。ヨナタンには、王子としての自分専用の上着があり、王子という身分を証明する武具がありました。そのすべてをダビデに与えるのです。これは、何も持っていないダビデに戦うために必要なものを与えたという以上の大きな意味があるのです。
 このヨナタンの姿勢は、サウル王がダビデの命を狙うことが明確になった時にも変わりませんでした。ヨナタンが、ダビデのために行動するということは、多くの危険を含んでいます。ヨナタンがダビデの味方につくことは、サウル王に敵対することになるのです。そうなると、ヨナタン自身が危険にさらされてしまいます。それでもヨナタンは、ダビデのために父サウルの気持ちを確かめ、その結果を確かに伝えると約束し、その方法も伝えます。18章から20章には、ヨナタンとダビデの友情が、真実であり、素晴らしい愛で満ち溢れていたということが見事に表現されています。

 人間関係や夫婦関係、そして親子関係において、「与える愛」と言うのは、「受容」と同じくらい大切な要素です。イエス様は、「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。(ルカ6:38)」と教えておられます。パウロは、そのことを「神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです(Ⅱコリント9:8)」と説明しています。私たちに必要のすべてを与えてくださるのは、神様です。神様は、私たちのすべてを満たしてくださいます。だから私たちは、神様から頂く愛を分かち合うことが出来るのです。それが神様への献金として表され、お互いに分け合うと言う交わりとなって行くのです。
 Ⅰコリント13章は「愛の章」といわれていますが、そこには、「愛は寛容であり、愛は親切です。・・・礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず・・・。(Ⅰコリント13:4-7)」とあります。パウロは、愛は、相手に与えるもので、相手の存在を喜び、相手を尊重することだと教えているのです。

 イエス様は私たちに素晴らしい愛を示してくださいました。イエス様は、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13)」と教え、それを実践なさいました。イエス様は、罪人の私たちの罪が赦されるために十字架にかかってくださいました。イエス様は、私たちが神様の愛を受け、私たちが永遠のいのちを持つために、私たちのすべての罪を背負って身代わりに死んでくださったのです。これほどの「愛」があるでしょうか。イエス様は、罪人の私たちのためにご自身の命を犠牲にし、救いを与えてくださったのです。私たちは、このイエス様の愛に感謝し、私たちの心がイエス様の愛に満たされるように祈り求めましょう。
 私たちの愛は、与える愛でしょうか。それとも相手に何かを期待する愛でしょうか。与える愛を持っている人は、さらに心が神様の愛で、満たされていきます。愛に乏しい者ではなく、愛に富む者とならせていただきましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。ヨナタンは、ダビデを自分自身のように愛しました。またヨナタンは、ダビデの事を考え、与える愛を実践しました。私たちも神様の愛によって満たされ、愛を実践することが出来るように導いてください。
 イエス様が、私たちの罪のために全てを投げ出し、与え尽くしてくださいました。神様、私たちが神様の愛に感謝し、愛の実を結ぶ豊かな心を持つことが出来るように助け導いてください。
 日に日に寒くなって来ています。一人一人が体調を崩すことなく、支えらえて歩ますようにとお願い致します。 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」