2021年11月14日(日)礼拝説教 サムエル記第一24章1-7節 「神の導きを信じて」

「悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」  ローマ人への手紙12章21節

<子どもたちへ>赤松由里子師

 ここ何回かのお話の中心人物は…誰だか覚えていますか?そう、ダビデでしたね。将来のイスラエルの王様に選ばれていましたが、今のサウル王様に憎まれて、殺されそうになっていたのでした。ダビデは親友のヨナタン王子に助けられて逃げ出したのでしたね。今日は、そのダビデが王様の追撃にあった時のお話です。

 この絵の中心にいる人、これがダビデです。周りにはたくさんの人がいますね。サウル王から逃げていたダビデですが、人気がありました。「ダビデ様は立派な方だ。家来にしてください!」と人々が集まってきたのです。するとサウル王に知らせが入りました。「王様、ダビデの居場所がわかりました!」「よし、行くぞ!」サウル王は3千人の兵隊を連れてダビデを探しに出かけました。
 ダビデにサウル王が来たことが知らされました。「そうか…王様が追ってきたのか。まずは状況を探りに行こう」。ダビデと部下が夜中にそっと様子を見に行きました。テントをのぞくと、そこにはなんと王様がぐっすり眠っていました。家来たちも、いっしょになって眠っているではありませんか。枕元には槍が突き刺してあります。

 ダビデの家来が言いました。「今こそチャンスです!あの槍でサウル王をやっつけましょう」。でもダビデは言いました。「そんなことをしてはいけない。この方は神様が選んだ王様なのだ。すべて神様にお任せしよう。」ダビデは王様の槍と水差しを証拠に持ち去り、そっとテントを出ました。
 ダビデは遠く離れた山の上に立つと、大声でテントに向かって叫びました。「おーい、お前たちはなぜ王様を守っていなかったのだ?何者かがテントに忍び込んだぞ。王様の槍と水差しがどこにあるか見てみろ。」その声をきいてサウル王様が出てきました。「この声は、ダビデか?」「はい、私です」とダビデは返事をしました。「王様、なぜ私を倒そうと追われるのですか?私は王の位をねらってなどおりません。ここに王様の槍と水差しがあります。やろうと思えば王様の命も奪うことが出来ました。しかし私にはそんなつもりは全くないのです。私は神様に選ばれたサウル王様の命を大切に思っているのです。」
 それをきいたサウル王様はダビデに言いました。「ダビデよ、お前に神様の祝福があるように。お前はきっと成功するだろう。」ダビデの正しい心を、少なくともこの時はわかってくれたのですね。軍隊を引き揚げて、お城へ帰っていきました。

 皆さん、この時のダビデのように、誰かの態度で苦しんでいたりするでしょうか。もしそうなら、今日のお話のダビデのように、悪をもって仕返しをしないようにしましょう。正しい態度を崩さずに、神様にさばきをゆだねて行くようにしましょう。ダビデは命に係わる困難の中でも「罪を犯してもいい」などとは考えませんでした。私たちにとっても大切なポイントです。今日のみことばを読みましょう。神様がすべての人を正しくさばかれるお方です。相手のことは神様にゆだね、神様にすべてを打ち明けて守りをお願いしていきましょう。そして自分自身が仕返しや復讐の罪から守られるようにも祈っていきましょう。

<祈り>
「神様、つらいことや困難があった時、人に仕返しをして罪を犯してはいけないと学びました。ダビデのように神様の正しい裁きを信じておまかせすることができるよう、私たちを整えてください。を御名によってお祈りします。アーメン」

「私は いと高き方 神を呼び求めます。私のために すべてを成し遂げてくださる神を。」 詩篇57篇2節

<適用>赤松勇二師

 私たちの生活の中で便利なものがたくさんありますが、カーナビもその一つです。カーナビが出始めた頃は、道を間違えることなく運転できたけど、目的地近くになると案内が終ってしまい、一番知りたい目的地周辺が良く分からないという事がありました。私は、時々「勘ナビ」とか言って、自分の感覚で運転して道に迷うことがあります。今のカーナビは、目的の場所の目の前まで案内してくれるので助かります。
 私たちの人生、何を頼りに進むことが出来るのでしょうか。私たちは、将来を導いていくナビゲーションとして何を手にするでしょうか。私たちは、私たちを導いてくださる神様を信じ、神様の御言葉を手にして歩むことが出来ます。ダビデは、常に神様の導きを信じていた人と言えるでしょう。彼はどんなことで神様に信頼していたのでしょうか。
 今日は、サムエル記第一24章を中心に見る事にしましょう。ダビデは、どのようなことで神様を信頼していたのでしょうか。

Ⅰ;今現在について

 ダビデは、今現在の自分の状況について、神様の導きを信じていました。ダビデは、サウルが自分の命を狙っていることが明らかになったことを知り、逃亡生活をすることとなります。サムエル記第一24章では、ダビデは「エン・ゲディ」にある洞穴に隠れていました。サウル王は、ダビデを討伐するためにイスラエル軍の精鋭3千人を率いて出陣します。ダビデの部下は、およそ6百人です。6百人に3千人とは多すぎだと思いますが、サウル王はそれほど狂ったように、ダビデを付け狙っていたのです。エン・ゲディでサウル王は、用を足すために一つの洞穴に入って行きます。なんとそこにダビデが隠れていたのです。サウル王は、「用をたす」ためだけに入って来ていますから当然、無防備です。ダビデたちにとっては千載一遇のチャンスです。4節の言葉の根拠は分かりませんが、部下にしてみれば無防備で入ってくるサウル王を目の前にして、これは、神様が与えてくれたチャンスであると思えたことでしょう。だから「今こそサウル王を殺しましょう」と言うのです。ダビデも少しそう思ったのでしょう。サウル王の上着のすそを切り取ります。でもすぐにダビデは大きな後悔の念に包まれます。王の上着のすそを切り取ると言う行為は、王を侮辱する行為です。ダビデにとって「主に油注がれた方」というのは大きな存在ですから、サウル王が暴君であっても、主が一度お選びになった王に手を下すなど神様に敵対しているのと同じであると考えたのです。そこで6節のように絶対に手を下してはいけないと命じるのです。
 このダビデの振る舞いは、ダビデが自分の歩みについて、神様に信頼していたことの現われだと思います。洞穴の中でサウル王のいのちを取ることは100%可能でしたが、サウル王を殺して、自分がイスラエルの王となったとしても、それは、神様の約束のわざではなく、自分の力で神様の約束を実現したにすぎません。神様の約束は神様の方法によって実現されるものであり、神様の導きによって自分の歩みは確かにされることを、ダビデは信じていたのです。ダビデは安易に自分の考えを優先して行動せず、神様の御心を敏感に知る信仰を持っていたのです。ダビデは、自分の今現在の歩みを確かに導いてくださる神様を信じていました。私たちも普段の自分の歩について、主に信頼するということを意識していきたいものです。

 もう一つダビデが信じていたのは、神様の救いの御手です。ダビデが隠れていた洞穴にサウル王が無防備で入ってきたのは絶好のチャンスでした。けれどもダビデは、サウル王に手を下してはいけないと部下に命じ、サウルを打つことはしませんでした。それは神様の方法ではなかったのです。ダビデは、自分が手を下すことよりも、自分の命を守り、救い出してくださる神様に信頼して委ねていたのです。そこでダビデは自分では復讐しないこと、すべてを神様の裁きに委ねると決めたのです。それがダビデのサウル王への言葉に表れています。「どうか、主が私とあなたの間をさばき、主が私のために、あなたに報いられますように。しかし、私はあなたを手にかけることはいたしません。(12)」「どうか主が、さばき人となって私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて擁護し、正しいさばきであなたの手から私を救ってくださいますように。(15)」ダビデは、神様がサウルと自分との間を正しく裁かれることを信じていたのです。神様もダビデの信仰に答え、ダビデをあらゆる境遇から救い出してくださったのです。神様はご自身に信頼する者を決して見捨てることはなさいません。

 私たちもダビデ同様、救いについて神様に全く信頼しなければなりません。私たちは、苦境に立たされることがあり、時には、人から嫌な事をされることもあるかもしれません。そんな時、私たちは何とか言い返し、仕返しをしてやりたい気持ちを持ちます。しかしダビデの姿から私たちは、全ての問題を神様の御手に委ねることを学ぶ必要があります。私たちは、神様が正しく私たちを導き、さばかれることを知る必要があります。
 それは、私たちの罪の赦しについても言えます。私たちは、自分で自分の正しさを神様に訴えることは出来ません。私たちは、どんなに正しいと思える訴えをしたとしても、神様に対しては罪人だからです。イエス様は、私たちに代わって十字架で神様の裁きを受けて下さり、復活によって救いを完成し、今も生きていて信じる全ての人に救いを与えてくださるのです。この福音は、信じるすべての人に救いを得させる神の力です。神様は私たちを罪の暗やみから救い出し、私たちの心に平安と喜びを与え、すべての面で救いを与えてくださるのです。

Ⅱ;将来について

 ダビデは、将来についても神様に信頼していました。サウル王は、ダビデの訴えを聞いて自分の過ちを認めました。それだけではなくダビデがイスラエルの王となることをさえ認めたのです。Ⅰサムエル24章20節はサウル王の言葉です。「おまえが必ず王になり、おまえの手によってイスラエル王国は確立することを、私は今、確かに知った。」
 一見サウル王は、心を入れ替えたかのように思えますが、その後のサウルの行動を見ると、言葉だけであるのは明らかです。サウル王の考えはやはり、ダビデを抹殺することなのです。ダビデもサウル王の本心が分かっていますから隠れ家である要害に帰ります。

 ダビデが将来について主に信頼しているというのは、詩篇57篇から知ることが出来ます。詩篇57篇は表題にもあるようにダビデが、サウルから逃れ洞窟の中にいた時の歌です。この時のダビデの心境は「私は獅子の中にいます。(4)」「彼らは私の足を狙って網を仕掛けました。私のたましいはうなだれています。(6)」と言うもので安らぐ場所はなく、落ち着ける時はないのです。しかしそのような中でダビデは、すべてを成し遂げてくださる神様に叫ぶのです。神様に身を避け、御翼の陰に身を避けるのです(1-2)。ダビデは自分の将来について「神よ。私の心はゆるぎません(7)」と、すべてのことを成し遂げ最善をしてくださる神様を信頼すると心を決めたのです。そして主に感謝し、主の御名をほめたたえ、主を喜ぶのです。
私たちもダビデのように、将来について神様に信頼し、すべてを委ねることが出来ることを感謝しましょう。ある人は「神様に祈ってもなかなか答えがなく、状況に変化がない」と思い、祈る必要があるのだろうかと神様への信頼が揺らぐことがあるかもしれません。もしかしたら、「自分が祈り願っているようには事が進まない。」ことがあり、「神様が共におられると言うなら、何故自分は苦労ばかりするのか」と思うかもしれません。ある人は、「自分の考えに従って自分の道を進むべきなのではないだろうか」と考えるかもしれません。それでも神様を信頼するべきなのでしょうか。  

今現在私たちは、様々な問題を抱えています。大きな問題は、新型コロナウイルスのことでしょうか。今は感染状況が落ち着いているように見えますが、この先どうなるのか全く予測不可能です。私たちは、将来について不安があり、恐れがあります。
 ダビデは、私たちに「それでも、いやそれだからこそ神様に信頼するべきだ」と言うでしょう。詩篇57編10節の「あなたの恵みは大きく 天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです」の言葉は、すべてが解決してからの言葉ではありません。ダビデは、問題の解決がない苦境にありながら、神様の恵みに目を留め、神様のみわざを信じていたのです。神様の恵みは私たちの考えをはるかに超えているし、私たちが苦境にあればあるほど神様は私たちを見ておられ、私たちの苦しみを知っていてくださるのです。ダビデは、自分の苦境を直視し、将来について不透明な状況で、だからこそ、全てを知っていて確実に導くことの出来る神様を心から信じ信頼したのです。
 私たちは、どうでしょうか。私たちは、ダビデのように「私は いと高き方 神を呼び求めます。私のために すべてを成し遂げてくださる神を(詩篇57:2)」と告白しながら歩むことが出来ます。ダビデを助け導き救い出してくださった神様は、今も私たちを助け導き救い出すことが出来るのです。神様の導きを信じて歩みましょう。

祈り
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。ダビデの信仰の姿を学ばせていただきました。ダビデは、その時その時の現実の中で神様の導きを信じて歩みました。私たちも、今現在の状況の中で、神様の導きを信じてすべてを委ねます。またダビデは将来についても神様を信じて、祈り信仰をもって歩みました。私たちも、これからの将来について神様を信じて歩みます。神様、私たちにはどうする事も出来ないと思える状況があり、将来に対しての不安があり、恐れがあります。そのような中でダビデと同じように、神様に祈ることが出来、全てを成し遂げてくださる神様を求めることが出来る恵みを感謝します。神様、私たちを祝福し、導き助けてください。
 特に、神様、教会に集まっている子どもたちを祝福してください。子どもたち一人一人の人生が神様によって豊かなものとなりますようにとお願い致します。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」